騎士、夜を往く
休日に出かけるにしたってどこへ行くのかくらいは報告を上げるものだ、とはジェレミアの言だ。義務はない。義務は、な。
新入りの聖堂騎士をげんなりとさせ、勤務に対して懐疑的にさせるこのシステムはだが、宿舎を抜け出した新人がどこへ行ったか分からずに捜索隊を編むことになるなどの大事が起こらないように、との目的がある。ちょっと密林に用を足しに入っただけでも運が悪ければ、昨日はなかった大樹の根っこに蹴躓いて骨折などということが往々にしてあるある場所柄だからな。
ちなみに根っこに躓いて骨折したのは第三分隊のロクフォールで、酒場で飲んだくれて仕事に来なかったせいで捜索隊を動かしたのは第四分隊のヨックトルムだ。
オレも次の休みを使ってカルドへ行く予定なので、そのことを上に報告しなきゃならんのだが、何故だかジェレミアにだけは知られたくなかった。聡いあいつのことだ、地名を聞けばオレの目的にも見当をつけてしまうだろう。そして「自分も行く」と言い出すだろう。普段なら「勝手にどうぞ」とジェレミアの同行も気にならないのだが、なんなんだろうな。今回だけは……邪魔されたくない。
第六小隊の副長に外出先を告げ、前日から出立する許可を取った。
こうやって夜間に自由に旅して自由に出入り出来るのはここいらだけの話で、アウストラル王国や他の国じゃ街といえば壁で囲まれていて門があり、時間で出入りを制限しているのが普通だという。オレとしてはこちらのゆるい感じが性に合っている。
さて、カルドに出掛けようという当日、オレは職場に旅装と背嚢を持ち込んでいた。今日のオレの持ち場だとジェレミアに会わずに済む、筈だ。
「ラペルマ。……その、荷物」
「よぅ、お疲れ」
「お疲れとかじゃなくて。なぁ、どこか行くのか? まさか無断……」
「いやいや、待て待て。上に話は通ってる。心配すんな、ロクフォール」
「本当か?」
「おい……。本当だって」
「信じるぞ? ジェレミア分隊長泣かすなよ?」
「へいへい……」
ロクフォールは勘がいいが詰めが甘いんだよなぁ。騙すようにして出てきてしまったが、ジェレミアべったりのあいつに話すわけにはいかないから仕方ないな。
嘘は言っていないし、まぁ大丈夫だろう。
青銀の月が明るい。
リリオから外に出ると、カルド方面へは北の大路を行くのが道なりだ。大路までは細い街道を抜けていく。北は拓かれた小麦畑、南はゴツゴツした岩の多い地味の痩せた土地ばかり。豊かさは自然と北に集まっていくが、南は南で珍しい植物を育てられていたり、整えられた広い狩猟場があったりと悪いことばかりじゃない。
オレは北への街道を歩き始めた。今夜は月が大きく明るいので、わざわざ角灯を点けるまでもない。両手が空いた状態で旅が出来るならその方が楽でいい。
月光の照らす路を行くのは不思議な気分だった。青の支配する世界は静まり返り、どんな命も息をひそめているようだ。そんな無音の中を一人歩いていると、時間の流れから取り残されたように感じる。
ひとは永遠の旅人だ。その道往きは孤独で、誰かと一緒にいると思えることはあっても、その実、その旅に連れなどいない。生まれてから死ぬまで、ひとは己だけで進んでいかなくてはならない。
道から外れることはない。なぜなら旅人が歩いてきた軌跡が道であり、ひとは道の上で立ち止まるときはあっても旅をやめることは出来ない。今の旅を中断しても、その先にあるのは新しい苦しみであると聖典は説く。
オレは一度立ち止まった。そしてまだそこから歩き出せずにいる……。
『トマス=ハリス……あなた……』
記憶の彼方からの呼び声が遠くたなびく。オレは小さく舌打ちした。そうだ、夜は死人と過去の領分だった。
明かりは点けておくべきだった。月の光は幻を纏う。そんな事すら忘れていた。
「……少し平和に暮らしすぎたか」
上衣の内側に一本だけ用意していた投げナイフを手に取る。あまりにも細く、薄いダートだが、小ぶりの林檎くらいなら十フィート先から割る。隕鉄を鍛えた魔を絶つダートは、実体のない幽魔と戦うためには必須だ。
「来るなら来い、“誘惑者”……」
死の女王の腕から抜け出てきた幽魔たちは生きた人間を見ると仲間に加えようとつきまとう。その囁きに耳を貸すと狂気に冒され、酷く苦しみながら死ぬという。
その幽魔が今、近くにいる……!
