暗殺美少女ナターシャと敵国将校ウラジーミル
◾️あらすじ◾️
長年にわたる内戦を繰り広げてきたジョセシア共和国。
北部軍の麗しき暗殺者ナターシャと南部軍将校ウラジーミルはかつて命を狙う側と狙われる側の関係だった。
しかし終戦は彼らを同じ会社に勤める上司と部下という関係に変えてしまう。
ウラジーミルへの罪悪感から救われたいと望むナターシャに、ウラジーミルは彼女と恋人になりたいと告げるが…。
※pixiv、nolaとの二重投稿になります。
暗黒色の街を戦車の前照灯が照らす。
街灯のフリッカーが目立ち白兵がひとりも歩いていない場所を、ナターシャは颯爽と駆け走っていた。
灯りに照らされた豊かなブロンドをたなびかせながら、彼女はターゲットを発見すると戦車の砲身に飛び乗る。
「お逃げください、ウラジーミル少将。」
将校であるはずの被暗殺対象者・ウラジーミルは、なぜか市街戦の最前線に駆り出されている。彼は美しい暗殺者にその命を狙われたことで、上官に厄介払いとばかりに後方部隊から叩き出された。
敵国の暗殺者ナターシャを目の前に彼の脳髄は震え上がる。
「覚悟!」
ウラジーミルは戦車を飛び降りた。舗装の痛んだ商店街の道路に転がるように倒れる。肋骨にヒビが入ったような気もするが、ここでかすり傷に怯んだら致命傷を負わされるのは必至である。
戦車から離れわずかな街灯を頼りに足を必死で蹴り上げる。
しかし突然背中に強い衝撃が走り、顎を道路に落ちた瓦礫にぶつけたと自覚したときには、美しき暗殺者が自身の上に跨っていた。
「覚悟を」
ナターシャは短刀を振り下ろす。刃先がウラジーミルの鼻先をかすめたところで、戦時無線が鳴り響いた。
『停戦!全軍停戦セヨ!和平条約締結!全軍停戦セヨ!』
2113年8月27日、ジョセシア共和国の長年にわたる内乱がここに終結した。
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終戦から2年の月日が流れようという頃、ナターシャは首都の高層ビルの一室にいた。
「ナターシャ、そのスカート丈は服務規定違反だから。直してきなさい」
メガネをかけ書類の掠れた文字を見ながらウラジーミルはナターシャに告げる。
「そうかしら。男ってみんなこれくらいが好きなんじゃないの」
膝上0.6フィートほどのスカートをたくしあげパンツを見せる。光沢ある黒タイツの下からボトムインナーの桃色が透ける。
「ああ、大好きさ。」ウラジーミルはしっかりと脳裏に焼き付けた後、すぐに我に返り再び書類と睨めっこをした。
終戦後、和平の象徴としていくつかの南北合同国営企業が起業された。そのうちのひとつにナターシャとウラジーミルは雇われ、命を狙う側と狙われる側だったふたりは現在は部下と上司という間柄になっている。
「もう命は狙わないのですか」
ウラジーミルはおどけてみせるが、ナターシャはバツが悪そうに口をつぐむ。
彼女として戦争がなければ人殺しなどしたくはなかったのだ。幼い頃に軍に拾われ暗殺者として英才教育を受けた。
しかし歳を重ね自身の置かれた環境が普通ではないことを知っても、彼女には他に生きる術がなかったのだ。
「許せませんか。私のこと。」
昼休憩で公園のベンチに2人で並ぶ。正確には先に座っていたナターシャの隣にウラジーミルがやってきたのだが。
「許せないって、なにを?」
「…………命を狙ったことです」
敢えて口に出させることで罪悪感を刺激させたいのだろうかと、ナターシャは心の中で彼を逆恨みする。
「戦時下のことだから、君はああせざるを得なかった。だから気にすることはない」
「でも……!」
地位や財産ならまだしも命はひとつしかないのだ。たったひとつのものを何度も奪われそうになったのに、その相手を恨まず水に流すなどできるわけないとナターシャは思った。
「罪悪感が消えないんです。苦しくて」
どうにか償いたいと告げる。上司と部下という関係になってから彼はナターシャにも優しかった。しかしその優しさは凶器となって彼女の罪悪感に爪を立てる。
