騎士、虫を討伐する 下
目的地まで誰も何も話さなかった。「お姉さんたち」とやらがよほどショックだったんだろう。確かにお姉さんだ、間違ってない。ちょっとばかし期待値からオーバーしていただけで。
オレといえば、エトワールに会えなかったというのに、それほど残念な気持ちはなかった。むしろ、掛ける言葉も見つからないままここに来ていて、そういう意味では会わなくて良かったのかもしれない。
見渡しの良い畑と、遠くに見える山とを朝日が照らし暖めていく。雲がふっと影を落としては通り過ぎていく。上空は風が強いらしい。その恩恵か、山から吹き降ろした風がざあっと小麦を揺らして渡っていく中に、かすかに腐臭を嗅ぎつけた。
オレの合図にマックスが眉庇を上げて鼻をひくつかせた。しかし首を横に振る。鉄の臭いで分からないんだろう。オレは案内を買って出ることにし、町人たちに松明を準備させた。火を熾した鉢を車に積んでいたので、我先にと棒の先を火にかざしていく。こうして厚い対策を取れたのもきちんと整備された畑道のおかげである。
「皆さん、詠唱を」
「はい」
「はい」
婆様たちのリーダーの言葉に、黒術士らが詠唱を始める。風を止ませて相手の優位を消すのだ。おそらく肉食蝿の群がっている物までは三十、遠くて四十フィートだ、ここを起点にすれば黒術がギリギリ届く範囲での戦闘になる。耳を凝らせばかすかに羽音も聞こえる。よし、ここにしよう。
黒術士を最終の防衛線と考えて、聖堂騎士が肉食蝿の群体に突撃、追って町人の有志が松明を持って援護に回るのだ。今回の規模なら、まず問題なく片がつく。
オレは聖堂騎士たちに合図をした。マックスの隊にはそれで通じる。黒術士のリーダーも目線だけで了承を寄越してきた。さすが、年の功だな。
「いいか、第二分隊。黒術の【範囲停止】が掛けられたらすぐに突っ込め。あいつらの動きが鈍いうちに叩く。風も止めてくれるから回り込まれてやられることは、まずない。だが、必ず組で動け。無理はするな。以上だ」
「あの、あいつらどのくらいの数が……」
「知るか。死ぬまで叩くだけだ」
「……了解」
「了解」
悲壮感を醸し出す第二分隊長の肩を叩いて励ます。まだ若い彼は泣きそうな顔だったが笑い返してきた。うん、その意気だ。
「……全てをとどめたまえ【範囲停止】!」
「風を落とせ【大気停止】……!」
「……外敵を防ぎたまえ! 【拡大障壁】!」
婆さんたちの術が展開し、それを皮切りにオレたちはいっせいに肉食蝿へ踊りかかった。
「燃え落ちよ【火矢】!」
第二分隊の誰かが白術で攻撃したようだ。まだ誰も接敵していないうちに一撃与えることが出来た。だが、畑でやるもんじゃない。あいつは後で説教だ。幸いにも【火矢】は腐った牛に当たって火が消えていたために処理は必要なくなった。
地面に落ちている林檎大の蝿たちを次々と串刺しに、ある者は踏み潰し、ある者は叩き切り、ある者は斧で割った。清々しいまでに一方的な虐殺が終わると、術の効果が切れ始めたのか蝿たちも集まって反撃を始めた。叩きつける土砂降りの雨のような羽音が耳を聾する。
上がる怒号、そして悲鳴。オレの体にも蝿が取り付き、網を食む。ちょっとやそっとじゃ食い千切られはしないだろうが、嫌悪感にべったりとした汗が滲み出す。オレは見えるところにいるヤツをグローヴで叩き潰し、町人に向かって飛ぶ蝿を長剣を振るって殺していった。怯えて松明をぶん投げてしまう男がいたので、慌てて拾って燃え移りそうだった火を踏み消す。
「危ないぞ? ほら、松明持ってれば寄ってこないから。おじさん、ゆっくり下がってお姉さんたちの【障壁】ん中に入れてもらいな」
「な、な、な……?」
「もうすぐ終わる。安心して見てなって」
男はガクガクと頷いて走っていった。ゆっくりって言ったんだがな。あんまり急に動くと蝿が反応する。蝿の数が減ってきたので周りはどうかと見回せば、ちょうどマックスが逃げようとする肉食蝿を追撃しているところだった。
