第17話 雷獅子
森を抜けた先に広がる光景に、アシェルは息を呑んだ。
街――ドラスはすでに火の海と化していた。
燃え盛る炎が石造りの家々を包み、赤黒い煙が空を覆い隠す。人々の悲鳴が重なり合い、どこからともなく獣の咆哮がこだましていた。災魔の群れが町中を蹂躙し、石畳には血と瓦礫が散乱している。
アシェルはふらつきながら立ち止まった。満身創痍の体は悲鳴を上げており、一歩を踏み出すたびに胸の奥で焼けるような痛みが走る。それでも――彼はここまで来た。ライラがこの街を狙うと確信していたからだ。
肩で息をしながらも、彼は剣を抜き放った。
炎の中を逃げ惑う人々の姿が目に入る。災魔が背後から追いすがり、その爪が今まさに子供の背を裂こうとしていた。
「……っ!」
アシェルは体を引きずるように駆け出す。脚は悲鳴を上げ、肺は酸素を求めて軋む。だがその全てを無視して、右手を地面へ叩きつけた。
紋章が眩く輝く。
掌の紋と同じ模様が石畳に広がり、そこから鋭い金属音と共に漆黒の鎧が立ち上がる。鎧は粒子となってアシェルの体を包み、一瞬にして装着が完了した。
燃え盛る炎を背に、黒き守護者が立ち上がる。
「やめろォォォッ!!」
剣を振るう。鋼の軌跡が赤い閃光を切り裂き、災魔の体を真っ二つに断ち割った。血と瘴気が舞い散るが、住民の子供はその隙に母親の腕に抱きとられ、泣きながら逃げていく。
背後でゼインが怒鳴った。
「アシェル! もう無理だ、これ以上鎧を使うな!」
リィナも険しい声を重ねる。
「体は限界よ! そんな状態で鎧を纏えば――!」
アシェルは歯を食いしばり、叫び返した。
「黙ってろ! ここで動かなきゃ、誰が人を守るんだ!」
炎と血煙の中、彼は剣を振るい続けた。
狼型の災魔が牙を剥いて跳びかかる。アシェルは反射的に身をひねり、剣を逆袈裟に振り抜いた。火花が散り、獣の体が切り裂かれる。振り向いた瞬間、鳥型の影が急降下してくる。アシェルは盾のように剣を構え、直撃を受け止めた。
衝撃で腕が痺れ、膝が崩れそうになる。だが倒れるわけにはいかない。
「……俺は……守護者だ……!」
自分に言い聞かせるように叫び、剣を振り払う。
炎に照らされ、鎧の黒が赤く染まる。その姿に、逃げ惑う住民が一瞬だけ足を止め、希望のような視線を向けた。
アシェルはその視線を背負い、血を吐きそうになりながらもさらに前へ進んでいった。
血と炎に覆われた道を、アシェルは必死に進み続けた。
石畳は割れ、瓦礫に足を取られながらも、一歩、また一歩と前へ。背後ではゼインとリィナが住民を誘導している。彼らも決して戦力ではないわけではない。だが――人々を守りながら同時に群れを止めることはできない。
それを担うのは守護者の役目。
アシェルは己の震える脚を叱咤し、剣を握り直した。
やがて広場に出た瞬間、眩い閃光が闇を裂いた。
雷鳴。
轟音と共に、紫電が空気を焼き、災魔の群れを一瞬で焦がし吹き飛ばした。
その中央に――漆黒の鎧を纏う巨躯が立っていた。
兜は獅子の頭を模し、鋭い鬣の意匠が炎の光に照らされて黄金のように輝いている。両手に握るのは巨大な戦斧。刃は雷を纏い、振るうたびに轟音が街中に響き渡る。
「……あれが……“雷獅子”ライメイ……」
アシェルは息を呑んだ。
その豪胆な姿は、ほんの少し前にライラから聞いた名そのもの。だが、目にした現実は想像を遥かに超えていた。
ライメイは巨斧を大きく振り抜いた。
刃が炎を裂き、同時に奔る雷光が災魔を焼き尽くす。黒焦げの肉片が飛び散り、瘴気が煙のように広がった。
「ガァァァァッ!!」
別の狼型が突進してくる。ライメイは地を踏みしめ、雷光を纏わせた斧を振り下ろした。稲妻が地面を走り、獣の動きを止める。次の瞬間、雷鳴と共に獣は爆ぜ飛んだ。