「償いかぁ」
ウラジーミルは顎を撫で考える。
「それなら、俺と付き合ってくれる?」
「………は?」
ナターシャは顎が外れそうなほどの衝撃を受ける。
「ん?えっと、お買い物ならお付き合いします。荷物持ちには自信がありますので」
どうにか動揺をごまかそうとするが、見透かしてるとばかりにウラジーミルはナターシャを見つめる。
「償いたいなら、僕の恋人になってくれるかな」
ナターシャの顔に全身の熱が集まるのがわかった。この人は何を言っているのだろう。頭で理解しきれないことを身体はわかってしまったようだ。
「体で償えってこと?…….それなら、恋人にならなくても」
一晩枕を交わすだけならその方が良い。彼と恋人になって、デートして、キスして。
おぞましい。過去の自分たちの関係を考えたら不健全にもほどがある。それならばお互いに割り切って体の関係だけの方が私たちにとってはまだ健全だとナターシャは感じた。
「もっと自分を大切にしてくださいよ。付き合ってもない男とそういうことしようって発想は捨てた方がいいよ」
ウラジーミルは優しく説く。ナターシャは自身の初体験を思い出し眉間に皺を寄せ目を瞑る。
暗殺対象だったその時の男は、ナターシャの中で果てたあと彼女の胸の上で絶命した。
おぞましい現実から逃げようと急いで本部に任務完了の電話をしたことを、彼女はいまも鮮明に思い出せる。
「………私の身体は武器だから。誰かを傷つけるためにはあるけど、誰かに愛されるためにあるわけじゃない」
誰かの恋人になって、恋人に愛でられる体など生まれた時から持ち合わせていない。ナターシャは自嘲する。
「戦争は終わったのに君はいつまでも誰かの武器なの?」
ウラジーミルは戦後に整備された道路を走る車を指差す。
「あの車だって戦時は物資を運ぶ輸送隊のひとつだったかもしれない。君が今食べてるパンを売ってたキッチンカーも元は野戦病院にあった炊事車両だよ。あそこに立ってる警備員も退役軍人さ。人を殺したであろう彼だっていまは見知らぬ誰かを守るためにそこに立ってる。」
ナターシャは黙ってウラジーミルの顔を見つめる。
「君も変わっていいんだ。戦争のためじゃない、自分のために生きられるように」
ウラジーミルの表情は戦場で見てきた彼とは違った。穏やかで、釣り上がっていた眉の筋肉がなくなってしまったのか、眉間の皺も長く使われておらず薄くなってしまっている。
かつての軍人らしい険しい表情は彼の端正な顔立ちをより引き出していた。
何回も何万回も見た顔。年相応に小皺が目立ちかたびれて、整えられた黒髪からはみでるように生えた白髪。
けれどナターシャの目にはなぜか、今の彼のほうが魅力的にうつってしまっている。
「すぐにとは、できないけど……」
「うん」
「ウラジーミル……課長は、わたしのこと好きなの?」
「好きだよ。」
ウラジーミルはナターシャの手を取る。白くみずみずしい少女の肌に、軍人の陽に焼けた無骨な肌が重なる。
ナターシャは彼の手を振り払うことができなかった。振り払ったら、繋がり始めた彼との糸が切れてしまうと思った。
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内戦終結から2年も経てば、個人の小競り合いや内紛こそあるものの、共和国内の治安は比較的穏やかなものとなっていた。
元々旧連邦国家から独立したジョセシアだったが、南部と北部をそれぞれ統治する大統領の子供たちが夫婦となったことが内戦のきっかけだった。
夫側の不貞により夫婦生活が破綻すると、それを口実に妻の父である北側大統領が南部に侵攻。
はっきり言ってしまえば不貞により傷付けられた娘のための報復で、国民にもそれは広く知れ渡っていた。
要するにうんざりしてたのだ。国民は。
市民の中で南部民族と北部民族への差別意識はほとんどない。元は同じ民族であるから当然かもしれないが、同胞意識を無くせるほど長い戦争でなかったのも幸いしている。
