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微睡む牙古鳥の随筆

意味を添加された、特別な普通の日

 日々を生きる、というのは、深く考えなければ難しいことではない。


 ……いや、まぁそもそも過言かも知れない。どんなものにも、例外はある。

 ここで言う「生きる」という言葉が指すものが、(すなわ)ち「生命の維持」であるという場合において、それを容易いもの(とは厳密には言ってないけど)だと感じるのは、だいたい以下の条件を前提としている。


 ・人であること

 ・現代の日本に生きていること

 ・内在の生き辛さを抱えていないこと

 ・特に恨み等を買っていないこと


 特に何も考えなくても生きてはいられる、というのは、それ自体が得難く、あるいは特権的な幸福であると言える。生まれた種が違っていれば、生まれた時代が違っていれば、生まれたところが違っていれば、そして人生の経験が違っていれば。「それ」は何ら当たり前のことではないかもしれない。



 ……という話は、実のところあまり本筋には関係なくて。


 元々、そういう意味の話ではない。私が言いたかったのは、要するに


「日々って、てきとうでも勝手に流れていく時間だけど、実際には何もなかったんじゃなく、()()()()()()()()()んだよな」


 ということである。主観的時間の話なので、ガチで丸一日寝ていた、とかなら知らんが。特に事情がない限り、本当に顕在意識が全くない日というのは稀である。それに、その意味において、一日というのは必ずしも日が昇り、また日が昇るまでの約二十四時間のことを指すわけでもない。誰かが定めた言葉の意味は、必ずしも概念の本質ではない。

 ……いや、そういう話もどうでもよくて。その辺がどういう意味の言葉なのかは、また後書きにでも差し込んでおく。


 そう、今回の目的は、ガチ日記。

 普段、随筆という名前を借りて、現実にあったことをベースに面白おかしく(※)書き記しているが、アレは要するに意味を感じられた日々を切り取り、それを記録するという所作といえる。


 今回は、そうではない。意味というものは、自らの認識に依って生み出される。


 今日、令和五年(※)文月の九日は、理由ではなく意志によって刻まれる日となる。書くために何かをする、という予定はない。ただ存在したこの日を、やはりただ書けるままに日常として記録しよう。


----


 以上、企画説明、終わり。


 午前五時半に起床し、およそ三十分かけて、ここまでを書いた。

 仮にも字書きとして、これくらいの文は一瞬で書けるといいのだが、考えながら書くと、中々そうも行かない。創作のストーリーを書くのと、こういうの……微妙に言語化し難い。内面の表現? の、どちらが容易であるかは、人による。


 私としては、書くだけならこういう文のほうが書きやすい。正解はないので。それでも、創作の方には基本的に描きたい(≒描くべき)内容というものがあるから、方向性は明確になる。事も多い。

 ……もしかしたら、文を書くのって難しいのかもしれない。PDA(スマートフォン)のフリック操作による字の入力も、微妙にかったるいし。もちろん、手で書くのに比べりゃ死ぬほど楽ではあるんだが。


 そんなことはまあ良くて。取り敢えず、今日という日の予定を考えてみる。

 気が変わらなければ、昼にピザを頼んでおく。二十時頃から、お友達に誘われたものに顔を出す。それ以外は、したいようにする。だけど、一つだけ流石にしておかないと良くないよな、ということもやろうとは思っていた。最終的には、やらないかもしれない。たぶん、やらないだろう。


 いや、本当は。やるべきことというのは、したいからするものではない。やる必要があるから取り組まなければならないのである。そこに自由意思は絡めないほうがいい。ただ意志をもって取り組むべきことだ。


 ……だけど、直ちに死ぬわけでもないし。

 そうした怠惰の気持ちが、なすべきことを彼方へと送り。今日も明日も、それってどうなの、という状態のまま、腐った日々を過ごしていく。


 別に、いいよね。そういうのを書いても。

 現代に限った話でもないが、自己表現は虚栄心に由来して行われることが多いようにも思う。……この話、長くなりそうだから、一旦お湯沸かしとこ。よし。

 虚栄心に由来して行われる自己表現というものは、ふつう自分の悪いところというのを、意図もなく他者に見せることはない。それに限らず、(なにがし)かの意図をもって行われる表現には、原則として何らかの意味が込められるものだ。意味を込める能力については、かなり人に依存するが、上手い奴は非常に狡猾に、他者の気持ちを操る。

 だが、少なくとも今日の私はそうではない。今日の私は、ただ日常を伝えるだけ。描く為の物事も特には欲さず、あるがままの私の日をここに書くのみだ。そろそろ湯が沸く。というか沸いた。


 近所で買った、トップバリュのやっすいカフェオレのスティックを、この前……いつ頃だったか。まだ春になる前くらいだった気がする頃、新しいPDA(けいたいでんわ)を買うついでに寄った、ニンテンドーオオサカで買ったゼルダの伝説のマグカップに注ぐ。表現がもたつき過ぎて気色悪い。文才(センス)皆無か?


