#1.覚醒
浮上した意識を出迎えたのは仄かな灯りだった。
ぼんやりとした微睡みの世界に映っていた炎の景色はなく、見慣れないアイボリーホワイトの天井に白色の蛍光灯が並んでいる。視界の中の狭い空間に感じる清潔な雰囲気と、鼻腔を昇ってくる消毒液の匂い、そして何より、背を押し返すマットレスの感触は、病室という単語をいとも容易く寝惚けた頭をその空間に結び付けた。加えて、体に伝わる独特の振動はそこが病室であるのと同時に車内であること、つまり、医療設備搭載の軍用装甲車、メディカルバギーの中に眠っていたという事実を覚醒の世界に引き込まれる意識が段階的に知覚していった。
視線を下げれば、先の思考を裏付けるように手術台に固定する為の革ベルトに拘束された体と走行中の転落防止シートでミイラのようになっている体が見えた。これでは体勢を起こすことは愚か、せいぜいが指やら首やらの固定されていない部位を僅かに動かすのがやっとだ。それでも、一応は周囲の様子を知るため、顎をきつく引いて車内の様子を伺う。
壁際にロックのかけられた器具収納棚、ラックケース程の大きさの手提げ箱(中身はおそらく薬品を始めとした医療品だろう)が棚の対面の壁に掛けられており、それ以外のスペースには所狭しと何に使うのか皆目見当もつかない計器類と配線コード、色鮮やかなチューブが混沌としている。医療行為を目的としているはずの車内は雑然としていた。ある種冒涜的なその光景には担当者の性格がありありと現れているように思える。そして、その担当者はどうやら壁際のよくわからない機械の上に腰掛け、タブレット端末の中を流れているであろうデータの海に没頭しているようだった。
「⋯⋯仮にもコイツは地獄行きだってのに呑気だな。そんなに暇なら足の踏み場もないここをどうにかしたらどうなんだ?」
「おや、目が覚めたのかい? もう目覚めないかなと思っていたところだったんだ。死亡診断書だって用意したんだが⋯⋯どうやら減らず口は閉じていないとなると必要はないようだね」
パタンとタブレット端末にカバーを被せ、ケラケラと笑う掴みどころのない表情と、長い癖毛が特長的な女性。名を、神谷 深冬と言う彼女は眼鏡に白衣姿で、まさに博士、といった出で立ちで傍らの紙切れを無感動に一瞥すると視線を上げて彼を見た。
「おはよう。被検体、第4289007号。個人名称『空代 司』くん。三日ぶりの起床、そして鬼面兵手術からの生還おめでとう。心から君の帰還を讃えよう」
彼女の放つ独特の雰囲気と存在感は一見して胡散臭いの一言に尽きるが、その実、彼女は正真正銘、本物の博士であり医者でもある。十五歳で学区の高等教育を終え、二十歳の頃には都市内の三本の指に入る頭脳と持て囃された生物医学の鬼才だ。
そんな彼女によるこれっぽっちも讃える意思の感じられない無気力な声に思わず渋い顔になる。彼女はその様子に満足気に足を組み直してその笑みを深める。その様はどこか妖しげな雰囲気を放ちながら、見透かすような視線を司へと向けていた。
「そりゃどうも。それで、手術は」
司の問いかけに深冬は肩を落とす。そしてやれやれといった半ば呆れとも落胆とも取れぬ様子で薄目を司に向けながらも、その口元の笑みだけは消えない。
「あぁ、残念なことに君の四肢がバラバラになったりだとか、うっかり半身不随になったりだとかそんな愉快なことはこれっぽっちもなかったよ。悪運だけは強い君のことだ、そんな気はしていたけれど、まぁつまらないね」
「素直に喜べよ。一応、それなりに付き合いは長いだろ」
「生憎、ワタシは個人の命に特に興味はないのさ。年老いた老人も幼い赤子も死んでしまえば皆等しく焼かれて灰になるのだから、そこに価値なんてないだろう?」
