灰色のセレナーデ
大学のサークルで出してみた作品です。
せっかくなので載せてみたいと思いましたので載せさせていただきます。
*2013,11.14 修正しました。
「貴方さえ、貴方さえいなければ!」
体の芯まで冷え切ってしまうような鉄の感触が腹部の熱を奪っていく。
瞬く間に痛みに変わって男――黒川幸人の身に何が起こったかを明確に脳が情報を伝える。
――刺されたのだと、目の前の女から恨みの矛先を向けられたのだと。
◆◇◆◇
幸人は嘗て、武器商人として毎日の糧を繋いできた人間だ。
恨みを買うのも一度や二度ではなかった。
武器商人として生きるようになったのかを説明するのは本当に長くなる話だ。
赤ん坊の頃、幸人はトイレのゴミ箱の中で産声を上げていた。
それも臍の緒がちゃんと処理もできてない状態で……。
幸人は望まれない命としてこの世に生まれ落ちた存在だった。
そんな幸人はすぐさま児童養護施設へと廻され、生温い生を施設の中で紡ぎ続けてきた。
自分が何者かさえ知る事もなく、ただ借り物の名だけが唯一の身分証明書……。
大人に近づいていくにつれ空しさは増すばかり、それはハッキリと心で認識されていった。
だが、そんな幸人にも一時だけ人としての温もりを感じる事があった。
十歳の時であった。
この日は夕焼けが本当に綺麗な日だった。
海岸沿いに建つ児童養護施設にいた幸人にとって、唯一の娯楽は砂浜を歩くことだった。
一足、一足と砂を踏み締める音が安らぎを求められる。
変わらない日々を過ごしていた――
幸人の景色に色が初めて付いたのは、波の音と共に聞こえてきたヴァイオリンの音色を聞いた時であった。
夕焼けに照らされ、輝き続ける砂浜の上に少女は居た。
小柄な身でありながら右手に持つ弓を巧使い、胴体に張り巡らされる弦を指で操って幻想的なメロディーを一つ、又一つと奏でるその姿は音色で人を惑わせ、海の彼方へと引き摺り込むセイレーンかに思えた。
現に、幸人の足は少女の方へと無意識に進んでいた。
――あの一層と輝いている存在に触れてみたい。
その思いが強かった、あと三歩と近付いた時に、
「誰?」
いきなり幸人の方へと顔を向けた。
顔を初めて見た時、幸人の身体に正体不明の感覚が奔った。
もし、少女の顔が別に何ともなければそんな感覚など出る事は無かったかもしれない。
顔を向けた少女は幸人を“見てはいなかった”。
――少女には、視力が無かったからだ。
濁った瞳孔は幸人の姿を捉えている訳でもなく、少女はどうやら彼の足音で存在を感知したようだった。
「そこに誰かいるんですか?」
再び少女は問いかける。
「ヴァイオリン、上手いんだね」
幸人が咄嗟に出した言葉がこれだ。
初対面である筈の少女にかける言葉としてはやや不適切だったかもしれない。
人の演奏を一人前のように評価する言葉を投げかけるなんて失礼極まりない。
「うん、ありがとう! 嬉しいわっ!」
幸人が心の中では反省しているとは知らず、少女はそう言ってくれた。
「見ない顔だね、新しくここに入ったの?」
「ひょっとして、君は施設に居る人?」
「うん、赤ん坊の時からここにいる」
「へぇ、そうなんだ……」
少女はどこか珍しいという顔をして話をする。
その中で幸人は少女がここに来るまでの経緯を聞いた。
少女――東雲優菜は幼い頃、火事に遭い、その時の熱風の影響で眼をやられたと言う。
親戚は親しい者は既に故人であろ、引き取り手がどこにも現れないという事でこの施設に預けられる事になった。
どこにでもある事だ。
幸人は少なからず優菜に同情していた。
自分の生い立ちも酷いものだが、優菜の方も相当なものだ。
目が見えないという事はそれを一生背負って生きていかなけれならない
五体満足な幸人よりも優菜の未来は暗い……そう考えてしまう。
「辛くないの?」
「う~ん……」
優菜は頭の上に手を乗せながら悩むように眉間に皺を寄せた。
「辛くない、と言えば嘘になるかな? でもね、私思うの。もし目が見えていればと思うよりも、それで新しい物を見つけて楽しむ事も生き方の一つかな……って」
「そんなの、簡単に言える事じゃないよ」
「そうだよね、でも簡単に無理だって決めたらそれで終わりだもん。そんなの後悔しか残らないよ」
幸人の否定は優菜にとっては関係ない物なのだろう。
優菜には優菜の在り方がある。