 (くだん)のマグカップだが、温度によって色が変わるギミックがついている。黒い三つのハートが、温度が高いほど右側まで赤くなるのだ。同ゲームのライフの表現方法に由来する……というのは、言われるまでもなく何となく察している人が多いだろう。ゲームやってるならお約束だし。

 んで、私は熱い飲み物が苦手なので、注いでしばらくは放っておくのである。目安としては、ハートの数が二つに減るまで。

 ……と言いつつ、実際には半ば存在を忘れて、ハートがなくなるまで放っておいてしまっていることも、しばしばある。必ずしも「温かい飲み物」を飲む意味で飲んでいるわけではないので、別に間違いではないが、それでも何となく負けた気分にはなる。


 ということで、ちょっと冷めるまで、てきとうにツイッターでも見とくか。



 そろそろいいか。口をつける。まぁ、いい感じ。そのまま一息に飲み干し……は、しない。冷たかったらやるけど。

 さておき。こういう無為な時間をこそ、一次創作の小説にでも充てればいいのではあろうが。興が乗ったら、とかいうと一生取り組みもしない。やるのは業務時間中のサボりとして、というのも健全ではないし。

 だが、今日はこうして日記を書いている訳だから、二本書くのもな。……いや、日記ってここまで張り付いて書くもんじゃないはずだけど。文量も爆発しかねないから、適宜見直しを図ろう。それがいい。


 ――そして、夜になった。


 ……とかやらなければ許されるだろう。そもそも誰が許すんだって話でもある。

 実のところ、そういう執筆が許されていない可能性すらあるが。人それぞれ、主義も主張も変わる。私の一次創作が好きな人もいるだろうし、訳のわからん妄想を聞かされるくらいなら、意味のわからん日常を見せられる方がマシ、という人もいるだろう。

 私は、私のしたいようにやる。行動に少しでも干渉したいなら、評価の星を投げるなり、感想を投げるなり、あるいはSNS等のコミュニケーション機能で罵詈雑言を投げてくるなりすればいい。いや、最後のはやめてほしいが。言葉が伝わらなければ、想いは伝わらない。本来、言われるまでもないことだ。そして、本質的にはやりたいようにやる、というのは想いがあろうとなかろうと変わらず。


 まぁ、そうですね。取り敢えず体を清めてから、ゲームやる代わりに執筆も意識しましょうか。

 ……ゲームと言えば、そういや昨日のデイリーやってねえじゃねえか。テンション下がる。いや、下がってはないか。普通やな。



 というわけで、しばらくコトダマン……正式名称は『共闘ことばRPG コトダマン』だっけ。記述当時は五周年を迎えてしばらく、仮面ライダーコラボの第5弾が実施されていた頃だった。……いや「記述当時は(中略)頃だった」って言ってるけど、普通にリアルタイムなんだよな。うん。


 ずっとそればっかりやってるのもいいんだけど、とはいえ別のことも進めたい。執筆もしよう。いや、この文のことではなく。

 注文したピザが届くまでの一時間弱、書きかけの節の続きを書いていた。中々、進みが良くない。こういう時に、パパッと書けてしまえば色々と楽なのではあるが、精進が足りませんな。そして、ピザは美味い。これもまた、語る必要もなく自明と言える。


 さて、飯も食って。しばらくのんびりするか。要するに転寝(うたたね)の時。考えて文を捻り出すだけでなく、俯瞰的に色々と考えるのも大事だろう、と思う。取り敢えずここまでが建前で、本音としては「どうせ進捗変わらんなら、形式的にやってるだけ無駄かな」というところである。カスがよ。



 そんな感じでゆっくりと微睡(まどろ)み、十四時頃。てきとうにココアオレでも飲みながら、ゲームの周回でもしよう。

 執筆はどうしたのか? なんとなく、想像しつつかな。焦っても、あまり良いことはない。目的に指向しすぎる考えは、結果には繋がるかも知れないけど、常に正しいという訳でもない。


 

 周回を終え、十六時頃。少しツイッターを眺める。今日もツイッターでは人と人の不和が転がっている。

 インターネットの普及により、この世界は非常に軽率に繋がるようになった。それは、必ずしも悪いことではない。それでも、悪いことというのはどこにでもありふれている。


 何を(もっ)て悪いのか、というと、実のところは良く分かっていない。それでも、私にとっては平穏と高価値――つまりは「可能な限り幸福を感じ、なるべく不幸を感じることが少ないこと」が良いことで、それに反することが悪いことだと感じる。そのように、考えている。

