第10話 誓い
ちょっと納得いかなかったので書き直しました
夜の帳が町を包み、広場の混乱もようやく収まりつつあった。
封印術の鎖がまだ地面に淡く残光を放ち、あちこちで泣き叫ぶ人々が避難していく。
ゼインは封印器を手に、アシェルを睨みつけた。
その目は怒りと、抑えきれない焦燥で揺れている。
「……お前、さっきの戦いで死ぬところだったんだぞ。」
アシェルは返事をせず、ただギリギリと歯を噛みしめた。
胸の奥では、災魔に奪われた母と妹――アリアの最後の悲鳴と、広場で泣きじゃくっていた少女の姿が交錯している。
「……全部……滅ぼす……一匹残らず、この手で……!」
その声は血を吐くような憎悪に満ちていた。
ゼインは何かを言いかけたが、その前にアシェルの視界がぐらりと揺れ、膝から力が抜けていく。
「おい、待て! しっかりしろ!」
ゼインの叫び声を最後に、暗闇が一気に押し寄せた。
――そこでアシェルの意識は途切れた。
薬草の匂いで、アシェルは意識を取り戻した。
木造の天井と、壁際に並ぶ器具が目に入る。
見知らぬ部屋にいることに気づき、心臓が跳ね上がる。
「……ここは……?」
上体を起こそうとした瞬間、鋭い痛みが全身を駆け巡り、思わず顔をしかめた。
「まだ無理に動かないで。」
落ち着いた声がして、アシェルは首だけを横に向ける。
そこには白衣姿のリィナが立っていた。
疲労を隠しきれない表情ながら、瞳には強い光が宿っている。
「あなたが広場から戻らないから探しに出たの。
そしたら……ゼインがあなたを抱えていて。
その場で引き取って、ここに運んできたわ。」
「ゼインが……」
アシェルは昨夜の記憶を必死にたぐる。
災魔の咆哮、少女の悲鳴、ゼインの封印の光――そして自分の絶叫。
そこから先は闇に閉ざされていた。
リィナはベッド脇に腰を下ろし、アシェルを見据える。
その視線は冷徹だが、敵意はなかった。
「……一つ、聞かせて。
どうしてあんな勝ち目のない状況で、災魔に立ち向かったの?」
アシェルは拳を震わせながら答える。
「……守りたかったんだ。あの子を……もう二度と、母さんやアリアみたいな犠牲を出したくなかった。」
言葉は震えていたが、そこには確固たる意思があった。
リィナは短く目を伏せ、それから再びアシェルを見た。
「戦う力が欲しい?」
アシェルは迷わず頷く。
「……欲しい。」
「その力を手にすれば……魂を使い果たし必ず死ぬ、それでも構わないの?」
一瞬、沈黙が落ちる。
母と妹の笑顔、焼け落ちた村、あの夜の炎と血が脳裏に浮かぶ。
アシェルは奥歯を噛み締め、吐き出すように叫んだ。
「構わない!
俺は災魔を……一匹残らず、この世界から滅ぼす」
リィナは奥の封印室に視線を向ける。
そこは扉で閉ざされ、淡い青光が隙間から漏れていた。
「あなたが以前、ここで共鳴した鎧……あれは特別なものよ。
災魔将の霊鋼だけで作られた、唯一の鎧。」
「唯一……?」
「普通の鎧は霊鋼以外にも複数の素材を混ぜて力を均衡させる。
でも、あれは純粋な災魔将の力そのもの……誰一人として纏えなかった。」
リィナの声がわずかに震える。
「完成には最後にもう一つ、災魔将の霊鋼が必要だった。
あなたが持ち帰ったそれで、鎧は完全な姿になる。」
「ギルバートが命懸けで……!」
「ええ。そして――」
リィナは真剣な眼差しで告げる。
「鎧と共鳴できたのは、あなただけ。
幾人もの守護者、高名な武芸者が鎧に挑んだ、でも共鳴はできなかった。
この世界で唯一、鎧を扱える存在があなたなの。」
アシェルは息をのんだ、災魔への憎しみを晴らす手段が目の前に提示されている。
「……あの鎧で、災魔を滅ぼしなさい。」
その時、扉が勢いよく開かれた。
「待て、リィナ!!」
ゼインが立ち尽くし、険しい目で二人を睨む。
会話の終わりを偶然聞いてしまったのだろう。
「お前……本気でアシェルを守護者にするつもりか!?
