第18話 戦慄
石畳に倒れ伏したまま、アシェルは必死に呼吸を繋ぎとめていた。胸の奥が灼けるように痛み、血が喉を逆流して口の端から滲む。鎧はすでに消え去り、立ち上がることもできない。
「アシェル! 無理に動くな!」
「もう限界よ!」
ゼインとリィナが駆け寄り、肩を抱えようとする。だがアシェルはわずかに顔を上げ、炎の向こうに姿を見た。
ライラ――。
森の街道で助けを乞い、商人を装っていた女。その弱々しい仮面はすでにどこにもない。
炎を背に歩み寄る姿は堂々としており、手のひらにはなおも見えぬ余韻がまとわりついていた。先ほどアシェルを地に叩き伏せた、常識を超えた力の残滓。
「あの力……法術じゃない……」ゼインが唾を飲むように呟く。
リィナは息を詰め、鋭い眼差しをその女に投げつけた。
「あなたはいったい……何者なの……?」
ライラは答えず、静かに笑んだ。その微笑は、言葉より雄弁に「ただの女ではない」と告げていた。
その背後ではライメイがまだ残って迫りくる災魔を戦斧で切り裂いていた。
「邪魔をするなぁっ!!」
広場に轟く咆哮。
漆黒の鎧を纏い、獅子を象った兜を戴く男が斧を振り下ろす。
振り抜かれた斧から奔る白光が災魔の群れを一掃する。刃の軌跡に閃光が走り、轟音とともに霊鋼の欠片が雨のように降り注ぐ。
獅子の鎧は燦然と炎を反射し、群衆の絶望の中にただ一人の救済の姿を見せつけていた。
広場に残った災魔は、彼の斧で殲滅された。
粉塵の中、ライメイは斧を構え直し、正面に立つ女へと視線を向ける。
「……これで邪魔は片付いた。それで貴様……何者だ。さっきの攻撃はただの人間が放てるものじゃない。」
重低音の声が兜の奥から響いた。
ライラは肩を揺らし、笑う。
「私が分からないの?そりゃそうよね。あなたにしてみれば、法術師なんて捨て石。覚えているはずがないわ。」
その一言に、ライメイの兜の奥の目が光を帯びた。
「貴様……何を言っている……」
次の瞬間、ライメイが斧を振りかぶりライラ迫るのを合図として戦いが始まる。
ライメイが突進する。鎧を軋ませ、斧を振りかざす。その斬撃は大地をも断ち割る雷の如き威力。
ライラはかわすと同時に地へ指を走らせ、足元から黒鉄の鎖を噴き上がらせる。
「鎖ごときで俺を止められるか!」
ライメイの斧が火花を散らし、鎖を一撃で粉砕した。石片が飛び散り、粉塵が舞う。
すかさずライラの掌が広がる。
見えぬ力が爆ぜ、空気が弾けた。
衝撃が奔り、ライメイの巨体を横へ吹き飛ばす。鎧が火花を散らし、石畳が砕ける。
「ぐっ……!」
よろめきながらも、ライメイは倒れない。
斧を地に叩きつけると、刃先から白光が奔り、広場一帯に雷の波が広がった。
雷が鎖を焼き切り、火花が爆ぜる。
ライラは両腕を交差させて耐えながらも、一歩、また一歩と前に出て、再び衝撃を放つ。
空気がねじ切れ、石畳が抉れる。
だがライメイの斧は止まらず、両者は激突を繰り返した。
アシェルは視界の端でその戦いを見ていた。
雷を纏う獅子と、不可解な術を繰り出す女。
どちらも常軌を逸した存在で、自分など入り込む余地はない。
ゼインが歯を食いしばり、小声で言う。
「……あの女……普通の人間じゃない……」
リィナは険しい眼差しを崩さず、立ち上がろうとするアシェルの肩を押さえた。
「動かないで。あなたはもう限界よ。」
アシェルはかすかに頷き、血の味を飲み込み悔しさに唇をかんだ。
ライラとライメイの戦況はやがて傾いた。
「これで終わりだ!」
ライメイが一瞬の隙を見せたライラに雄叫びとともに踏み込む。
斧の一撃がライラの身体を捉え、ライラが張った結界を通して衝撃波を伝えライラは大きく吹き飛ばされた。瓦礫の中に叩きつけられ、石片が四散する。
ライメイは迷わず追撃した。
巨体を躍らせ、ライラの首を片手で掴み上げる。獅子の兜の下から、烈火のような眼光が注がれる。
「その力はなんだ! 貴様がこれを引き起こしたのか!」
ライラは苦しげに喉を押さえられながらも、笑った。
「……やっと近くに来てくれたわね……」
その手が鎧の胸に触れる。
瞬間、禍々しい力が流れ込んだ。
漆黒の鎧が震え、金属音を響かせる。
ライメイの目が驚愕に見開かれた。
「な……何をした……!?」
鎧が拒絶するかのように分解を始める。
肩当てが外れ、胸甲が軋みを上げ、黒い光の粒となって散り去った。
ライメイが腕を伸ばしても、鎧は主を見限ったかのように離れていく。
漆黒の鎧は宙を舞い、ライラのもとへ吸い寄せられる。
そして――彼女の身体を覆った。
闇の鎧を纏ったライラが立っていた。
ライメイより二回り小柄なライラの体に鎧は変化しその体に装着された。
炎に照らされたその姿は、もはや法術師の影ではない。
英雄の象徴であるはずの鎧が、異端の女を主と認めていた。
「……な……ぜだ……」
裸同然の身体で地に膝をついたライメイが、震える声で叫んだ。
「俺の……鎧が……! なぜ……!返せそれは俺の!」
ライラは冷笑を浮かべ、斧が変化し腰につけられた剣の柄を握る。
「虚像にすがった英雄なんて、こんなものよ。」
瞬間、漆黒の剣抜き放たれる。
そしてライラが振り抜くと、闇を裂く音とともに鮮血が飛んだ。
「ぐあああああっ!!」
ライメイの右腕が宙を舞い、続けざまに左腕、両脚が切り裂かれる。
獅子の英雄は呻き声とともに石畳に転がり、血と土にまみれた。
ライラの鎧姿が、冷たくその残骸を見下ろしていた。