 だから、近年では良く話に挙がる、表現の規制……有り体に言えば「えっちなのはいけないと思います!」のより過激な思想のことであるとか、私が言うところの「フェミニズムの面汚し(・・・)」連中、要するに男性嫌悪(ミサンドリー)(こじ)らせた脳足りんの蒙昧どものことであるとかは、私は心底から嫌悪している。

 連中は、自分の都合の良いように世界を見過ぎている。連中は、具象を抽象にそのまま展延する。極端な事例を、そのまま普遍の真理だと思い込む。その知性の足りなさが、気に食わない。


 ……まぁ、そんなことは別にいいか。日記に書くほどのことではない。その辺の主義主張に関しては、むしろそれ単体で一本書けばいいような内容とも言える。

 それに、そもそも好感度の事を考えると、創作者はあまり直截(ちょくせつ)的な思想の表明をしないほうがいいのである。コンテンツとして生きる人間には、コンテンツとしての価値だけが求められるものだ。それでもなお言いたいことがあるなら、創作を通して言うのが良い。たぶんな。


 何にせよ、狙ってやるかどうかには依らず、創作者が書くものには、創作者の思想が少なからず滲み出すものである。単純に、創作者が善と感じるものが、作中において善と描かれるかは別の話ではあるが、それでも創作者が心中に再現し得ない価値観というものは、基本的に書かれることはない。

 真に迫る創作というものは、内在に由来して生じると、私は思う。それは、必ずしも創作者の経験には依らないかもしれないが、色々なものを見聞きして、把握して、理解して再構築するのが創作である。理解の乏しいものは、どこか嘘くさくなる。まるであったかのように、ないことを書くというのは、やはりそれが中には存在するからなのだろうと思う。


 故に、私が思想家のようなものとして物事に触れるのは、私の創作というものが、私自身の触れた思想に由来するからなのかもしれない。何かを感じ、それに感化されて私の文章は生まれる。何も思わなければ、何を書く必要もない。何を良いと感じ、何を悪と断ずるのか、それこそが私の私たる本質なのだろう。



 ということを考えて、さあ執筆に戻るぞ、とみせかけて。スマブラでもしようか。正式名称で言えば『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』である。私がまあまあ得意と表現して差し支えないゲームの一つ。最強、というほどでもないにせよ。

 やろうと思えば延々やっていられるが、取り敢えず一時間ほど、たまには勝敗の記録でもつけるか。


 ……そして、一時間ほどが経過した。


 最終戦績は……計算がめんどい。スプレッドシートでも使うか。

 内訳とかは書く方法もわからんから、合計だけ言うと、19戦やって7勝12敗。つまり敗北者というわけですな。


 もちろん、相手が同格程度の場合、勝ったり負けたりするのは当たり前のことでしかない。というか、対戦ゲームは仮に最強だろうと、相手次第では負ける。そういうもん。それでも勝負に身を投じるのは、そこに愉悦があるからであるのが望ましい。わざわざ、苛立つためにゲームをやることはない。


 とは、言ってみたものの。なんだかんだで、そういう心の動きを求めるのは、人としては自然なことなのかもしれない。わざわざ苛立つ必要はないと、私は思う。だが、他の人が同じように感じるとは限らない。

 心が動かない人生というのは、生の実感が乏しい人生であるのだろう。日常を無為に過ごし、出来たはずのことをしなかった後悔に囚われ、あるいは忙殺される我が身に無力を感じ、それでいいのかと疑問に思う。別に、それでもいいのはいいのだけれど、それだけじゃ全く足りないと感じ、自分自身が(・・・・・)何者か(・・・)である(・・・)ということを、誰かに承認されたい。


 それはきっと、自分自身という、人類の中で最も特別な誰かを、他の人にもそのようであると知らしめたい、と思う欲求。根源的な、存在証明。そんな事をしなくても、自分自身が特別であるという宿命からは逃れられない。だが、だからこそそれに拘泥する。他の有象無象と、私は違うものだと、そうであることを認められないのは耐え難い屈辱である。


 ……と、いう事なんですかね。私には、半分くらいしか分かりません。

 きっと、それは正しい理解ではなく。私の中にある思いと、他者の行動特性の動機の予想から、類推されたものでしかない。他の人のことは、知らん。知りたくはあるが、聞き出したいわけではない。


 だから、誰かも私のように。そこにある飾られぬ思いを、あるいは飾られてもそこにある思いというものの本質を、表明しているのを観測したい。

 ものによっては、唾棄すべき邪悪とすら感じることもあるだろう。それでも、直接的に害が及ばないならば、私はそれを尊重しなくてはならない。認めて、認識して、理解を試みて、ゆっくりと真理に近付いて、よりよい未来を目指したい。