その戦いぶりはまさに獅子王。
だが、アシェルの胸には別の感情が生まれていた。
「おい、そこの守護者!」
ライメイが振り返り、鎧の奥から響く声がアシェルを射抜いた。
「立ってるなら手伝え! いつまで突っ立っている!」
命令のような口調。まるで自分が無力だと断じているかのような声音。
アシェルの歯がきしむ。
助けを求められたのではない。命令されたのだ。
人々を守ろうと必死に立ち上がった自分を、一顧だにせず。
「……チッ……!」
だが反論する暇などなかった。
再び群れが押し寄せてくる。アシェルは剣を握り直し、血を吐きそうな胸を押さえながら飛び込んだ。
雷光と剣閃が交錯する。
ライメイの斧は群れをなぎ倒し、アシェルの剣はその隙間を縫って肉を裂く。リィナの術符が後方で輝き、ゼインの封印が飛び交った。
だが、ライメイは振り返ることもなく、ただ一方的に命令を飛ばすだけだった。
「もっと前に出ろ! 守護者なら死ぬ気で戦え!」
アシェルは怒りで胸を焼かれながらも、必死に斬り結ぶ。
雷光が爆ぜ、血煙が上がる。広場はまるで戦場そのものだった。
戦場の熱気はさらに増していた。
ライメイの斧が雷鳴を響かせるたび、災魔の群れは爆ぜ飛ぶ。だが、数は減らない。むしろ奥から次々と押し寄せ、街を飲み込もうとしていた。
アシェルも必死に斬り結ぶ。鎧の力で振るう剣は鋭い。だが、そのたびに体の奥が軋み、喉から血がこみ上げる。
「はぁっ、はぁっ……!」
視界が赤く滲み、腕は重くなっていく。それでも足を止めるわけにはいかない。住民たちの悲鳴が背を押していた。
「アシェル! もう限界よ!これ以上は……!」リィナの叫びが聞こえる。
「お前の身体が壊れるぞ!」ゼインの声も届く。
だが、アシェルは唇を噛みしめ、返事をしなかった。
今、立ち止まれば人々は死ぬ。自分が守護者を名乗る資格などない。だが、剣を振るうことはできる。
その決意だけが、彼を支えていた。
広場の中央では、ライメイが豪快に戦い続けている。
雷を纏った戦斧が災魔をなぎ払い、稲妻の奔流が敵の群れを押し止めていた。
しかし――その時だった。
轟音の群れを割るように、異質な気配が広場に流れ込んだ。
「……っ!」
アシェルの背筋に悪寒が走る。
炎の向こう、災魔の群れの後方に、一人の女が立っていた。
フードを脱ぎ、整った顔を炎に照らし出す。
白い肌に、黒い瞳。艶やかな微笑みを浮かべる女――ライラ。
「……ライラ……!」
アシェルの心臓が跳ね上がる。
ライラの右手が、ゆっくりと掲げられた。掌に力が収束し、稲妻のような光が奔る。空気が歪み、次の瞬間には轟音と共に巨大な衝撃波が放たれた。
「避けろッ!!」
アシェルは咄嗟に横へ飛び出そうとした。だが――
全身に電撃が走った。
「ぐっ……! あああっ!」
痺れるような痛みが四肢を貫き、身体が硬直する。視界が白く弾け、呼吸が止まった。
その瞬間――
背後から影が動いた。
ライメイ。
彼はアシェルの肩を掴むと、迷いもなくその身体を前へ突き出した。
「なっ……!」
衝撃波が直撃する。
凄まじい圧力が鎧ごとアシェルを貫いた。骨が砕けるかと思う衝撃。肺の奥から血が噴き出し、喉を焼く。
「がはっ……!!」
鎧が閃光に包まれ、一瞬で霧散した。
右手の紋章が焼けるように熱を放ち、装着は強制的に解除されてしまう。
守護の甲冑は消え、ただの若者の身体だけが地面に叩きつけられた。
石畳が砕け、血が広がる。
アシェルは気絶する寸前の意識を必死に繋ぎ止める。
霞む視界の先に、ゆっくりと歩み出る女の姿が見えた。
ライラ。
掌からまだ魔力の残滓が迸り、ビリビリと電気が走っている。
その表情は愉悦に満ち、冷たい笑みが炎に照らされていた。