「だからって、わたしがまさか南部の男と…」
電車に揺られながらナターシャは頭を抱える。今日はウラジーミルとのデートの日だ。
休日にわざわざ仕事場のビルの隣にある商業ビルに赴く。このまま仕事に行った方が楽かもしれない。
「急な仕事になったとか……いや、ばれるか」
そもそもナターシャの上司はウラジーミルなのだ。彼女が休日出勤になるかどうかは彼次第。
ならば体調不良ということにすれば良いのだろうか。しかし彼女はなぜかそれを選択できなかった。
「ナターシャ。」
待ち合わせの場所でウラジーミルが待つ。下手に若作りをせず薄緑のポロシャツに濃いデニムシャツ、周囲の人たちは彼がかつて北部軍を壊滅させたこともある軍の司令官だったなどとは思いもよらないだろう。
「………普通ね」
「ナターシャは可愛いよ」
ウラジーミルの言葉がナターシャの面映い気持ちに刺さり、彼女の体温の上昇を手伝う。
豊かな胸と尻がよく強調された服装。ウラジーミルとは親子ほどの歳の差があり、隣に歩いてもカップルには見えないだろう。
「そもそもカップルじゃないけど……」
「そんな寂しいこと言わないでよ」
ウラジーミルは困ったように笑い返す。ナターシャは小さな唇を噛んだり吸ったり、まばたきの回数も増えたり落ち着かずそわそわしている。
「手を繋いでもいいかい」
ウラジーミルはナターシャの左に並び自身の右手を差し出す。ナターシャの利き手は右だ。
彼女の過去の職業柄、利き手が自由に使えないのはストレスかもしれないと思い配慮した。
ナターシャは真っ赤になりながら左手を差し出す。無言で目も合わないが、嫌がってるわけではないだろうことは、ウラジーミルは過去の経験から理解していた。
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デートはお約束の、映画を見て食事をして買い物をする。古今東西どこのカップルでも経験のあるであろうありふれたデートだった。
慣れた様子でチケットを買い、事前に調べたレストランで食事をする。ナターシャの好物の白パンが美味しい店を選んだのはもちろん偶然ではない。
ナターシャにとって初めてのデートでも、ウラジーミルにとっては人生で何度も経験したデートのひとつだった。
「ウラジーミルって若い頃もてたでしょ」
「なあに急に。今もモテますよ」
飲んでいた紅茶を吹き出さないようにナターシャは小さく笑う。目の前にいるのは平日は遅くまで働いて休日に家族サービスをする父親のような男。麗しき暗殺者と讃えられたナターシャに釣り合うような容姿でもないのに、ナターシャは彼の白髪や小皺を数えるのに夢中になっていた。
「もっと、皺とか白髪増えたら…….」
「真っ白でしわくちゃになるまで、そばにいてくれたら嬉しいな」
ナターシャは赤面する。彼への感情を見透かされているようで、彼女は何も答えられなかった。
休日明け、ウラジーミルとナターシャはいつもの上司と部下に戻る。どちらかといえば体を動かすことが好きな彼女にとって、一介の事務員としての仕事はなかなかにストレスだ。長時間動かしていない腰が痛む。
デスクでからだを伸ばしていると、そこにウラジーミルがやってくる。
「お疲れ様。アイスティどうぞ」
彼は冷えたコップをナターシャのデスクに差し出す。お礼を述べる間もないまま、ウラジーミルの姿は見えなくなってしまう。
「いいなぁ課長に気に入られてて」
お向かいの赤毛の事務員が口を尖らせる。
「別に気に入られてないよ」
「課長って結構人気あるんだよ。こないだも隣の課の女の子に告白されてたもん。そりゃああの顔で独り身ならねー」
ナターシャの心臓は大きく揺れた。胸の奥を鷲掴みされ雑巾絞りにあったような痛みを抱く。
ウラジーミルは私を好きだと言った。でもナターシャは彼女の中で生まれ始めた彼への恋慕の情を認めていない。
なのに、彼が他の女と付き合う可能性を見せつけれると彼女の心はそれを強く拒んでいる。
