別離の前に
エトワール視点です。
初めて幻視を得たときの、あの衝撃を言葉にするのはとても難しい。「まさか」という思いが強く、同じものを続けて見るまでは信じられなかった。どうしてかというと、子どもを持たないという選択をしたあの日から、わたしは自分にもたらされた予言を回避したつもりになっていたから。
なぜ、今頃になって……?
そう思ってしまった。わたしとトムさんの幸せな日々に、影が差した気がした。それでも、まだ、すぐには動き出せなかった。
幻視の内容についてよくよく考察するようになって、まず最初に疑問を持ったのは得た幻視と予言との相違についてだった。予言は曖昧で、それでもその「結果」だけは、動かすことができないのだとロクサーヌの授業では教わった。逆に幻視は、「今のままでいけばこうなる」という鮮やかな予測であって、結果は変えることができるのだと。
わたしが聞いていた予言は「子どもを産めば死ぬ」というもの、つまり、出産後に死ぬということなのだとわたしは解釈していた。けれど、幻視の伝えてくる内容は「子どもを身ごもり、出産できずに死ぬ」という場面だった。おそらくはニュアンスの違いじゃないかしらと思う。状況は似ていても、決定的に違う点、それは生まれてくる子どもが最初から「母親殺し」の罪を背負うということだった。
予言が絶対なら、こうして頻繁に見るようになった幻視は、わたしに残された時間が残りわずかだという警告なのではないか。わたしはそう思った。この警告を無視し、これまで通りの生活を送る、それもひとつの道だった。けれど、わたしがそれを選ばなかったのは、あの幻視ではお腹の子の父親が誰かということまでは特定できないせいだった。
わたしもトムさんも、一般人よりは戦うことに慣れているし、多人数を相手取ってもそうそう負けはしないと思う。でも、不意を討たれたり人質を取られたりしたらどうかしら。望まぬままに体を弄ばれ妊娠してしまったり、もしくは再び実家の手が伸びてきて捕らえられたりなど、そんな可能性がないなんて誰に言い切れるのだろう。トムさんが仕事で不在の間に、言葉巧みに虚言でおびき出されないとも限らない。性的暴行の加害者のほとんどは被害者の顔見知りだと言われてもいるのだから。
それだけは、彼以外の男を受け入れることだけは絶対に嫌だ。
ならば、やるべきことは決まっている。わたしはまず最初に、サーラへ相談することにした。
サーラ、わたしが辛いときほど寄り添ってくれた大切なお友達で、わたしの姉代わりでもある。もちろん予言のことも知っていた、だってわたしが教えたんですもの。彼女はわたしとトムさんの結婚には納得していなかったのだけれど、最終的にわたしの意志を尊重してくれた。サーラに関して言えば、説得しようと頭ごなしにベラベラとしゃべるのは間違っているように思う。必要なのはただ、動かせない事実とわたしの強い意志だけ。サーラは最初は何でも反対しようとするけれど、ちゃんと話せばわかってくれるの。そこはトムさんも似た気質を持っているのに、なぜかサーラとだけは上手く行かない。それってちょっと、面白いわ。案の定、反対されてしまったのだけれど、やっぱり最後には、わたしが自分の意志を通した。
すべての援助が行き届くよう手配してから、トムさんにお願いをすることにしたのだけれど、それも言おう言おうという思いはあっても、実際に口にするのは勇気がいることだった。幻視と見えない男の影に苛まれながら、結局、子どもがほしいとお願いできたのは体の不調に気づかれてしまった後のことだった。
わたしたち黒術士の女性は、子どもが出来にくいと言われている。それはどうしたって変えることのできない問題、身に宿した陰の気が強ければ強いほど、そうなりやすい。でも、わたしたちの間にはすぐに新しい生命がやってきた。嬉しかった。とても嬉しかった。これで幻視を得たときに心に積もった不安がひとつ晴れたのだから。トムさんとわたしの赤ちゃん……わたしの最期のときに、お腹にいるのはトムさんの子なのだということが大きな救いになった。
ただ、それでもお腹が大きくなっていくほどに、もうすぐ自分が死ぬのだと実感して辛かった。涙だけは見せまいと、隠れて泣いたり。それに、トムさんはわたしの妊娠を喜んではいなかった。すべてを打ち明けないわたしが悪いの。わたしの不安を打ち消すために、半ば強引に事を進めてしまった負い目がわたしにはあった。迷惑だったのかもしれないと、何度も思った。その、わたしに向けられる愛情が、そのままあのひとの明るい未来への希望なのだと信じて日々を過ごしていた。
そんな中、トムさんから提案されたのは、驚くべき方法だった。まさか、産まれる前の赤ちゃんを母体から直接取り上げるだなんて……。もちろん、理論上は可能なのだった。でもそれには【透視】を使える魔導師が、麻痺や止血の技も持ち合わせた療術士で、しかも“夜の女王の領域”で無菌状態を保てることが前提条件で……。ああ、でも、話を聞いているうちに理解できてしまった。わたしと、療術士としての心得のあるドゥケスさんならば、ギリギリ可能なんだと。
懸念はひとつだけ。
たったひとつだけ……。
