愛し子
エトワールの腹を開く時間より、その前の見極めの時間の方が長かったように思う。ドゥケスはもどかしいほど慎重に胎の中の赤ん坊の位置を探っていた。そして、苦悶の声を上げる彼女が、押し寄せる陣痛の波をやり過ごしてひと息ついた隙をついて、一気に刃を入れていった。
それから、産声が上がるまでの間は、ぴりぴりとした空気に包まれた緊張の瞬間の連続だった。取り上げられた赤ん坊はすぐさまサーラが柔らかい平織りの綿布で受け止めた。
「お嬢様、女の子ですよ!!」
感極まったようなサーラの声に、エトワールは血の気の引いた顔を上げ、微笑んだ。サーラはオレを押してエトワールの顔の側に跪かせると、赤ん坊を彼女の胸の上に置いた。泣くのをやめた小さな娘は、パッチリと目を見開いた。その色はまるで血のような赤であり、オレは“炎の尾持つ殺戮者”の貪婪な瞳を思い出していた。
(なんて不吉な…………)
思わず息を飲んでいたのはオレばかりではない。だが、重く沈む空気を払うようにエトワールの嬉しそうな声がした。
「まあ、なんて綺麗な瞳をしているんでしょう! まるで紅玉みたい」
「ああ……ああ、そうだな」
曖昧に頷き、オレは赤ん坊を抱き上げた。
「ルベル……ルベリア。この娘の名前は、ルベリアだ」
「ルベリア……素敵な名前です。よろしくね、おちびちゃん」
エトワールの言葉に、ルベリアは確かに笑ったように思う。それからしばらく、ドゥケスが開いた腹を術で治癒している間に赤ん坊を産湯に浸からせた。サーラの助けと指導をこれほど心強いと思ったことはない。おくるみに巻かれたルベリアを抱き、冷えないように白術で暖気を送ってやると、気持ち良さそうに目を閉じて寝てしまった。
「トマス=ハリスさん……」
「……ドゥケス?」
「すみません……」
戸口に現れたドゥケスは青白い顔をしていた。オレはサーラに赤ん坊を押しつけ、彼の肩を揺さぶった。
「エトワールは? 何かあったのか!?」
「いえ……。傷口の治癒は完全です。これ以上ないくらいです。けど……」
「けど、何だ!?」
「体温が、戻らないんです。どんどん冷えていって……。エトワールさんが、貴方を呼んでいます。とにかく、側についていてあげてください……」
オレは最後まで聞くことなくエトワールのいる部屋へと飛び込んでいった。台の上から降りていた彼女は、揺り椅子に体を預けて頼りなさそうな様子だった。いつもと違う、前開きの服の胸元を掻き合わせて、血の気の失せた頬を笑顔に変える。
「エト……!!」
「トムさん……。良かった。わたし、この日、この時を迎えることができたことに、感謝しています。わたしをここまで生き延びさせてくれて、本当にありがとうございます……」
「エト……エト、何を言ってるんだ。気をしっかり持って、きみはまだ、死ぬには早すぎる……」
避けがたい、濃厚な死の気配。戦いの中で何度も嗅いできたそれを、彼女の輝ける美貌からも感じ取った。オレはエトワールの足元に跪き、差し伸べられた白い手を包み込んだ。
「どうして……」
彼女を温めようとして、どれだけ陽の気を送り込んでも、傷を癒そうとしても、何の手応えも感じられない。オレは焦り、同じことを繰り返した。
「トムさん、聞いてください」
「嫌だ! 待ってくれ、まだ何か、何か方法があるはずなんだ。ドゥケスを呼んでくる。そうすれば……」
「トムさん!! ……宿命には抗えないんです。あなたも、知っているはず」
「嫌だ、信じない。信じてたまるものか……!」
「だめよ、そうやってまた、すべてを失うつもりなの? 目を背けてはだめ、わたしを見て、トム……トマス=ハリス」
「ああ……!」
慈愛に満ちたエトワールの微笑みに、オレの両の目からは涙があふれた。これで別れなのだと直感する。彼女の手のひらに口づけし、そっと頬を擦り寄せる。ほとんど温かみの失せた、柔らかい細工物のような指、その一本一本にもキスを落とした。
「愛しています、わたしの大切な、旦那様……!