「ウラジーミル……」
少し遅い昼食を取ろうと外に行けばいつもパンを買うキッチンカーは片付けに入っていた。公園にはランチをとる会社員より学校帰りの子供たちや親子連れが目立つ。
約束しているわけでもないのにナターシャの瞳はウラジーミルを探してしまう。すると、広場から少し外れた街路樹の木陰のベンチに彼と、彼の隣に座る女をみつけた。
「ナターシャ」
視線に気付きウラジーミルは声をかける。
彼よりも小柄なナターシャの目線に合わせるように腰をしゃがませると、美しい白皙の肌は紅潮し紺碧の瞳には水面が浮かんでいる。
「ナターシャ」
ウラジーミルは再び声をかける。
ナターシャはなんとか声を絞り出そうとするが、先に彼に感情を訴えたのは彼女の大粒の涙だった。
「ナターシャ…….」
ナターシャもなぜ自分がこんなに苦しいのかわからない。彼の隣に座っていた女が隣の課の事務員のひとりだと気付いてしまったことも彼女の苦しみに拍車をかけた。
「わたしが、好き、と言っておいて…….!」
ナターシャの声はしゃっくりで喉奥からうまく出てこない。
ベンチに座っていた女は痺れを切らしたとばかりにウラジーミルの隣にあらわれる。
「どうしたの」
「あーごめん。先に会社戻っててくれる」
「え?だってこのあと散歩するって」
「ごめん、無理そう」
ウラジーミルはすぐに目線をナターシャにうつす。女は自分が振られたことを察し、さっさとベンチの上の私物を片付けて戻っていった。
次第にナターシャの興奮も落ち着いたようだった。しかし、ウラジーミルには周りの目線が針のように痛かった。
側から見れば中年男が10代の娘を泣かせているようにしか見えないだろう。実際泣かせたのは彼なので弁明のしようもないが。
ウラジーミルはナターシャをそっと抱きしめる。拒絶されるかと思ったが彼女の小さな体は元軍人の大きな胸にすっぽりと収まっている。
「ナターシャ……愛してる」
ウラジーミルの穏やかな声は張り詰めた彼女の心を優しく撫でる。ナターシャは小声で「わたしも」と答える。
かくして、親子ほど離れた元軍人と元暗殺者の新たなカップルがこの世に誕生したのであった。
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ふたりの交際は思った通り順調だった。
付き合った直前にウラジーミルに「振られた」女のせいで会社でもすぐにカップルと認知され、からかわれることも増えた。
ナターシャにとっては何もかも初めてのことで面映い心地だったが、密かに人気のある彼のファンを牽制できていることは、彼女の心に生まれて初めての平穏を取り戻した。
「ナターシャ」
「ん……」
最低限の電気しかついてない週末のオフィスの廊下で、ナターシャとウラジーミルは唇を交わしていた。
「タバコの味がする…」
真っ赤になり蕩けた瞳をウラジーミルに向ける。
「タバコは退役したときに辞めたけどなぁ」
節約のためにね、と言いナターシャの舌に自身のそれを絡めていく。
誰もいない廊下にふたりぶんの唾液の水音が響く。時々目を開けながらウラジーミルの表情を探るが、彼はこめかみに汗を垂らしながらナターシャの中を貪っていく。
やがてナターシャの腰に彼の手が回される。
腰か尻か曖昧な部分をウラジーミルの手がまさぐる。
やがて下に辿った手が掴んだものはナターシャの小ぶりな双丘だった。
「ナターシャ………」
ふたりが恋人になって3ヶ月が経った。
お互いに、相手を求める気持ちを抑えることができないでいた。
「明日休みだから」
「………うん」
「今夜うちにきて」
ナターシャは小さく俯く。ウラジーミルは自身の劣情を抑えるように、ナターシャの肩を軽く叩いてオフィスに戻って行った。
ウラジーミルの家は電車で1時間ほどの場所にある、一介の会社員には勿体無いような立派なマンションだった。
「すごいね、お給料いいんだね」
「………まあ、退役軍人は恩給悪くないからね」
