第15話:盗まれた封印機
夜明け前、まだ薄暗い森に、鋭い悲鳴が木霊した。
乾いた空気を震わせるその声は、命が断ち切られる寸前の叫びだった。
アシェルたちは一瞬だけ視線を交わすと、言葉もなく同時に駆け出した。
心臓が早鐘を打つ。足音が湿った土を叩くたび、悲鳴が近づいてくる。
――視界が開けた先。
そこには一台の馬車があった。
だがその周囲を、墨を流したような漆黒の毛並みを持つ狼型災魔が取り囲んでいる。
真紅の双眸がぎらぎらと光り、獲物を追い詰める狼の群れが低く唸り声を上げていた。
裂けた口からは長い舌がだらりと垂れ、狂気の笑みを刻むように牙を剥き出す。
その不気味な唸りが恐怖を煽り、馬は錯乱し、馬車は今にも横転しそうに軋んでいた。
馬車の傍らで必死に手綱を握る女性が一人。
くすんだ色のローブに、丈夫さだけが取り柄の野暮ったい商人服――
だが、そのフードからのぞく白い頬と整った顔立ちは、粗末な服装では隠しきれない美しさを放っていた。
まるで薄汚れた布に無理やり押し込められた宝石のように、その存在感は異質だった。
こんな山道を一人で進むには、あまりにも危うい。
「くっ……だれか……助けて……!」
震える声が、アシェルの胸を突き動かす。
「うおおおおおっ!!」
アシェルは反射的に腰の剣を抜き、狼型災魔へ飛び込んだ。
冷たい朝霧を裂いて、鋼の刃が振り下ろされる――しかし!
ヒュッ、とわずかな音とともに、災魔の影が視界から消えた。
刹那、背後に回り込んでいた災魔の爪が、閃光のようにアシェルの脇腹を打ち据える。
「ぐっ……うあああっ!」
焼けるような激痛が走り、アシェルの体は無様に地面へと叩きつけられた。
肺の空気が一気に吐き出され、視界がぐらりと揺れる。
馬車の女性が悲鳴を上げる。
ゼインが鋭く叫んだ。
「アシェルッ!!」
アシェルは血の味を感じながらも、歯を食いしばって膝を突く。
痛みも恐怖も、今は構っていられない。
頭の中で妹と母の断末魔がよみがえり、怒りが胸を焼く。
「……クソッ……鎧を――!」
右手の甲が灼けるように熱を帯び、地面へと叩きつけられる。
紋章が淡く輝き、地面に複雑な光の模様が広がりかけた、その瞬間――
「待て、アシェルッ!!」
ゼインの怒声が森を震わせる。
「こんな雑魚に鎧を使うな! 鎧は命を削る切り札だ!」
「でも、このままじゃ――!」
「俺とリィナがいる!」
ゼインの叱咤が鋭く突き刺さる。
アシェルは拳を震わせながらも、唇を強く噛んで動きを止めた。
「……くっ……!」
「しょうがないわね。」
リィナが低くつぶやき、指先を素早く地面へ走らせる。
複雑な模様が瞬時に描かれ、練成陣が眩い光を放った。
大地がうねり、巨大な岩柱がせり上がる。
そのまま狼型災魔の四肢に絡みつき、ギチギチと締め上げた。
「ゼイン、今よ!」
「応!!」
ゼインは即座に印を結び、地面一帯に封印の紋章を展開。
光の鎖が無数に伸び、拘束された災魔の首に絡みつく。
「封印――鎖葬ッ!!」
鎖は災魔を岩の拘束から引き抜くように宙へと持ち上げ、そのまま地面に置いた封印機へ叩き込む。
ガシャン!と重い音が響き、封印機が淡い光を灯した。
「ギィィィィ……」
低い怨嗟の声が封印機の中から漏れ出し、アシェルの背筋を冷たく撫で上げる。
荒い呼吸を繰り返しながらも、アシェルは剣を地面に突き立てて立ち上がった。
役に立てなかった自分への悔しさが胸を締めつける。
「……クソ……俺は……また何もできなかった。」
その横で、狼型災魔を失った群れが森の奥へと散っていく。
危機が去ると同時に、馬車の女性は力が抜けたようにその場へ膝をついた。
「た、助けていただき……ありがとうございます……!」
震える声で礼を述べたその女性は、深々と頭を下げた。
近くで見ると、その容姿は息を呑むほど整っており、野暮ったい商人服とのギャップがより一層際立つ。
「俺たちがたまたま通りがかっただけだ。無事でよかったな。」
ゼインは短く言い放つが、ライラは目に涙を浮かべ、必死に訴える。
「どうか……この近くの町まで、一緒に行ってはいただけませんか?