司の半眼を受け流し、虚無主義者の笑みのまま、深冬は走行中の車内を横切って司が拘束されている台に改めて腰掛ける。
「君の中枢神経の二、三本でも雑に切ってやれば、君は戦場なんて場所に立つ前にさっさと廃棄処分にされて面倒はないのだけれど、それじゃあワタシにはあまり旨みがないからね。呆気なく頭蓋を吹き飛ばされた君の死体を研究対象として切り刻む程度の楽しみがあると思ったから何事も起こさずにしておいたよ」
「なぁ、あんた博士とか医者とかじゃなくてただの変態だろ」
「なぁに、天才の言葉を凡人が理解するなんてはなから期待していないさ」
キヒヒっと口元を歪めて笑う様は、はっきり言って気持ち悪い。顔立ちだけ見れば切れ長の目に細い輪郭もあわさって相当な美形のはずなのだが、それらをひっくり返すほどに表情が気持ち悪い。ついでに言動も変態臭い。
この人物とはかれこれ四年もの付き合いになるはずなのだが、振り回されてばかりいる。とはいえ、分かり合えない人種なのだと諦めること自体は最初の数ヶ月で既に済んでいる。
「⋯⋯はぁ。まぁいいや。
戦局はどうなってる?相手が相手だ。三日も経ってるなら決着もついてそうなもんだけど」
「ハハハ。⋯⋯残念ながら連絡路内部の研究施設は中に籠っていた研究員と共に破壊された。現在は第3連絡路近辺の廃棄区画の廃墟群に防衛線を再展開して通常の二倍の兵力で止める算段らしい。敵は損傷を回復させながら着実に本拠点に進行中で要塞への到達は二十四時間以内だそうだ。足が遅くて助かったとも言えなくはないが、その分ヤツは物量で潰しにかかってる。総評としては時間は比較的にあるけど物量に対して捻った策を練ってる暇がないからこっちも物量で押し返そうってことらしい。最っ高に頭の悪い作戦さ」
深冬は先程の笑みを引っ込め今度は心から呆れた表情で運転席側、つまりは進行方向を遠い目で見る。その呆れは彼女が常日頃から無能と罵る上層部へ充てられたものか、それともその頭の悪い作戦に従う傀儡が如き兵士たちへのものだったか。
「実際、策を捻ろうが結局は数を抑えるなら数しかないだろ。アレを効率的に殺せる方法なんて十年前に稼働してた兵器ぐらいしかないんだし」
「ふふ、確かに。けれど、効率なんて求めた途端に壊滅するのがヤツらとの戦いだ。実際に効率的な兵器と云われていた鉄クズたちは今やそこらでゴミの山になっている。どこの国の言葉だったかな、栄枯盛衰って言葉が旧時代にはあったらしい」
車窓にかかったプラスチックブラインドの外に目をやれば瓦礫の山。十年前に廃棄された居住区各跡地に堆く積み上がったそれらの多くはかつてそこにあった居住施設の亡骸だ。その中には深冬に鉄クズと揶揄される、かつて人類の守護者であった陸上兵器の群れが無惨な残骸となって眠っている。瓦礫の中から覗く折れ曲がった砲身はさながら墓標のように見えた。
司は視線を戻し、乾いた皮肉げな笑みで深冬に話しかける。
「それで、その鉄クズの代用品は上手くいったのか?」
「まぁ維持コストやらの面から見れば穀潰しもいいところだとワタシは思うね。ただ、生産にかかるコストは大したことないし、なんならメンテナンスなんてせずにどんどん使い潰しても上層部に傷がつかないって点を考慮して戦争の駒としてなら幾分か使い勝手はいいんじゃないかな。道徳とか面倒なことを言っている人間は十年も昔に死に絶えたからね、今さら誰も気にとめないさ」
「違いない」
ケラケラと笑ってみせる深冬に司はそう言って肩をすくめた。そしてその直後、ブレーキのかかり、慣性によって車両前方に僅かに引き寄せられる感覚が両者の体へと伝わる。車両が急減速を開始し、ややあって停止する。
「ッ⋯⋯、なにがあった?」