あの鎧を纏えば、必ず命を削られ、最後には――!」
「分かっているわ。」
リィナは冷たく遮る。
「分かっているからこそ、彼に託すしかないの。
法術師が封印を繰り返しても、災魔は滅びない。
本当に断ち切れるのは、守護者だけ。」
「それじゃあたんなる駒だ!命を何だと思っている!」
ゼインが怒鳴る。
「人の命を世界のために使い潰すだけじゃないか!」
「駒じゃない。」
リィナの瞳が揺らぐ。
「彼自身が選んだのよ。……命を懸けて戦うと。それにアナタもあの鎧に共鳴できなかったでしょ。」
ゼインは言葉を詰まらせ、アシェルを見た。
アシェルはまっすぐに立ち、強い声で答える。
「……俺は戦う。もう二度と……誰も奪わせないために!」
ゼインは苦悩の表情でアシェルの前に立ち、肩を強く掴んだ。
その手は震えている。
「やめろ、まだ間に合うんだ!」
ゼインの声は必死そのものだった。
「お前は……まだ引き返せる! あの鎧を纏えば、もう戻れなくなる。戦い続け、魂を削り、最後は……!」
ゼインの言葉は怒鳴り声に変わる。
「俺は何人もの守護者が散っていくのを見てきた!お前まで同じ目に遭わせたくないんだ!」
アシェルは肩を掴むゼインの手をゆっくりと外し、真っ直ぐに彼を見返す。
「ゼイン……だったかな?……ありがとう。こんな俺の心配をしてくれて、でも、俺はもう決めたんだ。」
叫ぶように絞り出すように言葉をつなげる。
「胸の奥でずっと母さんと妹の最後の叫びが聞こえるんだ、無残に災魔に殺される村の人々の悲鳴、燃える村、あの夜の灰と血の匂いが消えないんだよ。災魔を滅ぼさなければ、その種は芽吹いて俺を飲み込む。何もいらない、命さえも、俺は俺の願いのために災魔を滅ぼす。もう以外の祈りは持てないんだ。」
その瞳には恐怖も迷いもなく、ただ決意だけが宿っていた。
「俺が戦わきゃ、また誰かが母さんやアリアみたいに奪われる。
だから……この命を懸けてでも、災魔を滅ぼす!」
ゼインの顔が苦悶に歪む。
「……っ、バカ野郎……!」
壁を拳で叩きつけると、ゼインは背を向けた。
「勝手にしろ……!」
吐き捨てるように言い残し、ゼインは研究所を出て行った。
扉が閉まる音が、重苦しい余韻を残す。
リィナは深く息を吐き、奥の封印室の扉を開いた。
冷気が一気に広がり、青白い光が部屋を満たす。
中央の台座には、不気味な黒い鎧が静かに浮かんでいた。
その鎧は低い唸り声のような音を響かせ、まるで生き物のように脈動している。
闇を凝縮したかのような存在感に、アシェルの背筋が凍った。
「アシェル……あなたの手に、この鎧を委ねるわ。」
リィナはアシェルの左手を取り、儀式用の器具を押し当てる。
灼けるような激痛が走り、アシェルは思わず歯を食いしばった。
アシェルの手の甲に鷲を思わせる紋章が浮かび上がる
「これが……契約の紋よ。あなたと鎧を繋ぐ証。」
床に複雑な紋様が浮かび上がり、鎧がゆっくりと降りてくる。
不気味な闇の光が部屋を包み込み、空気が重く沈む。
アシェルは一歩踏み出し、深く息を吸い込んだ。
母とアリアの笑顔が脳裏に浮かび、それが炎に焼き尽くされる光景がよぎる。
「……俺はアシェル。この命を懸けて……災魔を滅ぼす!」
その誓いに応えるように、鎧が咆哮を上げた。
黒い影がアシェルを包み込み鎧がアシェルに装着された。
そして重厚な音と共に鎧のパーツが順に閉じていく。
鎧と同調した瞬間、何かがアシェルの内部で砕け散った。
最初に襲ってきたのは音ではない。無数の記憶の潮が、一斉に押し寄せる感覚だった。
鋼の冷たさが皮膚 を這うよりも先に、見知らぬ声が頭蓋の奥底で囁き始める――低く、貪欲で、古い怨嗟の重みを帯びた声。
断片的な情景が映像のように流れ込む。燃え盛る村屋の崩れる音。
引き裂かれる肉の湿った匂い。刃に遮られた叫び。血で光る夜空。