わたしが死んでしまって、トムさんは生まれた子どもを愛してくれるのかしらということだけ。トムさんはとても優しいひとだから、優しすぎて自分の意見を隠してしまうときがあるし、間違えてしまうときもある。だからきっと、わたしたちの子を守ってくれると信じているのだけれど、心配なこともある。きっと今は無理やり心を捻じ曲げて、子どものことを考えないようにしている、わたしにはそんな風に思えてならないの。そのことが後々になってあのひとを苦しめる結果にならなければいいと、そう願うことしかできないけれど。わたしはそっと、言葉をしまいこんだ。
母体を切開して子どもを取り出すことに決めた日から、幻視は嘘のように消えた。わたしは自分の死を見せつけられる、あの苦行から解放されたのだった。きっと上手く行く、そう信じた。お腹の子も、祝福されてこの世に生まれてくる、そんな希望に胸を膨らませた。
ただ、それを告げたときのサーラの表情は芳しくなかった。トムさんはサーラを説得しようと、わたしを外へやろうとした。でも、逆にわたしがトムさんとドニと子どもたちを外へと追い出したの。ドニと二人、用水路の上の土手にちんまり座っていたあの姿は、いつ思い出しても笑ってしまう。
「……私は、嫌ですよ」
「他に、方法はないの。もしかしたら、予言は別のときのことで、今回は助かるかもしれないじゃない」
「嘘ですよ!! そんなの、お嬢様が一番よく分かってらっしゃるんでしょう? だって、だって、お嬢様は助かる気なんて、これっぽっちもないじゃありませんか!」
「サーラ……」
サーラはいつも最初は反対するけれど、ちゃんと話を聞いてくれるの。そして、わたしの嘘を見破るのがとても上手なの。そう、わたしはここまで来て、希望を持ってはいたけれど、それは自分の命が助かる可能性についてではなかった。あくまでわたしの子が「母親殺し」にならないこと、もしかしたら少しでも赤ちゃんを目に焼き付けられるのではないかということ、それだけ。この腕に赤ちゃんを抱いて、トムさんに託せたら、もうそれだけで本望だったのだから。
トムさんはわたしに、生きることを諦めないでほしいと言った。わたしは「はい」と応えた。
ああ、でも、ないものねだりをして傷つくのが、怖かったの。
サーラはいつでも、わたしが辛いときほど寄り添っていてくれる。そして泣いてくれるの。わたしのために。泣かないわたしの代わりにサーラが涙を流してくれるから、わたしはそれだけで、満たされる。サーラとわたしは抱き合って、わたしもなぜかひと筋、涙がこぼれた。
死にたくなんかない。
生きていたい。
心臓が張り裂けそうなくらいに痛かった。
「男の子だったらお嬢様が、女の子だったらあのひとが名前を決めるんですか?」
「ええ、そうよ。トムさん、どんな名前を考えてくれるかしら?」
「どうせならお嬢様が女の子の名前を考える担当にしておけばよかったのに……。悲惨な名前になっても知りませんよ? それで、男の子の名前候補は? どんな感じです?」
「サーラと考えようと思って……」
「はぁ~っ、もう! そうですねぇ、じゃあ、あのひとの父親の名前はどうです?」
サーラは泣き腫らした目許に冷たい濡れ手拭いを当てながら言った。
「ええと、確か、ガングレイヴ!」
「…………そりゃあまた、厳ついお名前ですこと」
「じゃあ、わたしの父から取って、リシャールはどう?」
「…………よろしいんじゃあ、ありませんか?」
「もう、すごく嫌そうな顔で言わないで! やっぱりやめるわ!」
「さようでございますか」
「さようでございますわ!」
わたしたちは顔を突き合わせて笑った。こんなに楽しかったのはいつぶりかと思うほどだった。ずっとこんな日が続けばいいと思って、わたしも精一杯頑張ったのだけれど。切開した傷がすっかり癒えてもまだ、わたしという存在に穴が開いて、そこから何かが流れ出していくような感じは消えなかった。
予言はまもなく、成就される。
「セドリックさん、それからドゥケスの大奥様、本当にありがとうございました。もう、結構です」
「しかし、しかし……待ってください、やはり体のどこかに傷が残って……!」
「いいえ。違うんです、もう、時間だというだけ。あなたは適切な処置をしてくださいました、あとはわたしの問題です。どうか、旦那様を、トムさんを呼んできてくださいませんか? どうか、最期は二人きりで過ごさせてください」
「しかし……」
「いいからお行き、セド!」
渋るドゥケスさんを、大奥様がピシャリとぶって追い払った。そしてわたしのほうへ向き直ると、背筋を正してわたしへの詫びを口にされた。
「……力が及ばずに、すまなかったね」
「そんなことはありません。最高の結果に導いてくださって、感謝しています」
「……なんともはや、わたしのような老人から取り上げていけばいいだろうに。予言が間違いだったことを祈るよ」
「ありがとうございます」
わたしは虚脱感からくる眩暈に頭を振りながら、それでも礼を言うのは忘れなかった。ああ、駆けてくる音がする。わたしの騎士様。物語のようにわたしを拐い、愛を与えてくれた。彼に身も心も彼に捧げて、本当に幸せだった。わたしのせいで辛い思いばかりをさせてしまうというのに、離れることができなかった。わたしこそが彼のすべてを奪い去る悪者だったのかもしれない。そうだとしても、きっとわたしは同じことを繰り返してしまうでしょう……。
ああ、顔を上げて。
今だけは彼のお姫様でありたい。
別離を前にするならば、わたしの美しい姿を見せておきたい。
魂をふるわせて。どうか。わたしの名をそこに刻んで。
わたしはあなたを忘れない。
だからどうか、わたしのことも忘れないで。わたしの愛しい、旦那様……。