珍しくウラジーミルの歯切れが悪い。これから自分たちがすることを考えたら彼が緊張しているのも無理はない。
「お風呂先に使っていいよ」
「あ、はい……」
洗面所には湿った足拭きと乾き切っていないタオル、ウラジーミルのものと思われる小さな毛も落ちている。
仕事をしている時の彼はきちっとしているが、玄関も靴がまばらに置いてあってし廊下は塵が落ちていた。意外とずぼらなのかもしれないと、恋人の新たな一面を見つけたことにナターシャは思わずにやける。
風呂に入ればカビが目立つがまあ我慢できないほどではない。そもそもナターシャの家は彼の比ではないほど荒れ果てている。
これまで殺しの英才教育しか受けてこなかった彼女にとって、仕事と両立しながらの家事は思った以上に大変で、ウラジーミルと付き合い始めてからの土日は彼と過ごすことも多く家のことはすっかりおろそかになっている。
(ウラジーミルのこと家に呼ぶ時までにちゃんと片付けよう)
誰だって好きな人にはかっこつけたいものだ。それなのに、ウラジーミルが大して掃除されていない部屋に自分を招いたのは、彼が自分を信じてくれているということだろうか。
軽くシャワーを浴びて洗面所に出る。
するとわずかだが廊下からウラジーミルの声が漏れている。誰かと電話でもしているのだろうか。
良くないと思いながらも聞き耳を立ててしまう。
(計画、、、軍……軍?南部?なんぶ?)
かろうじて聞き取れた単語はナターシャを不安の渦に落とした。
(ウラジーミル、まさか、まだ軍を辞めていないの?)
彼は確かに退役したといった。平日は一日中会社にいてほとんどの土日はナターシャと過ごしている。彼が軍に関わっているならもっと自由はないはずだ。そもそも南部も北部も軍部首脳陣は全て解散した。
ない、あるはずがない。
ナターシャは濡れた髪のまま廊下に出る。ウラジーミルはリビングから振り返りその様子に気づくと、急いで電話を置いてナターシャの豊かな絹髪を湿ったタオルで拭きなおした。
「風邪ひいちゃうよ」
ナターシャは無言だった。何を言っていいかわからない。ウラジーミルが軍を辞めていなかったところで何なのか。もう戦争は終わったのだ。
北部の暗殺者だったナターシャとの間にわだかまりはないはず。なのに、胸の奥に生まれた不安は次々と彼女の中に芽を生やしていく。
「軍と、……」
「ん?」
「誰と電話してたの」
ナターシャはウラジーミルを抱きしめる。
まだ風呂に入っていない彼の体からは中年男特有の香りが漂う。決して心地よいとは言えないはずのそれも、いまは毛羽立ったナターシャの心の毛皮を優しく撫でていく。
「さっき、この家の話したでしょ。」
「うん」
「この家、実は軍から借りてるんだ」
同じ間取りの家だとこの辺では、俺の給料だととてもじゃないが住めないから、とウラジーミルは苦笑する。
「恩給代わりに安く借りてるんだ。それで、今後の確認をしたくて」
「今後の?」
引っ越すの?とナターシャは問う。おそらく、彼女は今夜ここで初めて恋人に抱かれる。男を知るのは初めてではないが、初めて愛ある行為をした場所を、すぐ失ってしまうのはなんだか悲しかった。
「そうじゃ、なくて……」
「?」
「結婚してもここに住み続けられるか、確認してたんだ」
ナターシャは全身から熱が噴き出たような気がした。プロポーズ…….されたわけではない。彼は誰と結婚するかなんて言ってない。
彼に限ってないだろうが、万が一…もしかしたら、他に女がいて。いやありえない。でも、もしかしたら。
「………結婚するの?」
ナターシャの手に力がこもる。ウラジーミルは目を瞑りながら、彼女の背中を優しく撫でる。
「結婚してくれる?」
ナターシャの人生に結婚というものが加わる日がくるとは思っていなかった。ウラジーミルと付き合い始めても、男女の恋愛が結婚に直結することに彼女はどうしてもしっくり来ていなかった。
なのに、いきなり結婚という現実と直面したのに、自分の心が少しの嫌悪感も抱いていないことに彼女は驚いている。