だからこそ、こうも凛とした姿で居られるのかもしれない。
その日から、幸人達は海岸で何かと語りあうようになった。
時には優菜は幸人にヴァイオリンの弾き方を教えてくれたり、幸人は目の見えない優菜の代わりに手にしてみたい物を探してあげたりと……。
本当に楽しい日々が続いた。
だけど、そんな終わりのないと思えた日々も唐突に終わる事になる。
優菜の養子縁組が決まったという連絡を聞いてからだった。
なんでも、有名な音楽家が優菜が偶に出ていたコンクールでの評判を聞き、是非とも義娘として引き取りたいと申し込んできたのだ。
音楽家の妻は子供ができにくい体質の為、子宝に恵まれず流産を繰り返したらしい。
よって、孤児を引き取るという選択をし、彼等の条件にぴったりな子が優菜となったという訳だ。
その申し出を優菜は受けた。
その答えに幸人は何故かと聞いたが、否定するどころか、止める事さえもできない優菜の決意がそこにあった。
「私……夢があるの! 他の目の見えない人達に私も皆と同じだけど、こんな風に頑張れるんだって、そんな人達の為の励みになるヴァイオリストになる事なの! 現在の私の一番となる目標だよ!!」
もしも、その願いが叶えられたのなら優菜はきっと太陽のような存在になれるに違いない。
幸人は優菜の意思を尊重し、養子縁組を受ける事を勧めるようになった。
心に秘めた優菜への想いを封印することにして彼女を応援した。
この出来事こそが、幸人の最初にして最後となる初恋だったのだろう。
◆◇◆◇
やがて多くの年月が流れた。
施設にいた同じ仲間達は優菜が去ってからもそれぞれ別々の道を歩み始めていた。
幸人は……と言うと、施設を卒業してからとある貿易会社へと就職した。 社会人として立派な人間になったと周囲の人間はこの頃では考えていたそうだが実際は違う。
勤めていた会社では上司と共に不正を働くような人間だった。
輸入品の偽装や横領と様々な事を働いたりもした。
どうしてそんな事を?
――と、普通の人間ならそう考えるだろうが、幸人はこう考えていた。
――流れに乗り遅れればそこで終わり、捨てられるだけの運命だ
昔、捨てられたという記憶が焦りを生みだしていたのかもしれない。
会社というのは力を持たなければあっという間に全てが崩壊するような組織だ。
その為には力を付けるしかない。
どんな汚い事をしようとも……。
だけど、会社はそんな幸人を捨て駒として使った。
「社長、一体どういうことですか!?」
「君には悪いと思っているよ。短い間だったがご苦労さん」
社長は、口ではそう言ってるが本心ではないようだ。
「そんな……それはクビ、ということですか……?」
当時、幸人はとある新規プロジェクトにいきなり抜擢された。
昇進のチャンスと思い、喜んで進んで参加することに決めた。
内容は斬新でリスクが大きいが、成功すれば上場企業の仲間入りができるはずだった。
しかし、そのプロジェクトは夏場の時点で成功の見込みゼロだと裏では確定していた事を幸人は知らなかった。
その件でのリスクが上司達に迫ってくるや、責任を全て幸人に押し付けて勝手にやったことだと決め付けられた。
仲間だと思っていたメンバーも赤の他人となり、誰も幸人を擁護する人など現れはしなかった。
そんな事よりも許せない事が幸人にはあった。
社長室を出た時に聞こえてきた話声に耳を立てた時だった。
「社長、あいつ等が馬鹿で助かりましたねぇ!」
「全くだ、この御時世にあんなリスクの大きい企画に乗ってくる奴はまずいない。あいつ等くらいのもんだ!」
「本当ですよ、まぁ今回の企画は今後会社に不利益になるような奴らを一掃できた事が一番の利益ですよ」
「君も言うようになったじゃないか! それに先ほどの男は噂によると赤ん坊の頃にゴミ箱に捨てられたと言われているそうだぞ」
「へぇ、それが本当ならそいつにピッタリじゃないですか! 要らなくなったからポイッとしたって意味そのままですし!」
その後の事を幸人は詳しく覚えてない。
後から聞くに、幸人は社長室に乗り込んで中にいた二人を殴り続けていたそうだ。
その結果、傷害罪で訴えられて刑務所へと入所させられる事になった。
薄暗い刑務所で怒りと憎怨を募らせ、歳を取っていく中、幸人は決意する。
――生き延びてやる、どんな事をしてでも絶対に!!
