兆し
終章に移ります。鬱成分が凝縮されている章です。お気をつけくださいませ。
月日というものは、あっという間に過ぎていく。オレとエトワールは金杯騎士団のお膝元、アコロを中心に色々な土地へ行った。新しく建て直されたオレの家はサーラとドニが管理してくれることになり、それに伴って放置されていた土地も手を入れた。それなりに暮らしていけるようになるまでは少し時間が必要だったと思うが、そこはオレたち二人、特にエトワールが協力して乗りきった。時には命を危うくし、時には喧嘩もあったが、オレとエトワールの仲は良好だと言いきれる。オレの側にはいつも、あの可愛らしい笑顔があったからだ。
この九年の間にサーラは五人の子を産んだ。一番下のはつい先月産まれたばかりだ。どの子もすくすくと育っている。今はオレの長い休暇を利用して産前産後の手伝いに来ているのだった。オレがサーラの寝室へ昼食を運んでいくと、エトワールが赤ん坊をゆりかごで揺らしているところにでくわした。
「起きまちたか~、フィオちゃん。エトワールおばちゃまですよ~」
「おばちゃまって、エト……」
まだ若いのに。という言葉は飲み込んだ。
エトワールはこちらを振り向き、ふにゃっと笑った。
「トムさん、いいところに! おしめを替えるのでフィオちゃんを抱っこして隣の部屋へ連れて行ってください」
「ええ……。いや、オレはその……。首も座ってない赤ん坊を抱くのは……」
「そう言って、今までどの子も抱いてないじゃないですか!」
「いやいや。大きい子は肩車してやったり、色々してるって」
「いいから! 抱っこしてください!」
ぷりぷり怒ったエトワールに強引に抱かされた赤ん坊は、フワフワして、軽すぎて、あっさり壊れてしまいそうでとても怖かった。こう、抱くと言うよりは手でカゴを作ってそこに載せている感じだ、あれは。そして、おしめ替えを別室でやる理由は……まあ、特筆しないでおく。
戸のない続き部屋にしつらえられた、赤ん坊用の着替え台の上にフィオを載せると、エトワールは鼻歌まじりでおしめを取り替え始めた。すっかり手馴れたもんだ、最初の赤ん坊のときは本当に酷かった。村の女性たちに手伝ってもらっていたにもかかわらず、ドニとオレは毎日が憔悴しきっていたからな。初産を終えたばかりのサーラの方がよほど順応していたように思う。
汚れた布を交換すると、フィオの機嫌はよくなった。エトワールが抱いていくものと思っていると、彼女はまたしてもオレに抱かせようとする。その様子がなんだかいつもと違うように見えたオレは、フィオを抱く前にエトワールの顔を覗きこんだ。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「ちょっと……腕がだるいだけです。今だけのことだと思いますけど」
「重い物を持ちすぎたか? それとも、運動不足かな」
「やだ……。でも、そうかもしれません。たまには散歩に出ないと」
「うん……。ちょっと太った?」
「もう、トムさん!?」
「あはは、悪い悪い。いててて!」
二の腕を摘まんでからかうと、本気でぶっ叩かれて痛かった。エトワールはこういうときにまったく容赦がない。だが、これはまだマシな方だ。激怒しているときにはものすごく優しい笑顔になる。そして予測不可能な位置から黒術で攻撃される。金杯騎士なのに避けられないとは……オレの奥さんは最警戒レベルの魔物並みだ。と、このときは笑い話で済んでいた。
だが、その次の違和感は、見過ごすことができなかった。結婚の年に買った五つでひと揃えの花瓶を、エトワールが落として割ってしまったのだ。いつもは箱にしまっておいて、この家にいる間だけ、こどもが決して入ってこないオレたちの部屋に飾ってある花瓶だ。しかも、すでにひとつ割っているから、取り扱いは慎重に、絶対に割らないと豪語していたものだ。
「エト?」
「あ……。ごめんなさい、わたしったら、ちょっとボーっとしていたみたいで……」
「いつからだ?」
「え?」
「いつから具合が悪いんだ。あれだけ花瓶を大切にしていたのに、ボーッとしていて割るだなんて言い訳、通用すると思っているのか? すぐ、聖堂に行って診てもらおう。医者でも療術士でも、誰でもいい、とにかく、診てもらおう」
エトワールは気乗りしない風に頷いた。
「エト、他に何を隠してる?」
「なにも、なにも隠してません」
「いいや。まだどこか他に痛む箇所があるんだろう。さもなきゃ、違和感のある場所が。どこだ? ちゃんと言わなきゃわからないだろう?」
「痛っ、トムさん、痛い……!」
「すまない……。つい……」
オレはエトワールの肩から手を離した。よほど強く掴んでしまったのだろうか、エトワールは眉をしかめてしばらく肩をさすっていた。
「きみが、心配だったんだ……」
「わかっています。気に病まないでください」
こんなときにさえ、オレのことを気遣うエトワールに、オレの心は沈む。信用されていないのじゃないかと、いじけた気分にさせられてしまう。エトワールに下された診断は、「原因不明」だった。
それから、エトワールはどこか遠くを見て、考え事をしている時間が増えた。力が入らないのは手先だけではなく、全身だった。彼女は絶対に認めないが、視力も悪くなっているように思う。オレはサーラの手伝いを切り上げて、別の場所で残りの休暇を過ごさないかとエトワールに提案してみた。
「そうですね……。心配をかけてしまっては、逆に良くない気がします」
「なら、明日にでも立とう。湖畔なんてどうだ? 空気のいいところで静養すれば、きっと体も楽になるさ」
「…………トムさん、わたし、きっとこれ以上良くなることはないです。休暇中はいいけれど、お仕事が始まったら……」
「エト」
「わかるんです。自分のことですもの」
「弱気になっちゃいけない。さ、少し暖まろう。お茶でも淹れようか」
「トムさん!」
午後のテラスに二人、背もたれのある椅子に腰かけていたのを、オレは家の中に入ろうと促した。エトワールはそんなオレの背中に抱きついて引き留めた。
「トムさん、わたし、怖い……。このまま死んでしまいたくない……!」
「エト、大丈夫だ、オレがついてる」
「いいえ! いいえ!」
「エト……」
「トムさんにはわかりません! わからないわ……。お願いです、トムさん、わたしの願いを叶えてくださいませんか」
「…………なんだい?」
きゅっと、シャツの袖が握りしめられる。オレは振り向くことができなかった。
「わたし、あなたの赤ちゃんを産みたいんです……」
「………………」
「どうしても。そうしなければならないんです。だって、だってわたし……! なにも成せずに死んでいくのは嫌……嫌です……」
「だけど……」
「わかっています。わたし、自分の最期は自分で選びたい。このまま衰えて露と消えるくらいなら、こどもを産んで、生きた証を残して死にたい」
エトワールの血の滲むような決意を前に、オレは……。
考えさせてくれ、と口にするだけで精一杯だった。