冬の先触れかと思える程の冷気が辺り一帯に下りると、月光がさらに蒼く震えた。
「そこかっ」
ダートを投げるのではなく振るう。普通には軽すぎてダメージの乗らない一撃だが、相手は透明で非実体だ、触れるだけで構わない。
月の光の揺らぎから、奴の場所は知れていた。小さく苦悶の呻きが聞こえる。……浅いな。
『寒いぃぃ……。あなた……あなたぁ……』
「リアン……」
『さみしいぃぃ……。一緒に……一緒にぃ……』
「リアンなのか? もしそうなんだったら、顔を、顔を見せてくれ」
『あなた……』
「リアン!」
現われた半透明な影はまさしく記憶の中のオレの妻だった。寂しげに微笑む幽魔は紛い物のくせにやけに人間らしかった。もしオレが妻の死を引きずるような感傷的な人間だったら、いや、こうした魔物退治の専門家としての訓練を受けていない普通の男だったら。先立ってしまった彼女の涙を見て冷静でいられはしなかったろう。
妻が、いや、知り合いがこの世に未練を残して魔物に変じてしまったと聞いて、「じゃあ仕方ない、叩き切るか」と即座に応じるオレやなんかは、そもそも人間やってるのに向いてないんじゃないかと時々思う。今もこうして半実体の幽魔をおびき寄せるために演技しているんだからな。
「リアン……。もっと、側に……」
『ああ、あなた……。会いたかった……』
「どうして、こんな……寂しいのか、リアン」
『寂しいぃ……。あなた、一緒にいて? 一緒に死んでくれる?』
「リアン……。もちろんだ」
『ああ! 嬉しい……』
「いつでも一緒だ」
『あなた…………ぅ!? う、ぐぁぁぁぁぁぁっ!?』
額にぐっさりとダートを突き立てると、煮凝りでも刺したかという様な不確かな感触と、幽魔の絶叫が遅れて届いた。あまりの音量に片手を耳に押し当てる。半分塞いだだけじゃ効果がないのは分かっているが、それはもう気分的な問題だから仕方ない。
『な……ぜ……?』
「お前はリアンじゃないからな」
オレの答えを聞いた“誘惑者”は悔しそうな顔をして、ふっと掻き消えた。
「顔だけは、似てたんだけどな」
誰に言うでもなく呟く。
死んでしまったリアンは、きっと迷わず“永遠の円環”に迎え入れられ、次の旅路までのつかの間、休息をとっているに違いないのだから。彼女のことで気にすることなんてないんだ。むしろオレの方こそ、心のどこかであの不条理を受け入れられずにいる。
オレは間に合わなかった。
聖堂騎士として魔術を修め、武器の扱いもそこそこと自負していた。だからこそ「誰かを救いたい」と思って親父と同じ仕事に従事し、そしてそれは目論見通りに運び、充実した毎日だった。親友がいて、恋人がいて、父母も元気で、大きな不幸はなく……。
あの日、たまたま非常召集がかかって、リアンをオレの父母の家に残して聖堂へ向かった。魔物が妙な動きをしているとかで、オレたちはそいつを狩るべく山へ入った。そして…………。
魔物は倒した。誰も死ななかった。だが、山津波が起こって下の村が壊滅したことは、誤算だった。
オレは力を持っていたのに。
土砂の全てを防ぐようなことは出来なくても、家族三人くらいなら守ってやれたろうに。
怪我人だって、死んでいなければ【治癒】を施してやれた。それで助かった奴だってきっといただろうに。オレがいれば、手遅れになる前に……。間に合わなかったんだ。
どうしてこんなことになったのかと、ずっと考えているうちに術が使えなくなっていた。
『聖典への敬意を失ったか』
『妙な考えは捨てろ』
『お前のせいではないのだ。全ては定めだ』
口々に言われた。だが、そう諭されても胸の裡に湧いた疑念はそう簡単に払拭できやしない。そもそもオレ自身がどうしてこんなことになったのか分からないのだ。
