第16話 血煙の洞窟
災魔の群れが洞窟の闇を埋め尽くしていた。
牙が石を削り、羽音が空気を裂き、瘴気が白い霧のように充満している。
地鳴りのような咆哮が壁を震わせ、赤い光が封印器から滴る血のように洩れていた。
アシェルは漆黒の鎧を纏い、その中心で必死に剣を振るっていた。
刃は風を切り、金属と肉を同時に裂く音が洞窟にこだました。
最初はその切れ味に自ら驚いた。鎧を通して身体が勝手に動くかのようで、剣筋は鋭く、災魔の皮膚も鱗も斬り裂いていく。
だが、戦いは終わりが見えなかった。
「っ……はぁ、はぁっ……!」
呼吸が追いつかない。肺が焼け、胸の奥が削れるように痛む。
振るう度に、内臓の奥で何かが軋みを上げた。鎧が力を貸しているのではない。鎧が力を奪い取り、無理やりその代価で戦わせている――そんな感覚だった。
剣を振るえば振るうほど、意識はかすみ、目の前の災魔の姿が母と妹を喰らった獣と重なる。
災魔の赤い瞳が、あの日の声を引きずり出す。
『……タベタノハ……カラダ……』
『……ホントウノ……エモノハ……オマエノ……ココロ……』
『……オマエ……ノコス……クヤシメ……ウマクナル……』
「黙れぇぇぇぇぇっ!!!」
アシェルは叫びながら斬り裂いた。
刃は確かに敵を倒すが、そのたびに頭の奥で声が響き、胸が抉られる。
母の絶叫が、妹の泣き顔が、鮮烈に蘇る。
周囲には災魔の屍が積み上がり、災魔が滅せられた証の霊鋼が散乱していた。
光を放つはずの霊鋼は、今は不気味に濁って見える。
空気は瘴気で満ち、肺に入れるたびに吐き気が込み上げた。
「くそっ……!」
「アシェル! しっかりしろ!」ゼインの叫びが耳の奥で響く。
「意識を持っていかれないで!」リィナの声も、霧の向こうから必死に届く。
ゼインは符を広げて走り回り、開きかけた封印器を再び閉じようと術を組む。
災魔が飛びかかってくると、ゼインは両腕を広げて結界を展開し、アシェルの背を守った。
「ぐぅぅっ……! 数の暴力ってか……!」
結界に牙が突き立ち、罅割れが走る。ゼインの額に汗が噴き出す。
その横でリィナが札を叩きつけると、地面から石の柵が隆起し、数体の災魔を一時的に閉じ込めた。
「アシェル!持ち堪えて!」
リィナの声に、アシェルは剣を構え直す。
だが、足は震え、視界は赤黒く揺れていた。
狼型が三体同時に跳びかかってくる。
アシェルは反射的に刃を横薙ぎに振り払った。
金属音と同時に、災魔の首が飛ぶ。瘴気が吹き荒れ、血飛沫が熱い雨のように降り注いだ。
続けざまに、蛇型の災魔が地面を這って背後に回り込む。
アシェルが気づく前に、リィナの札が光を放ち災魔を弾いて後退させる。
「集中して! あなたが崩れたら全員死ぬ!」
リィナの怒声に、アシェルの意識が僅かに戻る。
「まだ……俺は……!」
剣を振り下ろし、迫る鳥型を地に叩き落とす。
だが、次の瞬間、視界の端に母の影がちらついた。
――血に染まり、崩れ落ちる姿。
――妹の小さな手が、赤に沈む光景。
「はぁっ、はぁっ……!」
胸をかきむしりたくなるほどの痛み。
幻影が重なり、災魔が母と妹の顔に変わる。剣を握る手が震えた。
「アシェル!」ゼインが叫ぶ。「持ちこたえろ! お前まで飲まれるな!」
ゼインは術式を展開し、アシェルの正面に結界を走らせた。
だが、災魔の猛攻は止まらない。牙と爪が結界を裂き、石の床に火花が散る。
「くそ、どうすりゃいい……!」ゼインの声に焦りが滲む。
アシェルは膝をつきかけた。その瞬間、頭上を見上げる。
瘴気が天井の岩間から吸い込まれるように抜けていた。
そこから微かな風が漏れてくる。
「一か八かか……!」
アシェルの瞳に光が戻る。
「二人とも! 俺のことを信じるか!」
一瞬の沈黙。災魔の咆哮が洞窟を揺らす中、ゼインは歯を食いしばって頷いた。
「ここまできたら、一蓮托生だ!」
リィナも札を握り締め、冷静な声で返す。
「もう手もない……信じるわよ。なんとかしなさい!」
アシェルは瘴気が流れる天井を見上げる。
「後悔するなよ――ッ!」
全身の力を叩き込み、剣を振り抜き衝撃波を放つ。
轟音が洞窟を震わせ、天井に大きな亀裂が走った。
岩屑が雪崩れ落ち、白い粉塵が視界を覆った先に濁った空が現れ光が差し込む。
「つかまれ!!飛ぶぞ!」
ゼインとリィナは迷わずアシェルの腕にしがみついた。
崩落の音が迫り、天井の穴から朝の光が覗く。
その瞬間、アシェルの背の鎧が変形した。
硬質な羽が展開し、甲冑の背から翼が広がる。
風切り音が洞窟を裂き、砂塵が吹き飛んだ。
「落ちるなよ!」
翼を大きく羽ばたかせ、三人を抱えたアシェルが舞い上がる。
石が崩れ、暗闇が飲み込もうと迫る中、アシェルは力の限り上昇した。
「きゃーーーーーーー絶対に離さない!」リィナの声が背に届く。
「うわーーーーーーー!」ゼインの怒鳴りが響く。
鎧を纏っていないゼインとリィナを急上昇に伴う風圧が襲う。
最後の羽ばたきで、三人は天井の裂け目を抜けた。
上空から災魔を埋めるように洞窟が崩落していくのが見える。
眩い朝焼けの光が視界を埋め尽くす。
冷たい風が頬を打ち、瘴気が一瞬で吹き払われる。
外の世界の匂いが肺に流れ込み、三人はようやく息をついた。
アシェルは羽ばたきを弱め、ゆっくりと地面に降り立った。
着地と同時に、鎧が軋みを上げながら外れ、地面に出現した紋章に吸い込まれていく。
ゼインとリィナはアシェルから離れ心配そうにアシェルを見下ろす。
アシェルは片膝をつき、荒く息を繰り返した。
「……あぶなかったわ」リィナが小さく言う。手は震えていたが、安堵の色が混じる。
「ギリギリだったな……死ぬかと思った。」ゼインも地面に座り込み、大きく息を吐いた。
アシェルは顔を上げ、なお荒い呼吸の中で言葉を絞り出す。
「……ライラを追わないと……また犠牲者が出る……!」
その目は赤く充血し、汗と煤にまみれていたが、揺るぎない光を宿していた。
「そうね……行きましょう。」リィナが頷く。
「歩けるか、アシェル?」ゼインが肩を差し出す。
二人に支えられ、アシェルは立ち上がる。
脚は鉛のように重かった。それでも一歩を踏み出す。
三人は朝焼けに照らされながら、森の奥へと進み出した。
崩れた洞窟の轟音は遠くなり、残されたのは冷たい風と、新たな決意だけ。
ライラを追うために歩き出す三人。
アシェルの胸に、再び災魔の声が微かに蘇った。
『……ホントウノ……エモノハ……オマエノ……ココロ……』
奥歯を噛み締め、その声をかき消す。
三人の影が長く伸び、朝焼けの森に溶けていった。