決意
翌朝、オレはエトワールに承諾の返事をした。ベッドのキルティングをはねのけ、まるで少女みたいに目をまん丸くしてオレを覗きこんでくる彼女が可愛らしくて、紗のように顔を覆う髪の毛を払ってその頬を撫でた。
「トムさん、本当に? 本当にいいんですか!?」
「いいも何も……オレがきみの願いを断ったことがあるかい?」
その言葉に、彼女は泣きそうな表情でオレの首に縋りついてきた。胸の上に全体重が圧しかかり思わず息が詰まる。そんなオレの状態を知ってか知らずか、唇を押しつけてきたエトワールは、上機嫌で着替えに行ってしまった。
「ありがとうございます! わたし……嬉しい!!」
さっと顔だけ出してそう言うと、笑顔の彼女はまたさっと引っ込んでいった。そんな風に喜びを表現されると、罪悪感で胸が潰れそうになる……。こどもを作ってもいいだなんてそんなこと、本気で思っているわけがない。形だけでも賛成しておけば、彼女の気が晴れるだろうと、希望を持たせてやればそのまま体も回復するんじゃないかと思っただけだ。いっそ、どこか他所からこどもをもらってくれば解決する問題だったら良かった。と、最低なことを考えたりもした。
ドニの家族に別れを告げる。急なことではあったが、昨晩から話してあったためにスムーズに別れられた。エトワールはこどもたち全員にキスをして、言葉をかけてやると、笑顔で手を振った。泣いているのは小さい二人だった。それもドニが抱いていたので、しがみついて離れないということはなかった。
「可愛いですね、子どもたち」
「うん? そうだな」
「わたしたちの子も、きっと可愛いですよ」
「そうだな。きみに似るといい」
「あら、わたしはトムさんに似てほしいですけど」
「そうか?」
「そうですよ。女の子は父親に、男の子は母親に似ると言います。きっと、素敵な女の子になりますよ」
「う~ん……」
自分に似た女の子なんて想像がつかない。まあ、生まれる予定のない子どものことを考えても仕方のないことだ。そう思った。
日は過ぎて、エトワールから笑顔で妊娠を告げられたとき、オレの心臓は冷えた。失敗するはずがないと思っていたからだった。これまで何年も気をつけてきて、何の問題もなかったというのに。喜びをあらわにする彼女を抱きしめ、オレも表面上は喜んでいるふりをした。
喜べるわけがない、そのこどもは彼女の命を奪う異物だ。妊娠が間違いであってくれと強く願った。体調不良から月のものが止まり、妊娠と誤診されることは少なくない。そもそも、出産までにきちんと育つかどうかも分からないんだ、どうか消えてくれと祈るばかりだった。
エトワールは仕事を減らし、まだ膨らまぬ腹を撫でては幸せそうに微笑んでいた。オレもそんな彼女の背を抱いて優しい言葉や甘い言葉をかけた。きりきりと痛む胸の裡など、悟らせてはならないと思った。彼女は子どもを産めば死ぬ。だが、産まなくても……。
彼女が決めたことに対して、オレが何を言えるだろうか?
オレのいない間にエトワールが泣いているのも知っている。一度、思いがけず早めに帰れた日があった。家の中にもどこにも彼女の姿が見えないので、寝室の戸をノックしようとして気がついた。さめざめとした泣き声に、オレは伸ばしかけた手をそっと元に戻した。悔しさに歯噛みしながら、それでも、彼女のほうが辛いのだと、飛び出して抱きしめたい気持ちを殺した。
慰めなんて何になる?
オレにできるのは、知らないふりをしてやることぐらいだった。
それからさらに日が過ぎて、エトワールのお腹はとうとう隠しきれないほどになった。他人にはいつも笑顔の絶えない若夫婦に見えるだろう。結婚して長いのに子どものひとりもなく、ようやく授かった命に喜びを隠せないのだろうと。
そうとも、そう見えるように振舞っている。説明したところで理解なんてされないのだから。避けられぬ死を前にして、同情の言葉をかけられるのもごめんだった。あれはそう、憐れみというよりは、自分より可哀想な者を見て「自分じゃなくて良かった」と思う優越感だ。オレはそれが大嫌いで、人目を避けた。逃げ続けた。そんなものがエトワールに対しても向けられるかと思うと、耐えられない。
オレたちは二人になっても演技を続けていた。幸せな夫婦の演技を。エトワールはどこから得てくるのか、生まれたての赤ん坊についてオレにたくさんのことを教えてくれる。オレはそれを真剣に聞き、時にはメモを取ったりして、ちゃんと学んでいる姿勢を見せた。エトワールの真意はこうだ。
『わたしがいなくなっても、ちゃんと赤ちゃんをみてやってください』
だからオレは彼女を安心させるために、まったく知りたくもない情報を頭に入れ続けている。賢いエトワールのことだ、もしかしたらオレの気持ちには察しがついているかもしれない。だって、オレは赤ん坊のことを自分からは一切口にしない。腹に話しかけたりもしない。ただただ、彼女への愛を囁くだけなのだから。それでもまさか、聖堂騎士であるオレが生まれた子を殺すわけがないと、そうかたく信じているのだ、彼女は。
エトワールを愛している。腹の子を流せばその命が助かるという確信があるならば、きっとそうしただろう。躊躇いもなく。今までだって何度そうしようと思ったかもしれない。彼女を腕に抱いて眠る夜に、夜明けの星を見送るときに、座ってこどもの靴下を編む彼女を眺めているときに。
黒い衝動がオレを苛んだ。
それを押さえ込み、今日も彼女を抱きしめるのだ。華奢なその体より、もっと繊細で壊れやすい彼女の心を抱きしめるのだ。
「エト、愛してる」
「ふふふ、何ですか、もう……」
「大好きだ。可愛いオレの奥さん」
「くすぐったい……! わたしも愛しています、トムさん」
背後から抱きつき、その首筋に鼻を埋めると、エトワールは身を捩って逃げようとした。オレは彼女の体勢に無理が来ないように位置を調節し、もう一度腕の中に彼女を閉じ込めた。
「このまま、時が止まればいいのに……」
「…………ええ、そうですね。わたしも、そう思います」
エトワールは静かな声でそうこぼすと、オレに体を預けてきた。ただただ、互いの温もりを感じ呼吸の音だけを耳に入れ、そうするだけのことが愛しくて、いとおしくて、言葉さえ出てこなかった。誰かが傍らに、いや、彼女が傍らにいてくれること、それがオレの幸せのすべてだった。
人生の中で、幸せを感じる瞬間というのは何度か経験してきた。それは興奮を伴う勝利の記憶だったり、強く求めていたものを手にしたと確信した瞬間だったりした。でも、今はそのどれとも違う幸福感を味わっていた。
愛している者が、自分を信じてすべてを、命すら委ねてくれているこの時間、腕に感じる彼女の重み。それは素晴らしいものだった。
(失いたくない……。何をしてでも、この時間を守りたい……)
オレはある決意をした。
出産の前に、この、彼女の腹の中にいる子どもを取り出す。
このこどもさえいなければ、エトワールはもっと長く生きられるかもしれない。そう思った。




