かずさとノエル②
空になった鍋に杓子が転がっている。 鍋の三分の二を平らげたかずさは満足そうに食後の茶を啜っていた。茶もいつもの緑茶では無く、かずさのお気に入りのほうじ茶を入れてくれるあたり、ノエルの気遣いを感じる。
一息ついたかずさは気になっていたことを切り出す。
「…あの、親父様。ずっと気になっていたのですが、昨日の一件でけが人や、ましてや…死人など出てはいませんでしょうか…?」
ノエルは湯呑に注いだ茶を傾けながらかずさを一瞥した。一気に飲み干したノエルはゆっくりと答える。
「…昨日の件でお前意外に死傷者はいない。安心しろ。お前のおかげで誰も怪我しなかった。よくやった」
「あ…そ、それは良かった…っ。良かったですっ」
純粋にめぐみ子やユズハ、村の皆を守れたことが嬉しかった。あの時、勢いのまましてしまった行動だったが、誰も犠牲にならず、あの一夜を終えられたのだ。
それはとても幸運で最良の結果だ。しかし何だ、何かがおかしい。これまでこんなにはっきりとノエルから褒められたことはあっただろうか。いや、無い。妙に優しいのも最初は嬉しかったが、ここまであからさまだと疑心が生まれる。
「あの、親父様。他に何かあったのではないですか」
何か感づいているかずさにノエルは平然と答える。
「何も無い。誰も怪我はしていない。お前が一番重症だ。今日はゆっくり休め。後は私がやっとく」
茶を飲み終えたノエルはそそくさと後片付けを始める。崩されない不愛想なその顔を、かずさはただ見ている事しか出来なかった。
「う~ん…。暇だ…」
いつもならばとっくに出ている時間だが、ノエルの半強制的な勧めで今日一日は安静にして休むことになった。収穫のピークは過ぎたし、他にすることも無いのだが、布団の上で日長ぼーっとするのも落ち着かない。
最初こそ大人しく寝ようとしたが、いつも起きている時間だからか、寝付くことがどうにもできない。掛け布団を抱き枕代わりに左右に寝返りを繰り返す。ゴロゴロしながら村の皆の事を考える。ノエルからは無事だと聞いたが、実際に姿を確認したわけではない。できれば直にあって、安否を確認し、あの日自らが起こした行動を謝りたかった。
――よし、抜け出すか。
布団から起き上がって着替える。いつもの小袖と半股引の恰好ではなく、いたって普通の女性用の着物を纏う。目立たない様土の色に近いえんじ色の着物に紺色の帯を巻く。戦闘に行くわけではないため、刀は持たず身一つで外へ出る。
畑は家から100メートルほどと、近くにあるわけではないため、外に出たところで普通は気づかない。が、ノエルには一瞬でも気配を悟られると十中八九気づかれてしまう。そして、畑側にある玄関を使わないとなると、残る出口は村側を向いた二階のかずさの部屋にある窓だけだ。
いつもなら容易に飛び降り、着地できるのだが、今は身体も重くいつもの素早さはない。更に気配を完全に消したまま出なくてはならないため、いつも以上に集中しなければならない。
何かの修行かな、と思いつつ慎重に窓際から飛び降りる。足が地に着くと同時に膝を曲げ衝撃をいなす。高位からの着地時わざと転がることもあるが、かずさの体は常人以上の強度があるため、そういったことは不要だ。
着地したかずさはそのまま転がるように村の方へと走っていった。普段と違う格好だが、小股で成人男性の全力くらいのスピードは出せる。あまり砂を巻き上げないように気を付けながら先を急いだ。
最初に向かったのは近所のユズハの家だった。走ってきたかずさはそのまま玄関に突撃するかと思いきや、急に止まる。戸をじっと見つめ口を開いては閉じを繰り返し、声掛けをためらっている。
ユズハの家に向かいながらも胸中穏やかではなかった。ノエルは、ああは言っていたが明らかに様子は変だった。彼は普段嘘は決してつかない。ずっと共に暮らしてきた、かずさにはわかる。嘘もつけないが、胡麻化すのも上手くない。何か問題があることをかずさは確信している。外傷以外の何かで誰か、それこそユズハやめぐみ子、あの場にいたナオトかもしれない。または他の――。
戸が開いた。中から驚いた顔をしたユズハの母親が出てきた。
目が合ってかずさは我に戻った。
「…あっ…あ、あの、突然すみません…。でも、どうしてもユズハが心配で…。ユズハは無事ですか…?」
唖然とした表情を浮かべる彼女だったが、みるみるうちに顔を歪ませ、今にも泣きそうな顔になる。すかさず俯く母親だったが、かずさは歪む表情を見た瞬間全身の血の気が引いた。答えを促したかったが、喉がつかえてうまく言葉にならない。
俯いたままの母親が、言葉を詰まらせながら言う。
「ええ…ええ…あなたのおかげでユズハは無事よ」
その言葉にかずさは心底ほっとした。
「っ!よかったあああああああああああぁぁぁぁ…」
詰まっていた息と一緒に安堵を吐き出す。思わず玄関にもたれ座り込む。
本当に良かった。あれだけ自分勝手な行動をしてユズハに万一のことがあたらどうしようかと本当に恐ろしかったのだ。無事だと分かっただけでも大いに救われた。
もちろん、まだめぐみ子やナオト、他の皆の事も心配だが、あの時一番危険であったユズハが無事だったのだ。他の皆もひどい目には当ていないはずだ。
心に少し余裕ができたかずさは下から母親の晴れない表情を覗き込み、疑問に思う。
ユズハは無事だった。ならば何故嬉しそうではないか――。
「かずさちゃん…本当にありがとう。でも――」
「かずさお姉ちゃんっ!」
元気な声の主を思わず振り返る。外から帰ってきたのだろうか、白、ピンク、赤と色鮮やかな秋桜を持っていた。今日も桜の髪飾りが光る。
元気よく駆けてきたユズハはそのまま座り込んでいるかずさに抱きついてきた。顔を埋めてくるユズハの頭を撫でながら、改めてユズハの無事を実感した。
しばらくしてユズハは顔を勢いよく上げた。
「あのね、聞いたよ?かずさお姉ちゃんが私を助けてくれたんでしょ。あの時、凄く凄く怖かったけど、お姉ちゃんの声が聞こえて、少しだけあんしんしたの。それで…うーんとよく覚えてないんだけど、お姉ちゃんが守ってくれたんでしょ?本当にありがとうっ」
ユズハの満面の笑みが愛おしくて、可愛くて、かずさは再びユズハを強く抱きしめる。
すごく幸運だ。こんなにかわいい子を守れたのだ。それだけで十分儲けもんだ。