「エッチしたいからそういうこと言うの?」
「結婚してくれなくたってエッチはしますよ」
「なあにそれ。すけべ。」
ナターシャは少し熱のおさまった顔をあげてウラジーミルを見つめる。少し前にオフィスの廊下で交わし合った性急な熱とは異なる口付けを与え合っていく。
「……シャワー浴びてくるから」
「うん…」
「帰らないでね」
「ふふ。どうしようかな」
ナターシャはウラジーミルと入れ替わるようにリビングに入る。窓からは夜景が一望でき、すぐそばには黒いシーツに覆われた彼のベッドが置いてある。
「ウラジーミル……」
シャワーの音と調和するように、大きな古時計の秒針の音がリビングに鳴り響く。
やがてドアを開ける音がすると、ナターシャは思わずリビングの入り口から顔を背けた。
「ナターシャ……」
「こら、風邪ひいちゃうよ」
ウラジーミルの短い前髪からは水が滴り落ちる。乾き始めていたナターシャの髪に真珠のように輝き落ちたそれは彼女の美しさを際立たせ、ウラジーミルの愛欲を煽っていく。
「ナターシャ」
熱が上がったのは彼女が上げたままだったシャワーの温度のせいか、ウラジーミルは自分に擦り付いてくる彼女を抱き上げベッドおろす。
そして、ふたりはついに真の恋人同士となったのだった。
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それからふたりの週末の過ごし方は、少しずつ変わっていった。金曜日にウラジーミルの家に泊まり、土曜日はデートをする。
そのまま日曜まで過ごして、月曜にはふたりで出社するのだ。
ふたりが交際を始めて半年が経とうとしている。ナターシャが半同棲ともいえる生活に慣れてきた頃、彼女の体に異変が起こった。
「ごめんね。先週は会えなくて」
先週は金曜日の夜からウラジーミルは戦没者追悼式に参加し地方に行っており、帰ってきたのは月曜の夕方だった。
主に南部の軍人たちを追悼する式典。しかし、その様子はメディアには一切公開されない極秘のものだ。
「……うん」
繁忙期も過ぎて初めて平日の夕食を共にする。
ウラジーミルがわざわざ予約してくれたそこは現在の彼の身分や収入には見合わないような高級店で、久々に元将校たちと会って気が大きくなってしまったのかとナターシャは不安になる。
「何飲む?ビール飲んでいい?」
「グレープフルーツジュース」
ナターシャの言葉にウラジーミルは違和感を覚える。その違和感の正体を彼はすでに知っていた。
「……体調悪そうだね」
「うん」
「病院いった?」
「……なるべく早く一緒に行きたい」
「うん。その、検査薬は?」
「陽性だった」
そうか、と彼は小さくため息をついた。
ビールを頼むのはやめるよ、と言うとナターシャは小さく笑った。
安定期に入る前にナターシャは会社を辞めることになった。つわりが想像以上に酷く流産の危険まであったからだ。
家賃が払えなくなるのも時間の問題だったので、彼女はさっさとウラジーミルの家に引っ越した。
ウラジーミルといえば、ナターシャが抜けた穴を埋めるように激務になっていき家に帰れないことも増えて行った。
『今日も帰れそうにない。ごめんね』
ナターシャはわかったと伝えて電話を切る。彼に言うつもりはないが、実はひとりのほうが気楽だったりする。
彼の帰宅に合わせて料理や掃除をしなくていいし、好きなテレビだって観られる。まだ買い替えていない狭いシングルベッドもひとりじめできるのだ。
「ウラジーミルが浮気なんてするわけないもんね」
かつてのナターシャは既婚者が外泊したらそれは浮気の証拠だと信じて疑っていなかった。
世の妻たちはなぜ男の多忙だ出張だなどと言う言葉を疑いようもなく信じるのかと、内心馬鹿にしていたほどだ。
実際にナターシャの過去のターゲットの多くは既婚者で、ナターシャの色仕掛けにまんまとひっかかり、妻に嘘をついてホテルで会っていた。そして翌朝に浮気の言い訳もできない状態で発見されるのだ。