一人でここを進むのは……もう、怖くて……」
アシェルはうなずきながらも、悔しげに視線を落とす。
戦闘中、何一つ役に立てなかった自分が情けなかった。
「……わかった。俺たちもそっちへ向かってる。」
ライラは心底ほっとしたように微笑み、深く息を吐いた。
馬車が動き出し横を歩くアシェル、ライラの視線がアシェルの右手の甲に止まった。
そこには、鎧召喚の紋章が刻まれている。
「あら……その紋章……まさか、あなた……守護者様ですか?」
「ああ……そうだ。」
アシェルは少し言いにくそうに頷いた。
「でも……最近、ようやくなったばかりなんだ。
見ての通り、まだ何もできやしない。」
ライラは驚きの声を上げ、それからぱっと表情を明るくする。
「まあ! なら、これから修行に行かれる途中なのですね?」
「カーネの修練場に行くんだ。
修行して、災魔を滅ぼせる本物の守護者になるために。」
アシェルが自嘲気味に笑うと、ライラは期待を込めた目で見つめてきた。
「それなら、ぜひお願いです。この先の町まで護衛を……!」
「あなたの目的地はどこなんですか?」
道中、ライラは目的地の話を始めた。
歩いて五日ほどの距離にある中継都市ドラスが目的地だという。
「ドラスには、恐れ知らずの守護者様がおられるんです。
お名前はライメイ様。“雷獅子”と呼ばれています。」
「雷獅子……?まさか二つ名持ちか!」
ゼインが小さくつぶやくと、ライラは誇らしげに続ける。
「ハイ、そうです。雷を纏った戦斧で、幾多の災魔を討ち滅ぼしたお方です。
あの街はライメイ様がいるからこそ、未だに平和を保っているんです。」
アシェルの胸に熱いものが宿る。
自分もいつか、そんな存在になりたいと――強く思った。
そんな話をしつつ峠を越えたところに広場が見つかり、その日は野営をすることになった。
「わかりました、俺たちの目的地の途中だしドラスまで一緒にいきましょう。リィナ、ゼインいいよね」
ゼインとリィナは頷き言う
「あなたが決めたのなら反対はしないわ」
「俺も別にいいぞ」
ライラは改めて頭を下げる
「みなさん、ありがとうございます。」
そして夜がふけていき、山道の開けた場所で焚き火を囲んでいた。
アシェルはゼインに問いかけた。
「なあ、ゼイン……あの封印機に閉じ込めた災魔は……どうするんだ?」
「……各町には封印機の回収所がある。
だが最終的にはゴウライ山の火口に投げ捨てるんだ。」
「火口……? それで滅びるのか?」
ゼインは暗い表情で首を振った。
「いや……滅びはしない。
災魔は怨念そのものだからな。
火口は怨念で満ちていて、奴らは数年後には溶岩に耐性を得て復活する……。
今じゃ、熱が効かない災魔の生息地になってる。」
「……じゃあ、どうして……?」
「どこかに捨てなきゃならねえんだよ。
だが捨て場はどんどん減っている……。
この世界は、もう限界に近い。」
アシェルは息を呑み、拳を握りしめた。
そんな二人の様子を遠目で見つつリィナはライラを怪しむ瞳で見続けていた。
翌朝――。
アシェルが目を覚ますと、馬車が消えていた。
そして、ゼインの封印機も。
「……っ! 封印機が……ない!?」
ゼインの怒声が森に響く。
「あの女……ライラ……災魔をどうする気だ!」
リィナは冷静に状況を分析した。
「急がないと。封印術は七日で切れる。
そのままだと災魔が外に出てしまうわ。」
アシェルは顔を上げ、決意を込めて叫んだ。
「追うぞ! あの商人、ライラから封印機を取り戻さないと」
三人は馬車の轍を辿り、山道を全力で駆け抜けた――。