ひとつの可能性
オレが酒場の戸を開くと、なぜか全員の視線が集まった。騒がしいはずの店内は、誰かが落としたフォークの音さえ響き渡るほど静かだ。オレはぐるっと見回し、腰を浮かしかけていたセドリック・ドゥケスを見つけた。その顔にはハッキリと「会いたくなかった」と書いてあったが、そういう訳にもいかない。こっちには用がある。まぁ、今はオレの任地と近い場所に勤めてはいるが、フレデリックから任された第六分隊を四年も導いてきた義理堅い男だ、知らん顔はしないだろう。
「よぅ。今ちょっといいか?」
「……トマス=ハリスさん。ええ、もちろんどうぞ」
挨拶するとドゥケスは四人掛けのテーブルの、自分の前の席を指し示した。オレが腰かけると、周りから一斉に野郎共の波が引いてく。カウンターの内側にいる親爺さんにぶどう酒を一杯頼み、オレはドゥケスに向き直った。
「頼みがある」
「…………まずは、聞くだけ聞きましょうか」
「ああ、そうだな。何と言えばいいか……。ドゥケス、オレの妻の腹から赤子を取り出したいんだ。手伝ってくれ」
「はぁっ!?」
「そういうの、慣れてるだろ?」
「誤解を招くような言い方はやめてくださいよ!?」
ドゥケスが拳でテーブルを叩く。ドスンという重低音に続くように分厚い木板にひびが入る音がした。迷惑そうな顔をしている親爺にそっと手で謝罪の意志を伝えつつ、オレはドゥケスの方に身を乗り出して囁き声で話を再開した。
「頼む。お前の嫁さんが出産で死に掛けたとき、お前が腹を割いて取り出したんだろう? おかげで母子共に助かったって。同じことをしてほしいだけなんだよ」
「……けっして、聖典に手を置いて誇れる行為じゃありませんよ。人命救助のためにやむを得ずとはいえ、本来ならすべきじゃなかった! あのときは必死だったし、母の家系に伝わる操気法やなんかがなければ上手く行かなかった。今やったって、完全に成功する保障もないです」
「だが、やったんだろう?」
「嫁と息子の命がかかってましたからね」
「だったら、頼む。オレもエトワールを助けたい」
じっとドゥケスを見据えると、彼はぐっと眉根を寄せて苦しそうな表情をした。そして、泣き笑いのようになって言った。
「…………なんて目をしてるんですか、もう。貴方には弓の極意を教わったり、フレデリックさんがお世話になったし、不義理はしませんよ。だからもう、その殺気はしまってください。皆、怖がってますから」
「…………殺気?」
「この店に入る前からすごい気配でしたよ。ここに来るのは顔は物騒だけど一般人ばかりなんですから、加減してもらわないと」
「気づかなかった……。悪い、そんなつもりじゃなかったんだ」
「とにかく一杯飲んで、もうちょっと詳しく教えてください。ね?」
ドゥケスは聞き上手なだけでなく、別の話題に水を向けるのも巧みで、気づけばオレはエトワールとの生活に関するほとんどすべてを放出してしまっていた。杯は重なり、皿は増え、いつしかただの宴席と化している。
「はっきり言って、腹を割いて取り出したところで、何が変わるかは分からないですよ」
「そう、か……」
「協力があって、体調の安定したときに行えばおそらく、成功すると思います。ただ、それにしたって絶対とは言わないし、どちらかを優先して処置した結果、どちらかが命を落とすこともありえます。もちろん両方だって。それでも、その危険を飲み込んででも行いたいことですか?」
「……呪いは絶対だ、このまま行けば彼女は確実に死ぬ。抜け道があるとしたら、ここしかない」
「でしょうね!」
ドゥケスは木のジョッキを呷った。
「奥さんにはちゃんと話してあるんでしょうね。…………まさか話してないんですか!?」
「まずはお前と話してからだと思ってな」
「はぁっ、本当にあなたってひとは!! 普段は何に対してもどうでも良さそうな態度なのに、あなたが一度「こうだ」と決めたら周りの意見なんかお構いなしに「そう」決まっちゃうんですよね。ちょっとは相談とかしようと思わないんですか? あなたのことじゃなくて奥さんのことでしょう?」
「……断られたときのことも考えて、下手に希望を持たせたくなかった」
「断わらせる気なんてないくせに!」
ドゥケスは若干恨みがましそうな声でオレを詰った。ちょっと酒が効き過ぎている気がする。彼の白い肌は赤みが増し、卓上に上半身を預けて麦わら色の癖のない前髪を掻き上げて溜め息を吐いている。
「ちゃんと話し合ってください、何より本人の同意がないなら、ぼくは協力しない。分かりましたね?」
「わかった」
「本当ですよ?」
「ああ」
オレが頷くとドゥケスは仕方がないといった感じに首を振った。
「ぼくがどうこう言う話じゃないので、何も言いません。でもどうか、悔いのない選択をしてください。あなたの意志はあなたのものだ」
「………………」
「それじゃ、ごちそうさまでした。また連絡してください。産まれる直前じゃなく余裕を持って行いますからね。くれぐれも独断じゃなく、お二人の意志で、ね」
ドゥケスは立ち上がりそう言うと、軽やかな足取りで去っていった。そんな仕草までフレデリックに似て、オレはあれ以来一度も姿を現さない友を思った。ジェレミアもフレデリックも、今頃はどこで何をしているのだろうか。あいつらなら今のオレたちを見てなんと言うだろう?
遅くに帰宅したので、エトワールはすっかりお冠だった。ちょうど酒場にいたオレのことを誰かが彼女に伝えてくれたようで、心配はしていないようだったのが幸いか。水と濡らした手拭いをくれながら、彼女は栗鼠のように頬を膨らませている。
「ごめん。美味しい手土産でも買って帰るべきだったかな」
「もう! あ、でもたしかにお土産は欲しかったです」
「そうか、なら今度は二人で行こう」
「ええ、そうしましょう」
オレは髪を解いてゆるやかにまとめただけの彼女を抱き寄せ、その額に口づけた。ふっと空気が緩み、エトワールがオレの胸に頬を寄せる。
「なぁ、エト。聞いてほしい話があるんだ」
「……なんでしょうか」
「ちょっと座ってゆっくり話そう」
こんな風に改まって席を設けることに対し、彼女は表情を固くした。オレは笑顔を作って、安心させるようにその二の腕を優しく叩くと、彼女を椅子まで導いた。帰り道で頭の中でまとめていた話を繰り返す。拒絶されたらどうしようと、惑う気持ちもあった。だが、事に当たっては最善を尽くしたい。オレはできるだけ感情を込めないように努めながら、エトワールに計画を明かしていった。
すべての説明が終わったが、エトワールは視線を少し落としたまま黙ったままだった。オレも言い募ることなく答えを待つ。頭を上げた彼女の答えは、
「わかりました。お任せします」
「……ありがとう」
ふっと彼女の唇に笑みが浮かぶ。オレにはその真意が分からなかった。
本当に賛成なのか、それとも心の内では反対なのか。これはオレが彼女の子どもがほしいという願いに同意したことへの感謝なのか。聖典の教えから見れば、ギリギリ許されるか許されないかの境目のような行為だ、そういったことへの抵抗はないのか、あっても黙っているのか。それは、自分の命が助かるかもしれないと言う細い希望のためか?
かといって、それを問い質すこともオレにはできなかった。下手に追求して、「やっぱり無理だ」という答えを引き出してしまうのが怖かった。オレは正面から彼女を見つめ、そのほっそりとした手を取った。
「エトワール、きみを愛している」
きみだけを、愛している。