「そういえば、ウラジーミルは一度も色仕掛けにハマったことないんだな……」
彼の暗殺を命じられたとき、ナターシャは最初、彼の良く行くレストランのウェイトレスとして彼を誘惑した。
仲良くなっていき初めて2人で会った日の夜、振り下ろした短刀を彼は素手で受け留めたのだ。
いまでも彼の手のひらにはその傷が残る。ウラジーミルの戦傷の多くはナターシャによってつけられたもので、初めて会った時から4年間、彼はほぼ毎秒を彼女に命を狙われ続けた。
「でも、いまはふたりで命を繋げようとしている……」
ナターシャはお腹を撫でる。少し出張ったそこは豊かな胸に比べるとまだまだ細く、ここに赤ん坊がいることなど言われなければ誰も気付かないだろう。
戦時では感じることのなかった穏やかな空気が、いまは彼女の人生もゆっくりと包んでいた。
数日後、ウラジーミルが帰宅する。
彼がその日持ってきたものは赤ん坊のためのベビー服数点と、婚姻届。
そして新身分申請届だった。
「新身分申請届?」
終戦後に新たに制定された法律で、戦時下で軍関係者だった者に新たな身分を与える制度だ。
特に情報将校や最前線で死神と言われるほど活躍した兵士は、その遺族や関係者から命を狙われる危険があった。戦後に平穏な生活を与えるために、身分を変えられる制度のことだ。
そしてウラジーミルも、結婚を機に現在の身分を捨てて新しい人生を歩みたいのだとナターシャに告げた。
「名前も、ウラジーミルじゃなくなるの?」
「たぶん。仕事も変わる。そこは国が保証してくれるから大丈夫だよ」
彼の決めたことに否やはない。ナターシャとて暗殺者だった頃の自分を捨てきれているわけではないのだ。
「前に話してくれたこと覚えてる?戦争が終わって、自分のために生きるようにって言ってくれた」
覚えてるよ、とウラジーミルは返す。
「ウラジーミルは、今度は自分と……子供のために新しい自分になるんでしょ」
ウラジーミルは小さく頷いた。ナターシャを忘れてるよ、と言うと、ナターシャは照れくさそうに笑い目を逸らした。
ナターシャはいままさに新しい命を誕生させようとしている。ナターシャは幼い頃からありとあらゆる痛みは経験してきたつもりだった。
電気、毒、銃傷、刺傷、火傷、水溺、家族のいない痛みも。
そんな彼女ですら経験したことない激しい痛みの中で、思い出すのはかつて自分が殺した人たちの顔だった。
(あの人たちにも家族がいて、子供も、いて)
生まれくる罪悪感は皮肉にもいままさにこの世に誕生しようとする赤子からもたらされる痛みを和らげた。
ここで苦しいと思ってはいけない。自分にそんな資格はない。
やがてナターシャの待ち望んでいた産声が上がる。彼女はやっと、自分は暗殺者ではない何かになれたのだと涙した。
「かわいいね」
「うん。」
ウラジーミルは赤ん坊をじっと見つめる。
いつもはにかんでいるような彼の表情は珍しく固い。
「………嬉しくない?」
「嬉しいよ」
ウラジーミルはナターシャと目を合わせない。彼の視線は生まれたばかりの我が子の、その命にすら向いてはいなかった。
ナターシャは明後日まで入院だという。
面会時間も過ぎ帰宅すると告げたウラジーミルが向かった先は、人気のない元市街地の公衆電話ボックスだった。
「無事に産まれました。将軍」
『そうか。早かったな。数年はかかると思っていた。お盛んだな』
電話越しの相手のジョークに彼が返す余裕はない。
『目的を忘れていないか。南部ジョセシア共和国大将ウラジーミル=セクレティアレト』
「もちろん忘れておりません。来る日の北部との戦いに向けて、優秀な人材を育てる。それが我々、真南部軍の目的です。」
彼がナターシャと子供をつくった真の目的は、いずれ復活する南部軍の人的資源とすることだった。
『我が子を見て情に絆されやしないかと心配していたが…』
「わたくしに情があるから我が子を我が国の軍人としたいのですよ。国のために生き、国のために死ぬことは至上の喜び。わたくしは我が子を自分と同じように思い育てる所存です。」