そして出所後、幸人は裏の世界に手を染めることにした。
それが武器商人である。
貿易会社に勤めていた時のノウハウを生かしていかに交渉を上手く成立させ、商品を高値で売り捌くかを中心とした活動をした。
商売相手は決まってヤクザや外国人入国者と同じ裏関係の仕事をシノギとする人間だが、取引をする為の掟は作っている。
代金は現金で支払う事。
お互い取引に関係する嘘を言わない事。
脅迫をしない事。
これらをいずれか破った場合は命を以て代償を支払う事。
事実、何度か麻薬で支払おうとする者や取引が終わった途端に幸人の存在を消して支払いを無しにしようと試みた者も一人や二人ではなかった。
そういう人間は彼の私兵団と共に壊滅させられる結果が残るだけだった。
もちろん、後から組織から抗議が出はしたが、言い分はこちら側には十分にある。
何せ、こちらは条件がある事をはっきりと掲示して商売した方だ。
それなのに、向こう側が勝手に趣向を変えた為にこんな『事故』が起きてしまったのだ。
こちら側には何の否もありはしない。
こうした世界で幸人は生きてきた。
誰からも称賛されるような、尊敬されるような生き様では無くとも、これこそが幸人にとって唯一つの存在意義だった。
そんな存在意義を疎ましく思える日がやって来る事もあった。
神が引き起こした偶然。
二年前、幸人は新宿で仕事の為に訪れた事があった。
当日の仕事は少し不調で中々取引が上手く纏まらず、苛々する事が多かった。
その日も相手先の取引現場から出てくるや道端に捨てられている空き缶を蹴り飛ばすくらいだ。
本来なら交渉が終わるとすぐさま自分の車へ向かうのだが、この日は珍しく街中を歩いてみようと考えた。
幸人は世俗にはあまり興味を示さない方だったが、心を落ち着かせるには何かやる事が一番だと考えており、夜の商店街を徘徊する事に決めていた。
幸い何かをするくらいの金ならいくらか持っていた。
人ごみの一つとなって幸人は夜の街を歩く。
誰もが楽しそうな顔をしてこの商店街で楽しむ為に行き来を繰り返す。
だが、彼だけは道の中心を歩いて並ぶ店舗をどんなものがあるかとチラ見するだけだった。
――極力煌めくような灯りがある所には近付こうとは思わないからだ。
裏で生きる者にとって灯は体を曝ける要因でしかない。
幸人には光は眩しすぎる……。
だが、その光をこの日求める事になろうとはこの時、彼には思いもしなかった。
無意識に商店街を歩き続けた幸人がたどり着いたのは広場だった。
そこは男女の逢引き場でもあり、夢見るミュージシャンの活動の場としても知られる所だ。
様々な音が耳を通り抜けるがどれも興味を惹くような物ではない為に目もくれず、その前を通り過ぎるだけであったが、その中で唯一つ、幸人の足を踏み止まらせた音があった。
――ヴァイオリンの音色だった。
それも懐かしい。
幾度も聞いた好きな曲。
多くの聴衆が集っており、誰もが静かにその音色を聞き続けていた。
幸人は壁となった聴衆を避け続け、この曲の演奏者を確認すべく向かう。
彼女はいた。
昔の少女としての面影は無く、美しい女として見事な変貌を遂げていた。
盲目でありながら、ヴァイオリンに掛ける情熱は人一倍強い、一人のヴァイオリストとしての優菜がそこに存在していた。
時間も忘れ、その姿に見惚れていると、いつの間にか曲が終わっており、周りの聴衆から盛大な拍手が彼女に送られていた。
「ブラヴォー!」
「最高の演奏だ!」
「素晴らしい!」
どれもが演奏に絶賛を称する言葉であり、得点で表せば満点に出来るほどかもしれない。
「皆さん、今回の演奏も聞いてくださり本当にありがとうございました。もしよろしければ、今週の日曜日に行うコンサートにもぜひいらしてください」
優菜は拍手を送る人々へそれ相応に深々と礼をする。
終わった後は杖をつきながら後ろに控えていたマネージャーらしき人物に先導されて直ぐ傍に駐車されていた車へと向かい出す。
「あ……」
「どうかしたんですか、優菜さん?」
「ちょっと待って!」
ガードレールの向こう側を渡ろうとした所に優菜は何故かこちらへと戻ってきた。
まだ何人かその場に残っていた他の聴衆は何があったのかと様子を伺う。