 そんなことはよくて。次の予定は二十時頃。時間にして一時間半ほどの空白がある。執筆の続きでもしておこうか。



 然程進捗もないまま、二十時頃。誘われてリズムゲームに興じる。具体的に言うと『シアトリズム ファイナルバーライン』。こちらは、言うほど得意ではない。最高難易度とかは、どう考えても無理。それでも、始めた頃は「無理じゃね?」と考えていた、難易度「究極」の譜面も、そこそこはクリア出来るようになっている。

 やはり、研鑽というのは大事だ。本質的には、出来なくても(・・・・・・)頑張る(・・・)、これに尽きる。出来ないことが、やらない内に出来るようになることは、原則ない。故に、したいことのうち、今は出来ないことというのは、出来ねえっていう無力感や劣等感を跳ね除けて――あるいは、その感情と向き合いながら、ただ出来るように願って頑張るしかないのである。


 ……ああ、そうだった。昔から、何でも出来たわけではない。むしろ、今でも胸を張って出来ると言えることは限られている。それでも、やりたいと願い、誰かに比して優秀でありたいと願い、もっともっと楽しみたいと、一心に行ってきたことは、ある程度は出来るようになっている。

 この気付きは、カクヨムの方で書いている、過去のツイートを遡って記録しているやつの方で書いた所感のパクリである。具体的にいうと、こいつ。


https://kakuyomu.jp/works/16817330659763635372/episodes/16817330659973246919


 興味があったら見てもいいし、いちいち見るほどのものでもないかもしれない。リンクのコピー&ペーストも面倒だろうし。


 なんにせよ、やりたいと思う意志の力がなければ、出来ることも別に出来ないし、そしてやる必要もないのである。

 その想念が、幸福に属するのか、不幸に属するのかは、いまいち分からない。何かをしたいと願わなければ、叶わないことが不幸にならないのだから、自由意思という概念自体、不幸の本質にすらなりえるだろう。


 それでも。間違いなく、その想いは尊い(・・)のだ、ということだけは分かる。先も見えない暗がりに明かりを灯し、道を切り拓いていく、その想念。我欲とは薄汚いものだと私は言うし、当然そう思っている。だが、その想いは間違いなのではない。むしろ、どこまでも正しい。人の世は、人の意志の力、広がり良い思いをしたいと願う、欲の力で切り拓かれたのだ。


 肯定出来る想いも、唾棄すべきと感じる願いも、その本質は変わらず。

 (あまね)く人のために、という願いも、ただ自分自身のために、という我の願いも、そのどちらかが単に善く、単に悪いということでは有り得ない。世界はただ在るように在り、行いが結果として現れるに過ぎない。


 誰かにとっての善いことは、そのままそれを良しとしない者にとっての悪いことである。善悪というものは、解釈によってのみ、そこにある。それを忘れてはならない。さもなければ、極端な正義は、敵対者を全て殺し尽くしてしまうだろう。


 ……それでも、きっと。あなたは、あなた自身の正義を譲らないのでしょう。間違っているのは、相手だ。譲歩はともかく、相手の方が正しいことなんて、有り得ない。


 そうですね。正誤のことは、私には分かりかねますが。それでも、私は。私自身が正しくないこと――正しくてはいけないことだけを知り、そのようにあるばかり。



 それでは、今日という日の終わりに、この言葉を捧げましょう。


 ……どうか、私自身の厭世が、世を生きる全ての正しき人々にとっての間違いでありますように。幸福を願い、掴み取ろうとするその意志がもたらす痛みに、果たして意味がありますように。


 私が傷付け、私が傷付いたことに、ただ悪意があったわけではないと。


 怨嗟と呪いが満ちるこの世に、それでも好ましい輝きはあったのだと。

 あなたの、その生き様に刻んでください。私も、そのようにします。

「誰かが定めた言葉の意味は、必ずしも概念の本質ではない」


 ここでは、文脈において語られる「一日」というものが、必ずしも暦の上での午前零時から、翌日午前零時を指すわけではなく、どちらかというと「朝起きてから、眠るまで」の事を暗黙的に指すことを言う。

 なので、完全な徹夜を行った際、ここでいう一日は四十八時間を越えることも有り得るし、一方で「日付が変わった」と思う瞬間があれば、そこには明確な区切りがある。物事は、必ずしも誰かの定義によらず、自分自身の認識によって意味をなすのである。


※面白おかしく:他の人が読んでて面白いかは知らん

※令和五年:この前たまたま合ってて良く憶えてるからって折に触れて言い過ぎ

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