突然の急停車に体を揺らされた深冬が運転席に声を投げる。運転手は座席から体を大きく捻り、振り返った体勢でこちらを向き、その青い顔でほとんど叫ぶように言った。
「斥候が殲滅対象の変異を確認したとの事ですッ! ラルディム『ペール・アヴァリーティア』の予想進行速度が急変したと!!」
「どういうことだい?計算上、成熟体への昇格にはまだ期間があったはずだろう」
冷静な深冬の声音に対し、運転手はその震える唇から絞り出すように、
「イレギュラー、だそうです」
「⋯⋯ッ。そうか。わかった」
至って事務的に短く返答した深冬は司の顔を覗き込む。長い前髪の奥から翡翠の色をした瞳が司の黒瞳を見据えていた。
「さぁ、些か早いが出番だ。この都市の運営を任された老害共が君たちに与えた作戦は『敵が死ぬまで殺し続けろ』それだけだ。他になにか質問は?」
「いいや。強いて言うならこの体はまともに動くのかってことぐらいだ」
司を束縛していた拘束帯を懐から取り出した折りたたみナイフで切り裂きながら深冬は口端を歪める。三日月のような不気味な弧を描いた笑顔がそこにはあった。
そして、司の言葉に彼女は自身が天才であることを誇るように胸を張って言い放った。
「勿論さ。何せ君は2500番台の第三世代なのだから」
自由になった体を起こして三日ぶりの体の感触を確かめるように手を開閉し、肩を大きく回す。血管を内側から押し広げるような圧力が全身を駆け巡り、意識から無駄な思考が取り去られていくのがはっきりとわかった。
「力の使い方は感覚で掴みたまえ。心拍数が上がりさえすれば嫌でも分かるさ。訓練通りにやればいい」
深冬はそう言ってバックパックを投げ渡してくる。中身は医療品に少量の食料、飲料水、輸血パックに装備品。それぞれくどいほどに中央管理局の軍部の印が印刷されていた。
そして、その中には玉虫色の光沢を放つ仮面、世間に鬼の兵士と恐れられる所以たる鬼面が虚ろな眼窩で司を睨んでいた。
「ソレは君の第ニの心臓だ。戦場でそれを失えば君は死ぬ。わかっているね?」
鬼面兵。悪鬼を殺す為に人類が生みだした『鬼』。
「⋯⋯あぁ、わかってる」
司は仮面を手に取り、鬼をその身に纏うように顔を覆った。
仮面の裏面に印字された幾何学的な模様、に見える伝達回路に皮下に埋め込まれた拡張細胞がニューロンからの信号を接続されたことを確認。体表付近の動脈各所に埋め込まれた増幅血管の弁を手動で解放すれば、バクン⋯⋯ッ、と全身が膨らむような感覚と同時に、元のものから完全に置換された強化人口血管へと血液が流れ込む。
同時に感覚が拡張されていく。体は羽のように軽く、視野が広がる感覚。空気が頬を撫でる感触さえも知覚できた。
「いけるね?」
視界の端で微笑む深冬への答えの代わりに、車両後方に備えられた武装ロッカーから透き通った刀身を一振引き抜き、腰のホルスターへ装着。パチンッ、とホルスターがロックされたことを確認し、制服の長い裾を払う。
戦場に赴く準備はそれだけだった。
「──追加の命令だけれど」
死地へと爪先を向けるその背に声がかけられる。
背中越しに目を向ければ、腕を組み長いボサボサの髪をゆらゆらと揺らす深冬の姿があった。眼鏡の奥の半分閉じられた眠たげな瞳の中に浮かぶぎらついた鋭利な光が司を射抜く。
その光はとても見覚えがあるものだった。神谷 深冬という人間の執念そのものが放つ異質で危うい色彩。以前それを見たのはいつの事だったか。
しかし、その思考が結実する前に深冬は言葉を続けた。
「犬死はするな。いいね?」
飄々とした雰囲気はそこには無い。柄にもなく真面目な声音でそう告げる彼女は普段の変態的なナルシズムに溢れたそれではなかった。
故に、上官にあたるその女性に司は敬意を持って応じる。
「了解だ、博士」