「すみません、この辺りに鐘の形をしたキーホルダーを見かけませんでしたか!?」
どうやら、そのキーホルダーを探しに戻ってきたようだ。
その問いに聴衆は一緒に探し始めていた。
「本当に大切な物なんです! お願いです、皆さんも探していただけませんか!?」
――鐘のキーホルダー。
幸人はあの別れの日を思い出していた。
――確か、施設でやったお別れ会で贈り物を皆で渡した事があったな。
――その中で確か俺が送った物が……あぁ、まだ持っていてくれたのか。
子供の頃、お金もなくて物を買う事自体が贅沢だったから渡せる物が思いつかなくて……砂浜を歩いていた時に偶然見つけた真鍮作りの小さな鐘。
――あんな物を十年以上も後生大事に持ってくれていたなんて……。
幸人は笑みを浮かべる。
律儀な優菜の為にも幸人は何もしない訳にもいかないので聴衆と共に探す。
未だ見つからないという事は人ごみの中には落ちていない。
幸人はまだ探されてない場所へと視界を見渡してみた。
すると、植木に隠れた地面の上に街灯で反射して光る物が目に入る。
もしやと思い、その正体の元へと近寄って確認した所、予想通りにそれは見つかった。
無骨な留め金をホルダーで補強し、繋がれている鎖の先には小さな鐘――少し錆び付いてはいるが正しく自分が子供の頃、優菜へと送ったキーホルダーであった。
拾うと同時に偶然か、はたまた必然だったのか、強めの風が吹いてきて鐘を鳴らした。
澄んだとは言えにくい音ではあったが、その音は優菜にとって馴染みのある音。
すぐさま優菜は音に反応した。
「もしかして、見つかったんですか!?」
「…………ッ!?」
いつの間にか優菜は幸人の傍に近寄っていた。
どうやら先ほどなった鐘の音が彼の元へと導いたようだ。
「……これでいいのか?」
指に引っ掛けるように持っていたキーホルダーを彼女の手の上に乗せる。
それを指で形を認識し終えると幸人に対して礼を言った。
「本当に、ありがとうございます!」
「あぁ、いや、どうも……」
その笑顔は本当にまぶしすぎて、幸人にはどう返したらいいのか直ぐには思いつかなかった。
幸人の戸惑いに気づかぬまま、優菜は彼へのお礼を続ける。
「そうだ、今度お礼にとなんですが、もし演奏会に来てくださったら最後の演奏は貴方へと送る最高の演奏にさせてもらいます!」
「優菜さん、そろそろお時間です」
傍にいたマネージャーに声を掛けられた優菜は手で合図を送り、最後にもう一度、幸人に礼をして停めていた車の元へと歩いて行った。
「――あ、あの!!」
幸人はその後ろ姿に勇気を振り絞って声を投げ掛ける。
もう少し留まらせたいという思いがそうさせたのかもしれない。
「楽しみにしてますから演奏会、絶対聴きに行きますから!」
その為の時間など無いに等しい筈。
なのに俺は言葉を口にした。
「はい!」
優菜はその答えに笑顔で振り向いて返事をし、今度こそ去って行った。
しばらくの間、幸人は広場の真ん中で一人佇んでいた。
◆◇◆◇
あれから三日後、幸人は今まで纏まらなかった取引がようやく終わりを迎える所まで抉り付けていた。
後は商品の売買をすれば今回の仕事は終了……ようやく肩の荷が下りる気分だった。
「ではベレッタ92Fを五丁、トカレフを五丁、SGP-1を一丁……弾と輸送量を加えて占めて二百八十六万四千三百五円となります」
「いいだろう、では現金を用意させてもらおう」
取引先のボスは後ろに控えていた部下に合図を送ると小さなアタッシュケースを持ってきた。
中身を確認してみると前もって掲示しておいた金額分の現金が入っている。
「ではたしかに、それにしても今回は多めにきましたね。どこかと闘争でも起こす気ですか?」
「ミスター、探り合いは私達の世界ではどれ程危険か……分かっているはずだ」
「おぉ怖い、まぁ私にとってもお金さえ払ってくださればちゃんと自分の仕事をするだけですから無粋な真似などいたしませんよ」
「ふん、分かればそれでいい」
これで今回の仕事は終了、後は協会へ戻って報告書を出すだけでいい。 取引相手が何をするのか気になるが目星は大体付いている。
二日後の日曜日にとある国の内務大臣がここ日本へやってくるそうだ。
となると、この組織は国の政策を否定する革命派か否定派と想像できる。
