急変
特に何かあったわけではない。エトワールは安静にしていたし、オレもサーラも表向きはいがみ合うことなく平和だった。だが、昼を前にしていきなり破水してしまったのだ。おろおろするオレたち男衆をよそに、サーラはてきぱきと場を整え指示を飛ばす。オレはドゥケスを呼びに行くことになった。
「エト、すぐに戻る。だから、それまで……」
「びっくりしましたけれど、まだ平気です。わたしは大丈夫。それよりも、こんなに急なことで、来てもらえるでしょうか?」
「引き摺ってでも連れてくるさ。……じゃあ、行ってくる。愛してるよ、エト」
揺り椅子に深く体を沈めているエトワールにキスして、オレは家を飛び出した。村の馬を借り、ドゥケスのいる村まで走らせる。農耕馬でもないよりマシだ。ドゥケスも、予定通りなら休日のはず、上手くつかまえられることを祈るしかなかった。
ことは一刻を争うというのに道程は長く、気ばかり急いてしまう。ドゥケスの家に着いたときも、説明する時間も惜しく荒々しく踏み込んでしまったオレは、ドゥケスの年老いたご母堂に頬を張られてようやく自分の失態に気がついたほどだった。
怯える細君と、そのスカートにしがみつくようにしてこちらを見ている幼児の姿に、ハッとなる。
「すまない……」
「いいよ、大体の事情は聞いてる。おおかた急変したんだろ。支度が整うまでそこで頭を冷やしな! セド、馬車を借りといで。わたしも行くよ」
「あ、はい。今すぐ!」
ご母堂の命令を受けてドゥケスが弾かれたように飛び出していく。近くの聖堂からでも馬を借り受けるのかと考えたが、そういえば商家の出だったなと思い出した。ご母堂はと言えば、大きな声で独り言を呟きながら鞄に品物を詰めていた。それを戸口で手持ち無沙汰に眺めるオレに、ドゥケスの細君が濡れた手拭いを差し出して椅子を勧めてくれた。
ありがたく厚意にあずかり腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてきた。ここまで半刻と少しばかりか、馬で駆け通しであったことを考えると当然かもしれない。知らず重い溜め息が口をついて出る。ふと横を見ればドゥケスの息子、三歳くらいだろうか、男の子がオレの服の裾を握っていた。そっと、嫌がらないか様子を伺いつつ頭を撫でる。
「ぼうや、さっきは怖がらせてごめんな」
「……ばーちゃ、こわい」
「おだまり、ジュスト!!」
ジャスティン……ジュストと呼ばれた彼は祖母のピシャリとした声に身をすくめたのだった。
ひと息つけたのはそのときだけで、馬車の支度ができると慌ただしくオレの家に向かった。ドゥケスが手綱を執り、車内でご母堂の真向かいに乗り合わせたオレは、道すがらにエトワールの状態を聞かれ、思い出せるだけ伝えることになった。年の功なのか何なのか、オレの話にまったく動じない彼女が心強く、オレもようやく昂る気持ちを落ち着けることができた。
半刻ほどで辿り着くと、開け放った家の中は締め切られ、薄暗かった。小さな蝋燭の明かりのみが室内を照らす。
「エトワール……?」
不安に胸が締め付けられたのも一瞬のこと、かねてからの手筈通り、排水のできる部屋に移動したのだと分かった。声をかけながらそちらへ移動すると、ストーヴで湯を沸かしている緊張した面持ちのサーラとぶつかりそうになった。エトワールは毛布にくるまったまま椅子に腰かけており、こちらを見て微笑んだ。
「おかえりなさい、トムさん。そして、来てくださってありがとうございます、ドゥケスさん」
「エト、大丈夫か……?」
「はい」
微笑むエトワールの額は言葉に反して汗が吹き出していた。それをサーラが拭いながら、
「まったく大丈夫なんかじゃないです! 痛みはご自分で抑えてらっしゃいますけど、熱と、何より陣痛の頻度が……。苦しんでいる時間のほうが長くて、とても……」
「陣痛があるんですね? えらく……早いな。ちょっと様子を見せてください。あ、その前に手やこの部屋を清めないと」
サーラの言葉にドゥケスが動こうとする。そうだ、術で手や服を清めておかなくては。それに加えてこの部屋もか。オレもドゥケスを手伝おうとしたが、エトワールがそれをやんわりと止めた。
「安心してください……ここは今、“夜の女王の領域”ですから」
「そんな体で? その、繊細な術を展開し続けているんですか? 信じられない……」
ドゥケスが目を丸くした。誰が名付けたか“夜の女王の領域”とは、目に見えないが害のある働きをする小さなものを黒術で殺し、ほぼ完全な清浄さを保った空間のことを指す。もちろんそれは誰にでもできることではない。負担はそれなりにあるはずだ。
「エト、その術はどれくらい続ければいいものなんだ、辛くないか? ドゥケス、準備が整い次第、すぐに施術に移ってくれ。エトワールの準備は、すでにできているはずだ、間違いがなければだが」
「もう破水しているんですよね? まだ何とも言えませんが、本当に切るんですか? 今?」
「そうだ、早くしてくれ」
「………………」
そのとき、急にエトワールが鋭い呻き声を上げ苦しみ始めた。手をぎゅっと握り、懸命に歯噛みして声を殺している。額には汗が、背は反り、体は震えている。その尋常でない様子に、オレはエトワールを抱きしめることしかできなかった。
「ぅあぁっ……!!」
「マズい、急いでくれ、ドゥケス!」
「待って、待ってください! このまま通常分娩に移行できるかも……」
「それじゃ駄目なんだ!」
「しかし……」
「ドゥケス!!」
ドゥケスの目は迷いに充ちていた。ドゥケスのご母堂がオレを押し退けエトワールの足を開いた。なるだけそれを見ないようにしながら、彼女の指示通りに場を整えていく。
「セド、いけない、このままじゃ母も子も死ぬ。上手く開いてないんだ、これは……。薬は効くまで時間がかかるんだよ、子が力尽きるのが先か、母親が力尽きるのが先か。腹を割く予定だったんなら早くおやり」
「ドゥケス……!!」
「………………わかりました。ああ、命を司る白き龍よ、どうかご加護を!」
ドゥケスは祈りを捧げ、細い刃物を手に取った。それを見てオレも緊張に体を固くするのを抑えることができない。
(エトワール……!)
台の上に横たえられた彼女の手を取ると、エトワールは薄く笑んだ。
「安心をし。わたしが気を操作してセドリックを助ける、死なせたりしないよ」
「ああ……。よろしく、頼みます。オレは陽の気しか使えない、この場ではただの役立たずだ」
「祈りなさい。あんたの妻は、自分自身に術をかけながら頑張らなくちゃならないのだから。祈りなさい。それしかない」
「……わかった。どうも、ありがとう」
「礼ならいらないよ。力あるものとして当然の行いさね」
「エトワール……エト、どうか……。死なないでくれ……!」
なんて、無力な存在だろうか。ここにきて、祈ることしかできないなんて。オレはまるで子どものように膝を突いて慈悲を乞うことしかできず、ただただ待つだけだった。
できるだけ早く、続きを更新したいと思います。




