涙のキス
エトワールは野草に覆われた斜面に寝そべるトマス=ハリスを見つけて微笑んだ。黒衣を脱いで普通の村娘のような装いになっていた彼女は、スカートのしわを伸ばし、前髪を整えた。遠くから音を立てないように気をつけつつ、静かに、静かに近づいていく。
「やぁ、エトワール。今日は休み?」
「……ええ。トムさんは?」
「オレは待機だよ。今はもう“墓所”は封鎖されているし、巡礼客も案内してないから、仕事は少ないんだ」
こっそり近づいて驚かす計画は見事に失敗してしまった。ちょっと残念な気持ちになりながら、エトワールはおとなしく彼の隣に腰かけることにした。午後の陽光が空気を暖め、のんびりと流れる時間が眠気を誘う。組んだ腕を枕にし、目を閉じているトマス=ハリスの横顔はとても安らいでいて、この素敵な昼寝場所にすっかり馴染んでいた。
「ジェリーさんには会えましたか?」
「……いや。アイツは頑固だからな。今はオレに会いたくないんだってさ」
「トムさんも頑固ですから、そのうちにきっと会えますよ」
「そんな馬鹿な。オレは全然柔軟だって。どちらかというと、いつだって意見を譲る方だよ」
「そうですね。どうでもいいことに関しては、すぐに手放しちゃう、そんなイメージがありますもん。でもその代わり、大事な物はちゃんとしまいこんでおくんですよね? そうなったら絶対に譲らないんだって、ジェリーさんが言ってました」
「……参ったな。んん、ここはオレの負けってことにしとこうかな」
「ふふふ、わたしの勝ち」
「そうそう、きみの勝ち」
トマス=ハリスの薄い緑の瞳が陽光に透けて、翡翠細工のような輝きを宿す。いつも寂しそうに笑うその瞳が、今はとても満たされているようで、嬉しくなった。
ふと、彼の薄い唇に触れたときのことを思い出し、エトワールの胸は甘い痛みに支配された。上気した頬を見られたくなくて、とっさに体ごと顔を背ける。エトワールは急いで何か別の話題を探すことにした。
「あの、そういえば気になってたんですけど……!」
「うん?」
「トムさんって、名前が二つあるの珍しいって言われませんか?」
「ああ、まぁね」
トマス=ハリスがまた目を閉じたので、エトワールは安心してその顔を眺めることができるようになった。
「長い名前だと愛称で呼ばれる方も多いのに、そうじゃないってことは……、もしかして愛称で呼ばれるのはお嫌いですか? ジェリーさんも愛称では呼びませんものね。それだったらわたし、初対面でとんだ失礼を……」
「いや、気にしなくっていい。というか、完全にいまさらじゃないか?」
「だって……」
「ただ……癖で、ね。俺の父方の祖父と母方の祖父とが、オレの名付けで大喧嘩して、どちらも譲らなかったんだ、っていつも聞かされて育ったんだ。結局、呆れた母が両方ともオレの名前にしたんだが、片方しか名乗らなかったらまた喧嘩が……ねぇ、うん」
物語の中でしか聞いたことのない温かな家庭の情景がエトワールの頭に思い浮かんだ。腕っぷしの強そうな老人たちに挟まれる赤毛の子ども、小さなトマスはきっと今と同じように困った笑顔をしていたに違いない。
「楽しいご家族ね! いっそお父様と同じ名前にすれば良かったんじゃないですか、それ? お父様はなんというお名前なの?」
「あー。ガングレイヴ。……オレの名前はもしかしたらそれになってたかもしれないのか。親父はそういうの、口出しする感じじゃなかったからなぁ」
「ガンさん……格好いいです!」
「その略し方はどうなんだ……」
「うふふ! いま、御家族はどちらにお住まいなんですか? 予選にはいらっしゃっていたのかしら?」
「うん……」
「皆さんにお会いしたいです! あ、変な意味じゃないですよ、お会いしたらきっとすごく楽しそうなんですもの」
「うん、死んだんだ、四年前に。妹夫婦以外、全員」
「え……」
「全員、山津波で亡くしたんだ。オレの妻も、一緒だった」
「………………」
「すまなかった。話したこと、なかったよな。驚かせちゃったな。そんな顔をさせるなんて……」
「ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃ……! 違うの、違うんです……」
エトワールは大きな藍色の瞳から涙がこぼれ落ちていくのを抑えることができなかった。トマス=ハリスは優しく微笑んで、彼女の頬を撫でた。
「まさか、お亡くなりになっていたなんて、知らなかったから……。わたし、わたし……」