彼等も大臣の行動に則ってわざわざ日本にまでやってきたのかもしれない。
――何かしらの行動を起こすために俺の所属する協会で武器調達をしにやって来たということか。
だからといって商品をどう使うかは彼等の勝手である。
別にこちらがそこまで干渉する必要はない。
――俺は俺の仕事をするだけだからな……。
「じゃあそろそろ戻ろう! 遅れて残業する羽目にはなりたくないからな」
護衛として連れてきた私兵団達に崩した口調で話しかけると彼等は笑いながらその言葉を受けっとって私語を始める。
幸人も混ざりながら取引現場を去っていった。
何もかもが順調だった筈だった。幸人をあそこまで変えた日曜日がやって来るまでは……。
◆◇◆◇
その日は幸人にとって久々の休日だった。
自宅でのんびりとテレビを見ながらリビングでくつろいでいた幸人はあるニュースが流れた事でそこに注目した。
『今日、午前十二時頃、○○国の内務大臣ハドソン氏が村田首相と沖縄米軍基地についての会談の為、ここ日本を来訪なされました。ハドソン氏は基地問題について五月末までの決着に向けてさらに努力こととの提案について声明を発表しました。これについて村田総理は――』
偶然にも前回の仕事にて関係がある人物の名前が出た事により、幸人の目と耳はテレビの方へと向く。
しばらく聞いていたが、これといった事は無いと判断して視線をそらそうとした時だった。
『なお、ハドソン氏はこの後の予定として今夜開かれる音楽家《篠田竹彦》主宰の東京都渋谷区劇場ホールにて開催される、盲目の天才ヴァイオリスト篠田優菜さんのコンサートへ参加されるとの情報が入っており、今晩のコンサートの成功を皆が祈念していると思いつつ、楽しみにしておりますとの事です』
この情報は幸人の緩んでいた意識を奮わせるのには十分な代物であった。
持っていたグラスが手から滑り落ち、床へ落ちると破片が砕け散る。
そんな事を気にしてる場合ではなく、幸人は急いでリビングにあるテーブルの上に置いてあった車の鍵を駆け抜けながらひったくるように取る。
自宅の玄関の鍵を掛けないまま幸人は車へと直行した。
いやな予感がした。
あの組織はまだ行動を起こしていない。
――あの情報が確かなら今夜あたりに始める筈だ。
となると優菜が危ない。
急がなければっ!!
幸人は車を猛スピードで飛ばして交通道路を進んでいく。
制限速度を超えている事も気にしないで……。
目的地へ唯一秒でも早くたどり着く為にこの場で必要な行動をする。
色様々なライトが飛び散る眠らない街で幸人は優菜の無事を祈り続けた。
本来なら仕事以外の干渉はしない。
……いや、する訳にはいかない筈だった。
なのに、こうして行動を起こしているのはそれだけ優菜が幸人にとって心の中でどれだけ大切な存在だったかをはっきりと証明した。
「くそ、こんな時に渋滞か?!」
――その優菜の人生を俺が狂わせるにはいかないんだ。
他人からすれば本当に自分勝手な考えだと思うかもしれない。
幸人は産み親の“自分勝手”で人生を初めから狂わせられた。
そのために他人が他人の人生を勝手に決められるというのなら幸人もその趣向に則った。
だから、他人と自分の意義は決して相容れないものと化している。
「く……っ!」
このままでは時間が過ぎるだけ。
判断した幸人は車を道路の脇に駐車して車から降りた。
法律上では違法駐車となるが、今はそれを守るほどの余裕など持ち合わせていない。
コンサートホールまであと十キロ――全力で走ればどうにか辿り着ける距離だ。
幸人はそれなりに付いている筋力をフルに活動させてコンサートホールへと向かった。
◆◇◆◇
その頃、優菜は雰囲気では穏やかな物だが、心の中では情熱を以て一心不乱にヴァイオリンを弾き続けていた。
幼い頃、養子として引き取られた篠田家では義父は優菜を一流に育て上げるべくして厳しい稽古を続けさせた。
義父はヴァイオリンの事となるとまるで狂人のようになってしまうような、そんな人間であった。
だから、優菜は盲目であろうと特別扱いをされる事は無かった。
(思えば、そうしてくれた事が私にとって本当に良かったのかもしれない)