聞いてください、わたしがこの数年間、夜毎に見ていた幻視のことを。わたしがどんなに感謝しているか。あなたは確かにわたしの運命を変えてくれたんです、トムさん」
「……どういうことだい?」
「本当なら、わたしはもう死んでいたはずなんです。幻視が見え始めたのは、体の不調が表れてから……三年前くらいでしょうか。その夢の中でひとり産気付いたわたしは、途中で力尽きて死んでしまうんです。そして、死んだわたしの体から、あなたが……あの娘を取り上げる。そんな夢でした」
エトワールの穏やかな語り口にひやりとする。確かに、ドゥケスの力を借りていなければ、そんな事態もありえたろう。エトワールがサーラの協力を仰いでいなければ、本当にひとりきりで痛みと苦しみの中で死んでいたかもしれない。オレが医者を呼びに行き、帰ってみたら動かない彼女が倒れているだなんて、想像することすら厭わしい!
「ですから、ルベリアをひと目でも見られたことが、あなたとこうして話をする時間が残されていることが、とてもとても、嬉しいんです」
「エトワール……」
「あの娘のこと、守ってあげて、くださいね……」
「エトワール! ああ、頼むからもう少しだけオレの側にいてくれ……」
彼女の声が、だんだんと苦しげになっていく。そして、オレに触れていた手からも力が抜け、捉えていた指の隙間からすり抜けそうになった。オレはもう一度その手を強く握り、エトワールに呼びかけた。強く願った。あの日、彼女の命を呼び戻したときのような奇蹟の訪れを、もう一度だけで良いからと請うて縋った。
「……わたしの亡骸は“風の墓所”にじゃなく、あなたの手で、ここで土に還してください。わたしの、最期の、わがままなの。ずっと、あなたのそばに……愛しい、ひと」
「ダメだ、行かないでくれ。代わりにオレの命を捧げるから。オレよりもきみが生きていた方が……いや、違う! きみだけは失いたくないんだ!」
「さようなら。あなたのことを、決して忘れたりしません……。わたしたちは旅人、魂を運ぶ舟。きっと何度この地に生を受けても、あなたを……見つけるわ……」
ふんにゃりと微笑んだエトワールの眦からひと雫の涙が伝う。閉じられてしまった瞼。生命の尽きる瞬間は、静寂とあたたかさに満ちていた。オレは包み込んだエトワールの手を額に押し当てた。どのくらいの間そうしていたのか、オレは、エトワールの体をそっと抱き上げた。
もう一方の戸口から外に出る。
晴れやかな青空、太陽の日差し。心地良い風が裏庭の野草を愛でていた。
(エト……。これがきみの望みなら、オレは……)
「……原初の白き龍よ、世々の命を造り賜いしものよ。この躯を土に還し…………その魂を、“永遠の円環”に、迎え入れたまえ。ここにひとつの旅が終わり、また新たなる旅が始まるだろう、汝、旅人よ……しばしの休息が……与えられんことを……。その痛みも苦しみも、すべてを忘れ、今はただ、眠りたまえ……!」
腕に抱いていたエトワールの体が、一瞬にして崩れる。白い砂のようになって、さらさらと、さらさらとこぼれていく。やがて大地と一体となり、彼女はこの世界とひとつになる。こうして命を全うすることは、聖典の教えでは「善いこと」だとされている。祝福すべきことだと。だが、オレにはまだ、そう単純に受け入れることはできなかった。エトワールの望みとはいえ、こんな形で、オレの陽の力で彼女を葬らなければならないだなんて……。
「こんなことのために、戻った力じゃ、ないだろうに…………くそっ! くそおっ!!」
オレは堪えきれず、空を仰いで吼えた。
ああ、なんと虚しいのだろうか。
オレの叫びを聞きつけてか、背後に幾つかの気配が現れた。もう、振り向いて確認することすら億劫だった。
「お嬢様……? どこです、お嬢様?」
サーラがエトワールを呼ぶ声がする。何も知らないサーラは、不安げな様子でエトワールを探し、一度家へと戻っていった。
「トマス=ハリスさん、あなたは……、まさか……?」
覗きこんできたドゥケスに白い砂を見せれば、すぐに何があったかを察したらしいヤツは低く呻いた。
「トマス=ハリス!! お嬢様をどこへやったの!? どこ!? 答えなさい! ……まさか、あなた、私に黙って……?」
「奥さん、落ち着いて……」
「落ち着けるもんですか、この、ケダモノ! 私のお嬢様を返しなさい!! 返して…………。どうしてよ、まだ、なんのお別れも言えていないのに……お嬢様ぁ……!」
サーラの拳が何度もオレの胸を打った。ドゥケスに引き剥がされた彼女は、地面に崩れるようにしてへたり込み、やがて弱々しい嗚咽が漏れ聞こえてくるのだった。