「いいんだよ。むしろ、今まで家族のことを誰かに話すのは、辛いことだったのに、きみに話すのは、楽しかった。
笑って話せる思い出の方が多いはずなのにな……。そんなことすら気がつかなかったんだ、今まで」
トマス=ハリスの笑顔は晴れやかで、無理をしている様子はなかった。
「それを変えてくれたのはきみだ、エトワール。久しぶりに家族の笑顔を思い出したよ。ありがとう」
「トムさん……」
「妻のことを黙っていて、悪かった。きみと深い仲になるつもりはないと思いながら、ちゃんと打ち明けなかったのは、きっとどこかで打算的な意志が働いていたんだと思う。エト、きみを手放したくなかったんだ……。卑怯者だろう? ……嫌いになった?」
「いいえ! まさか……」
そう言いながらも、エトワールの胸にはもやもやとつかえる物があった。まだ子どものような自分とは違い、彼にはすでに愛した女性がいて、永遠の愛を誓ったのだ。ただの男女の愛ではなく、結婚という家と家との結びつきで以って、彼の人生をその女性とひとつのものにしたのだ。
それに引き換え、エトワールとトマス=ハリスの仲はまだそこまで至っていない。それどころか、家を失った彼女には、結婚することはできてもそれが彼にとっての幸せをもたらすとは限らないということに気づいていなかったのだ。
今の今まで、エトワールは、想い人と結ばれるということの、現実的な面を見てこなかった。それは彼女がこどもで未熟だと言うだけではない、わざと目を背けてきた部分でもあった。彼の家族のこと、自分たちの仲が認められないかもしれないということ、そんなことを考えてみたことはなかったのだ。
身ひとつ、家の名を持たずに嫁ぐということ。聖堂騎士という、西部では誰もが憧れる一部の選ばれた人間にしかなれない資格を持ち、その中でも一度は頂点に上り詰めた彼の妻になるということの意味を、自分はきちんと理解しているのだろうかとエトワールは己の心に問いかけた。
(わたし……わたし、浮かれてるばかりで、そういうこと、考えたことがなかった……。恋をすれば、結婚をすれば、幸せになれると……)
かつて彼の妻だった女性と、今の自分とを比べ、エトワールは惨めな気持ちになった。エトワールには家も財産もなく、結婚を後押ししてくれる後ろ盾もなく、そもそも呪いのせいで彼に新しい家族さえ作ってやれないのだ。すでに妻を失った彼から、こどもさえ取り上げるのかと、エトワールの胸は張り裂けそうだった。
(どうしよう……どうしよう、わたしじゃトムさんに何もしてあげられない……。トムさんを幸せにしてあげられない……!!)
エトワールの心が冷えていく一方であるのに対し、トマス=ハリスは起き上がって正面から彼女を見詰めていた。彼女の膝に置かれた両手を取り、晴れやかな表情で愛を語っていた。エトワールは、今が一番幸せな瞬間のはずであるのに、それがどこか他人事のお芝居のようにしか感じられなかった。
「エト、きみが望むなら、いつかきっと妻の話もしよう。でも今は、違う話がしたい」
「違う話……?」
「ああ。一緒に家族の墓へ行って、きみのことを家族に伝えたいんだ。きみを心から愛している……オレの、妻になってほしい。結婚しよう、エトワール」
「……ああ!」
熱い涙が彼女の頬を伝わった。だが、それは歓びからではなく……。
「ああ、わたしの騎士様……。貴方への愛でわたしの胸は張り裂けそうです……。どうか、わたしの愛を受け取って、代わりに貴方の愛でわたしを満たしてください……。わたしは、貴方だけのもの……!」
大好きだった恋物語の主人公の台詞を、何度だって繰り返し練習した日々。いつか誰かに捧げるために、ずっと守り通してきた唇も、すべてが色褪せていくようだった。おままごとの恋は終わったのだ。生まれて初めてのプロポーズ、その口づけはもっと甘いものだと思っていたのに……。本当なら歓びの中でこの言葉をもらいたかった。どうしてこんなに愛しいのに、こんなにも愛しているのに、痛みが消えてなくならないのだろう。
(まるで心臓に氷の棘が刺さったみたい。わたし、貴方のそばにはいられない……。愛しています、永遠に。さようなら、トムさん……)
心の中で別れを告げて、エトワールは偽りの愛を囁き、笑顔を作った。
「エトワール……!」
「……強く、抱きしめて」
(わたし、もっとお馬鹿な女の子なら良かったのに。何にも気づかないでいられれば、幸せになれたかもしれないのに……)
彼女のやまない涙のわけは、彼女自身しか知らなかった。