お陰で優菜はヴァイオリストとしての頭角を見る間に露わにし始め、十八歳になるまでには天才ヴァイオリストとして世間にもてはやされる様にもなった。
こうして現在、優菜は大舞台で大好きなヴァイオリンを弾き続けている。
優菜は天才ともてはやされているが、そんな事は無いといつも考えていた。
新聞記者やレコード会社の者や、映画会社の使者や、楽壇のマネージャー達が詰めかける時、彼等は異口同音に『天才』という言葉を口にするが、その度に優菜はこう答える。
「天才? 私は天才なんかじゃありません。努力です。訓練です。私は盲目というハンデを背負いながらも誰よりも努力しました。その結果がこうなっただけです」
もしも優菜が天才だけで現在のようになったとすれば、この数年間、自分が頑張って来た事が無意味になるではないか――という気持ちがあった。
にも関わらず想いを無視する彼等が優菜を勝手に持ち上げたりした時には演奏会やレコード吹き込みの話で彼等を呆れさせるか怒らせるに足る膨大な演奏料を掲示した。
楽壇の腐敗した空気に対する挑戦でもあった。
大体の音楽家は常にマネージャーやレコード会社の社員の言いなりになり。
誇張していえば、餌食になっていた。
音楽家はそれらの人々の私腹を肥すことに努力することによって、辛うじて演奏にありついて来た。
「さすが有名人は金の事になると汚い」
そんな風に言われて引き下がり、演奏会の話も、レコード吹き込みの話も、そして映画出演の話もほとんど無くなったりした事もあった。
けど、優菜は信念を貫いてこうして立っている。
今だからこそ優菜はこう言える。
――私は正しかった。
そう回想に浸っている内に優菜はヴァイオリンの曲を弾き終えた。
しばらくの静寂が続いた後、大歓声と盛大な拍手が彼女へとふりかかる。
優菜は大きな礼をして観客へと己をアピールする。
誰かが近付いてくる。
声からして外国人のようだが、英語をあまり学べてない優菜にはその言葉の意味がよくわからない。
そこに通訳の者が傍に来てその言葉を訳して伝える。
話からすると、どうやらその人物は○○国で有名な人物であると知る事が出来た。
『いやー素晴らしい演奏だった! 盲目でありながらここまで心奮わせられる演奏を聴けたのは人生初だよ。素敵な演奏会をどうもありがとう!』
ぼやけた視界に細い黒い影が自分に差し伸べられているのがわかる。
どうやら握手を求めているようだ。
優菜は手を伸ばしてそれに応えようとするがいかんせん、位置がよくわからないので約三秒ほど空振りしてようやく目の前の人物、ハドソン氏と握手をする事が出来た。
それに伴って観客からもより大きな拍手が送られる。
だが、それが警備員達の注意が逸れる要因となる事を……この時、彼等は知らなかった。
◆◇◆◇
その五分前、ホールの前で幸人は壁に背をもたれていた。
「ハァ……ハァ……」
日常でほとんど運動していなかったお陰か息は激しく上がっていた。
唾には血痰が混ざって鉄の味が口の中に広がっている。
それを一度吐いて調子を整えた後、すぐさま走るのを再開。
あと少しでホール入口までという所で目の前に突然人影が立ち塞がる。
「失礼、演奏会はもうまもなく終会のため、申し訳ありませんが現在ホールへ入る事はできません」
「どけ、そんな訳にはいかないんだよ!」
「ちょっと、待ちなさい!?」
警備員が俺を立ち止まらせようとしたが、その横を強引に通り過ぎてホールへ侵入しようとする。
また他の警備員達が止めようとして体に掴みかかるが、それを振り切ってどんどん進む。
途中で見えた案内板から会場の場所を即座に把握して幸人は階段を駆け上がっていった。
その途中、何かが破裂するような音がホール内に響き渡った。
何度も耳にした馴染みのある音、『銃声』だった。
嫌な予感が俺の身体を通り過ぎる。
――外れていてほしい。
そう願い、ようやく辿り着いた会場前のドアを開こうとした時、
二度目の『銃声』が響き渡った。
近づいた為に先ほどより大きくなった銃声は幸人を驚かせ、ドアの取っ手に手を付けたまま立ち止まらせる。
この瞬間を突き、今まで追いかけて来た警備員達が幸人を拘束すべく飛びかかってくる。
「止まれ!」
「なぜこんな真似をした!?」
――うっとおしい! 邪魔をするな!!