『妻は何も言わないのか』
上官の問いに、ウラジーミルは眉を顰める。
「………私の妻がもういないことは、ご存知でしょう」
若い時分、ウラジーミルには妻子があった。
その頃の彼は"ウラジーミル"ではない本当の身分で結婚した。
表向きは南部ジョセシア共和国将校ウラジーミル少将として、家に帰れば真名で家族に一途な愛を捧げる男であった。
それが内戦が始まると、彼は元の名を捨ててウラジーミルとして生きることになった。ウラジーミルとして一日だけ本当の妻と入籍し、すぐに離婚。安全のために妻子は部下と偽装結婚させた。
しかし、その部下とともに妻子は殺されてしまった。北部の美しき暗殺者・ナターシャによって。
『私がわざとあの女のターゲットになった理由もご存知でしょう。』
妻子を殺したナターシャが自身の通うレストランでウェイトレスとして働き始めたことも彼はすぐに気付いていた。しかし通うのをやめなかったのは、彼女のターゲットが自分だと気付いていたからだ。
『おろそしいな。一度契った相手になんの情も湧かないか』
「家族を殺した相手に沸く情など持ち合わせておりませんよ」
彼がウラジーミルを捨て新たな身分を得てナターシャと再婚した理由。
それは、ウラジーミルの身分に一日だけ記録されている妻子の記録を消したくなかったから。いや、並べたくなかった。かけがえのない妻と、妻を殺した女の名を。
毎年行われる南部軍の戦没者追悼式、メディア報道が一切なされない理由は、終戦後も地下で暗躍する軍部の残党による集会であるからだ。
『犠牲になった同胞たちのためにも、戦争をここで終わらせてはならない。南部が勝つまでこの戦いは終わらない。たとえ何があっても』
「わかっております。ナターシャの遺伝子ならば必ずや我が子は良き戦闘軍人へと成長するでしょう。」
そう言ってウラジーミルは電話を切った。彼の手はわずかに震えている。
軍人だった頃の高揚感と緊張感、一日だって忘れることのなかった妻子への愛、ナターシャへの憎しみ。彼の中に増えていく感情はもはや、彼の体には収まりきらなくなっているのかもしれない。
退院後はじめての休日、リビングのカーペットで寝転ぶ赤ん坊とナターシャをウラジーミルはソファに座りじっと見つめていた。
「ナターシャ…」
「ん?」
死んだはずの妻の名を呼ぶ。しかしその問いかけに応じてくれたのは、妻と同じ名を持つ、妻と同じ顔の敵だった。
「……ナターシャの、名前は誰がつけたの」
子の名付けのついでに聞いてみようとウラジーミルは尋ねる。
しかしナターシャは首を横に振った。
「しらないの。小さい頃からナターシャだったから」
知っている。君は小さい頃からナターシャで、それは君を産み捨てた母が、君の姉と同じ名前をつけたんだ。
「……聞きづらかったから聞いてこなかったけど、"君"に家族はいるの?」
ウラジーミルはソファから子供をあやす。
「家族ならいるよ。いまは」
ナターシャは満面の笑みで応える。ウラジーミルがくれたんでしょ、と言うとウラジーミルは思わず噴き出した。
(馬鹿だな、本当に)
「夫」の馬鹿にしたような態度にナターシャは文句を言いながらキッチンに行ってしまう。そのまま粉ミルクを作り始めテレビをつけ、広いリビングでは大声を出さないとお互いの声は聞こえない。
ウラジーミルは生まれたばかりの我が子を見つめる。青い瞳、金色の髪が亡くなった妻にそっくりだと思った。
あの頃の子供たちも妻に良く似ていた。妻に似ていたから可愛かったし、愛していた。
なのに
「……なんでこんなに可愛いんだろう」
ウラジーミルは赤子の手を握る。汚れを知らぬ白い頬に、父の涙が滴る。
彼は亡くなった子供を想い、そして生まれた我が子を想う。
「ごめん」
彼は小さく呟いた。誰に対して向けられた言葉だったのか、それは彼にもわからなかった。
終。
最後までご覧いただきありがとうございました。