どれも既視感を伴わず、しかし痛烈に胸の奥を突き刺す。
同時に鎧自体の「意思」が押し寄せてきた。
霊鋼に刻まれた数多の災魔将たちの残り火が、冷たい触手のように彼の心を撫で、根を張ろうとする。
彼らの怒り、執着、残虐の論理――それらが一つずつ、輪唱のように重なり合い、アシェルの理性を押し潰していく。
鎧の意思がアシェルを飲み込もうとする。「力を使え。奪え。滅せ。」その命令の反響は、胸腔を震わせ、彼の血を沸かせた。
身体は勝手に反応した。
右手の甲の紋が灼けるように光り、紋から波紋のような痛みが全身に広がる。
痛みは肉体だけではない。
魂の筋が引き裂かれるように、芯から裂け、一本ずつ削ぎ落とされていく。そのたびに鎧の力が満ち、脈打つ。
アシェルは声にならない叫びを上げ、地面に這いつくばってのたうち回る。
肋の裏で何かが焼ける感触、視界の周縁が歪み、色彩が血の朱と煤の灰だけに染まっていく。
頭の中では、数え切れぬ声が同時に叫んでいた。
自らが滅ぼした者たちの断末魔、滅ぼした者たちの勝ち誇る咆哮、鎧が飲み込んだ命たちの怨嗟。
どの声も彼に「戦え」「奪え」「お前の手で終わらせろ」と迫る。
個々の声は時に優しく、時に暴虐に彼を諭し、時に嘲笑う。鎧の記憶が、彼の近親者の記憶と混ざり合い、現実と幻が判別不能になっていく。
「やめろ……やめろ!」という理性の叫びが、遠く、かすかに鳴る。
だがその叫びは次第に弱まり、代わりに燃えるような執着が胸を満たす。
憎しみが粘土のようにまとわりつき、思考を歪め、時間感覚を奪う。
彼は自分がどれほど叫んだか、どれほど時が経ったかも分からなかった。
ただ、疼きが増し、刃が重く、世界が一点のために収斂していくのを感じる。
やがて、鎧の意思の洪水に飲まれそうになったそのとき、アシェルの内側で何かが反抗した。
幼い日の光景、母のひ弱な手、アリアの笑い、とても小さな温度。
刃物のように鋭い憎悪の中に、かすかな温度が残っていた。
アシェルは歯を噛みしめ、その温度を掴もうとした。
理性ではない、信じるというより執着に近い行為だった。──ここで止めなければ、自分は完全に棄て去られる。
ここで止めなければ、あの声たちの餌に成り果てる。
彼は痛みそのものを受け入れることにした。
声に従うのでも、声を否定するのでもない。ただ、痛みを道具として使い、——己の意思で刃を振るうために。
掌で紋章を強く押さえ、吐き出すように吸い込む。
叫びは嗄れ、のたうちまわる動きは次第に収束する。鎧の冷たさが骨に馴染み、裂かれる感覚は鈍くなっていった。
その瞬間、荒々しい秩序が戻る。
鎧の輪郭が身体に確実に馴染み、金属と肉の境界が一つの塊として機能を取り戻す。
だがそれは救済ではない。得たのは「制御」という言葉に近い刹那的な均衡であり、代価として魂の断片が消えたことを意味していた。
アシェルの瞳は濁り、そこには憎しみの燃えかすが灯っている。
狂気と決意は紙一重、彼はもう以前の自分ではない。
膝をついたまま、身体を震わせながらアシェルはやっと小さな声を漏らした。言葉は呟きにも満たないが、彼の中で決意を示す合図だった。
「……終わらせる。俺が……」
声は風に消え、残ったのは鎧の浅い脈動と、彼の荒い呼吸だけだった。鎧は黒く、不気味に、彼を抱き締めるようにそこに在った。
次の瞬間――鎧の表面に猛禽類の意匠が浮かび上がった。
肩や胸には鋭い翼を思わせる紋様が走り、兜が変化していく。
仮面はホルス神を思わせる鋭い形状へと変わり、その双眸が闇の中で妖しく輝いた。
リィナはその光景に息を呑む。
アシェルは重みに耐えながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、不気味な黒の守護者。
世界を覆う災魔と新たな守護者との戦いが、今まさに始まろうとしていた。