自分の持つある限りの暴力で警備員の拘束を強引に外す。
怯んでいる隙にすぐさまドアを開け、幸人は会場の中へと進入した。
――同時、
「助けてくれぇ!!」
「銃声だ!!」
「殺されるうぅぅぅぅぅーーーーーっ!!」
今まで中に居た観客が雪崩のように押し寄せてきた。
あまりの突然の出来事に幸人は対処しきれずそのまま巻き込まれ、また後ろへと引き込まれるようにベクトルが働いた。
「ぐっ……?!」
その流れに逆らって幸人は前へ進続ける。
誰もが恐怖の表情をしており、状況が深刻であると嫌でも知らされる。
何度も何度も腕で観客達を押し退け、足を踏ん張り、ようやく中へと入った幸人の視線に入ったのは、
今もなおスポットライトに照らされ
「嘘、だろ?」
赤い鮮血をステージの床に散らす
「そんな、お前が……」
優奈の姿がそこにあった。
「ゆうなあぁぁぁァっ!!」
悲鳴に近いような声で幸人は優菜の名前を呼んだ。
まだ逃げ続ける観客達を弾き、一直線に優菜のいるステージへと駆け抜けた。
傍には前に見たマネージャー達の姿も見られるがそれは関係なかった。
自分より高いステージを乗り越えてすぐさま優菜の傍に駆け寄る。
「しっかりしろ、目を開けろ!」
優奈の上半身を抱きかかえて声をかけ続ける。
揺らしたりはせず、できるだけ負担とならぬように幸人は声をかける事のみに専念した。
左手に彼女の血の生暖かさが伝わってくる――この様子だと左肺をやられたに違いない。
このままでは……。
「誰、です、か?」
「……ッ!?」
これは奇跡かもしれない。
微かながら優奈は意識を取り戻してくれた。
その事態に幸人は少々安心できた。
だが、危険な状態なのは変わりない。
「きっと助かる! だから、自分をしっかり持て!」
「もしかして、この前、鐘を……見つけてくれた…………」
「あぁそうだよ、俺だ、黒川幸人だ!」
黒川幸人――この名前は俺を拾ってくれた人間が付けた名だ。
名字の黒川は私設の黒川児童養護施設から取り、幸人は幸せになってもらいたいとそう願って付けられた今の幸人にとっては無縁な名だ。
「……ユウ君?」
――懐かしい呼び方だ。
――その呼び方は止めてほしいと取り合ったけど結局変わってないんだな?
「そうだ、昔お前と同じ養護施設で育ったあの幸人だ! ほら、あの鐘を渡したのを覚えているだろ!?」
「……うん、懐かしいね……」
顔色が良くない、早く救急車を呼ばなければ。
幸人はスーツの内ポケットから携帯を取り出す。
画面の表示は圏外。
繋がらない事を表していた。
電波を拾う為に外へ出る時間も惜しいというのに。
「けほっ!」
「優菜!?」
いきなり吐血した事に幸人は動揺し、繋がらない携帯電話を落としながら優菜の元へと戻った。
唇が青くなりかけている。
出血が多い事を示唆している。
「ユウ、君……私、死んじゃうのかな……?」
「馬鹿、野郎……そういう事は考えるものじゃないだろ」
「ごめんね……そう、だよね……?」
「くっ――!!」
優菜の辛そうな顔を見る度に幸人は心を刃物で突き刺されるような感触に襲われる。
こんな時にしてやれる事が何も思いつかないからだ。
「……ユウ君、泣いてるの?」
「俺は、俺は……!」
優菜の顔に幸人の涙が目から滴り落ちていた。
自分の全てが嫌に思えて来ていたのだ、こんな事が起きてしまった原因を作った自分が。
「俺のせいだ、俺が……」
そんな時、泣きじゃくる幸人の顔に温かい感触が伝わる。
目を開けるとそこには優菜の手が俺の顔を優しく撫でるように触れていた。
それがたとえ血まみれの手だとしても、幸人にとっては心地よい感触に感じた。
「泣かないで、ユウ君には昔みたいな笑顔が一番……泣いたら私も悲しくなっちゃう……」
子供の頃は優菜の前ではよく笑っていた。
自分の笑い声を聞くと自分も嬉しい気持ちになると言ってくれた。
幸人は涙を抑えられる訳がなかった。
「ユウ君……」
――ありがとう。
それが優菜の最後の言葉だった。
しばらくしてやって来た救急隊員が優菜を抱えていた幸人をやや強引に退けて担架へと乗せ、運んで行ったのを最後に幸人はそれ以降、彼女の姿を見ることは無かった。
後日、テレビでは優菜が死んだ事をニュースで流していたのを見るや急いで消したりもした。
《天才ヴァイオリスト篠田優菜、ハドソン氏暗殺による流れ弾に被弾し死亡》
警察等に様々な追及をされはしたが、その時は何をするにも気力が湧かず、死人当然の様子となって質問を聞いたりしていた。
結果、ホールへ強引に侵入した事を除いて法的に無罪の判断を受けることとなった。
何もかもがどうでも良くなった。
商人としての仕事を休む訳にはいかないので一応は働けど、周りからはいつもとは違って覇気が見られないと言われる始末だった。