ひとはいつか死ぬ。
そんな分かりきったこと、言われなくても理解している。だから、皆が死んでしまったときも悲しさはあったが仕方がないことと諦めてもいた。恨むとかどうとか、そういう気持ちもあったかもしれない。オレの中にあったのはただ、「どうして」という、それだけで、至って平静であったはずだ。
周りのほうこそ騒ぎ立てていて、特にジェレミアは自分の身内を失ったかのように泣いてくれていた。
オレは涙も出なかった。
特にそうだな、取り縋って泣くこともしなかったな。
ただ、「間に合わなくてすまない」と、そんなことを思っていた気がする。
魔術を使えなくなったオレは第一線を退いた。ただ武器を扱えるだけの人間が前線にいても死ぬしな。やってやれないことはないが、あの頃はまだ魔術を用いずに戦うことに慣れていなかったから、多分すぐにやられて死んでいただろう。
お情けで聖堂騎士の身分は残してもらえたんで、しばらくは聖堂内の事務職をしていたがそこも色々と揉めて出てきた。父母の暮らしていた村で小さな聖堂の世話をするか、もうこの大陸を離れて幼い頃にいた聖火国へ戻るかといった二択に迫られていたオレに声を掛けてきたのがジェレミアだった。
「魔物は出るが、全てを討伐せよというわけじゃない。共存共栄の土地だ。主な役割は“墓所”を訪れる人々の護衛だ。どうだ、お前にぴったりだろう?
僕と来い、トマス=ハリス。どうせ知らない場所に行くつもりなら、僕が面倒見てやろう」
偉そうな物言いとは反対に、差し出された手は震えていた。
「偉そうに。オレが面倒見ることになるんじゃないのか?」
「なっ!? どうしてそうなる!」
「また女で揉めて出てきたんだろうが」
「失敬なことを言うな! なぜか知らないがいつの間にか僕を取り合って引っ張り合いになっていただけで……」
「ほらみろ。そういうコトに疎いお子ちゃまだからね、お前」
「きっ貴様! 勝負するか!? 受けて立つぞ!」
「やだね~」
顔を朱に染めて震えるジェレミアに背を向けて、オレは振り返らずに言った。
「これからもよろしくな、相棒」
「っ! ああ!」
これは後から聞いた話だが、ジェレミアが最前線のエリート職場(ただし危険度は常に最高値)から降りたのは、有力者のお嬢様がたに取り合い合戦されただけじゃなくて、自分から移動願いを出していたんだということだ。あいつが時間があればオレの様子を見に来ていて、現在の聖堂騎士団第六小隊に移動が叶ったときもオレを部下として加えられるように上司に相談していたということも。……本当に、おせっかいな奴だ。
「さってと。先を急ぎますか~」
過去から押し寄せる波をそっと手で脇に避ける。今のオレには必要のないものだ。
かといって、未来にも価値なんて見出せないわけだが……。
角灯に火を入れるべく、オレは荷物から火口箱を取り出した。魔術が使えていればこんな大掛かりな代物は必要ないんだが、無い物を欲しがることはもうしない。オレは少々の時間と手間をかけて火花を乾燥させた植物に移した。その火種からもらった火を角灯に入れるわけだ。
最初から点けておけと思うが、どうせ途中で油切れを起こすことを考えると、結局こうして火を熾す手間は変わらなかったわけだ。それにしたって幽魔を呼び寄せたのは失態だったし、知られれば煩い奴が一人いる。
オレは荷物を片付け、腰の長剣とダートを確認し、完全に火を消してからその場を後にした。幽魔に手間取った分、少し急ぎ足で街道を行く。藍色の空には星が煌いていて、旅路を照らしてくれていた。
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