「【発火】ぁ!」
右手を突き出し、空中の黒いボールに向けて一瞬だけ火柱が噴き出す。焦げたそれはポトリと落下し動かなくなった。そう、火の術を使うならばああすべきだ。
黒術士たちの頼もしいサポートもあり、若干名の怪我人は出たが討伐は成功した。怪我といっても町人が皮膚を少し齧られたり、若いのが目玉を引っ掻かれただけで大事無い。今回の騒ぎの原因だった牛の屍骸も綺麗に焼いた。付近もしらみつぶしに探したが、卵を抱いた死体はなかった。
カルドの町へ引き返す途中、オレは婆様、いや、「お姉さん」たちにエトワールのことを尋ねてみた。
「ちょっとお尋ねしたいんだが、ファラダ商会のお嬢さんは黒術士だろう? なんで今日はいないんだ?」
「…………」
薄青い瞳をした薔薇色の頬の老婦人が、両眉を持ち上げて上品に手の先で、そっとある方向を示した。そこには十に満たない幼女が手持ち無沙汰に口を曲げて、足元の石を蹴っている。老婦人に目を戻す。
「ファラダといえばそのお嬢ちゃんですよ。一人娘ですもの、他にゃいませんよ」
「…………」
そんな馬鹿な。留守かと思いきやまさかの別人か。ジェレミア、お前は彼女の何を聞いてきたんだよ。
「あー、お嬢ちゃん、ファラダ商会の娘さん? 十六、七くらいの黒髪のお姉さんとか知り合いにいない?」
「……。フンッ」
そっぽを向かれてしまった。手強いな。
「まぁ、なんですのその態度は。きちんと挨拶しなさいな、キャデリン」
「……だってぇ。こんな軽しょうな男のしとと口なんかきいたら、妊娠しちゃうもの」
舌っ足らずな口で随分なことを言うな、このおチビさんは。
「まぁ、失礼ですよ。お謝りなさい!」
「だってぇ~。……うぁ~~ん!」
おチビさんは泣き出して行ってしまった。大口を開けて泣き出したときにその前歯が一本ないのが見えて、舌っ足らずの原因と、口を開かないようにもごもご喋っていた理由が分かった。女の子って年齢に関係なくそういうの気にするもんなんだな。
「ごめんなさいね」
「いやいや。それじゃあ失礼します」
「待って。お探しのお嬢さんは黒術士なのよね。その方のお名前は?」
「エトワール、と……」
「ふぅむ。彼女はどんなお嬢さんなの? どのくらいの腕前?」
「釣り目がちで、清楚な格好の、いかにもお嬢様といった旅装でした。十六、七で長い黒髪の……ああ、黒術はおそらく第七位階まで極めていると思います」
老婦人は驚きに目を見開いた。
「まぁ。第七位階といったら、数えるほどしかいませんよ。確かなの?」
「え……。まあ、【奪魔】を扱える腕前ならおそらく第七位階かと」
「……【奪魔】を使わなくては勝てない相手と戦ったのね。どこで?」
「あ~、“風の墓所”ですが。なんです、もしかして大変なことでしょうか?」
「大変なことですよ! すぐに堂主さまに報告しなくては……」
ええ? このくらい金杯聖堂騎士団じゃ普通だったんだが……。
もしかして、“炎の尾持つ殺戮者”についての一件、エトワールのことを誤魔化すためにきちんとした報告を上げなかったこと、マズかったかもしれん。
「あの……」
「ああ、お嬢さんについてね。その方はアウストラルのノレッジ様のお孫さんで間違いありませんわ。普通だったらお教えしませんのよ? けれど……、あなたは別」
「どうして」
「だって、恋する人間を留めることなんて出来やしないのだから。あの不幸なお嬢さんを救えるのなら、どうか救ってさしあげてちょうだいな」
「……」
「それでは私はこれで失礼しますわ」
背の高い老婦人は年齢を感じさせない軽やかさで黒い衣のすそを靡かせて去っていってしまった。
「エトワール・ノレッジ……」
舌の上で甘美なるその名を転がすようにして味わう。どこかで彼女の笑う声が聞こえた気がした。