重圧に耐えきれずそのまま協会を去ることにまで優菜の死は幸人を追い込んだ。
そんな自暴自棄になっていた幸人の元に男は現われた。
◆◇◆◇
「黒川、幸人君だね……」
「……どちら様でしょうか?」
「私はこういう者です」
そう言って男は一つの名刺を差し出す。
そこに書かれた名前を見て驚愕する。
「篠田――竹彦!?」
「えぇ、御察しの通り、優菜の義父です」
なんと、優菜の義父――竹彦がわざわざ幸人の家にやって来たのだ。
竹彦は幸人と話がしたいと一言申し、幸人は彼を家の中へと案内する。
リビングで静かにソファーへと腰を下ろすと幸人は口を開く。
「それで、話というのは?」
「……優菜の事について貴方に聞きたいことがあるのです」
竹彦は話した。
優菜は演奏をする度、何時も小さな鐘を手に持って鳴らしながらどこか遠くを見ていたそうだ。
竹彦はなぜそんな事をしているのかと尋ねてみると優菜は言った。
――自分にとっての大切な人を思い出していたの。
優菜は願い続けていたそうだ。
いつかその人と再び出会えたのなら、驚かせるような心溢れる自分の演奏を聴いてもらいたい。
だから、その為に頑張っていかなければならないのだ、と。
その話を聞いて幸人は泣き崩れた。
そして、竹彦にあの事件の真実を告白したのだった。
話し続ける間、竹彦は真剣に幸人の声に耳を傾け続けた。
全てが話し終わった後、幸人はこう言う。
「憎いと思うのなら遠慮なく俺を裁いてください。今なら、貴方の手で命を終えてもいい……」
覚悟を決める中、竹彦はゆっくりとソファーから立ち上がり、窓の方へと向かって歩く。
背を俺に向けながら言葉を紡いでいく。
「君は、それで全てが解決すると思っているのかい?」
「え――っ?」
「確かに私は君が憎い。今この場で引き裂いてやりたいと思う。だけど、娘はもう戻らないんだ!」
「…………」
「死んで解決すると思うのは罪を償うことではない! 償うという事は…己の手で死んでしまった者の為に一生を奉げる事だ。君には、それができるというのか!?」
言葉を聞いて幸人は先ほどまでの自分を悔やんだ。
結局のところ、幸人は自分が悪いと思っているだけで実際、優菜の為に何もしていなかった。
顔を俯け続ける幸人へ竹彦はまた近づいていく。
すると、今まで持っていた箱を差し出した。
丁重に扱ってその箱を開けると、そこには一台のヴァイオリンが入っていた。
「あの子の物だよ」
「……ッ?!」
「娘からの私への最後の約束だった、これを君に届けてほしいと……」
「なぜ、こんな……」
「それはわからない。君自身が考えるべき事だ」
――優菜、お前は俺に何をして欲しいんだ?
――忘れないで欲しいと言ってるのか?
「ヴァイオリンは、魂を込めて引くことで必ずそれに答えてくれる楽器だ」
「あの子の口癖だね」
――故に、同じ曲など存在しない。
「続きを頼みたい、そう言うのか……?」
優菜が最期に何を思って幸人にヴァイオリンを託したのか、真実は未だ知らない。
その日から幸人は背負うものができたのかもしれない。
優菜の意思を継ぐべくヴァイオリストを目指すよう決意したのは……。
その為に幸人はまず師を必要とした。
そこで竹彦へと師事を願い、その為に必要な条件を呑んで幸人はヴァイオリストとして始まった。
竹彦の出した条件とは、
『プロとなり、最初の演奏会を終わらせたら出頭する事』
間接的とはいえ、あの事件での罪となると重刑は免れない。
ましてや、今までの所業もあり死刑は確実かも知れなかった。
――だが、それがどうした?
幸人にはそうならなければならない罪を背負っている事を自覚している。
逃げる必要などありはしない。
それなのに……。
◆◇◆◇
「げほっ!!」
刺された部位を抑えながらふらつく足で車を目指す。
幸人を刺した女はもうこの場にはいない。
どうやら逃げたようだ。
長かった。
ようやく全てを遂げるかもしれないというのに。
……ついてない。
今日がその演奏会だというのに。
車に辿り着いた幸人が先ずした事は傷の止血。
病院に行くと刃物傷では警察沙汰になりかねない。
中にあったガムテープを包帯替わりに使って強引に血を止める。
その間、激痛が絶えず襲い、叫び声をあげるが我慢するしかない。
竹彦――師との約束だ、今日で終わらさなければならない。
「まだ、終わってないんだ……」
車のエンジンをかけてコンサートホールへと向かう。
演奏会の開幕まで時間がない。
急がなければならない。
「もうすぐだ、全てが終わる……」
――優菜、もしも天国という物があって、そこにお前が居るのなら聞いていてくれないか?
――これから弾く曲はお前の為の曲でもある。
――『灰色の人生』しか送ってこれなかった俺がお前に送れる最初で最後の『小夜曲』なんだ。
文法はしっかりと学んでみたい物ですよね……