くちづけ
告死蝶が舞う。だがその動きは、“炎の尾持つ殺戮者”にとってはあまりにも緩慢に過ぎた。そこが大地の上だと感じさせぬほど軽やかな足取りでエトワールに近づいた魔物は、まず真っ先に彼女の左肩にしなやかな前肢を置いた。ただ置いたわけではない、まるで力がかかっていないようでいながら、それはエトワールの鎖骨をぽっきりと折っていた。エトワールは呻いた。
「このケダモノ! その娘を……放しなさい……!」
「ロク、サーヌ……?」
涙に霞んだ視界の中、エトワールは確かに見た。瀕死の彼女のためにこの獰猛な魔物の前に立ちはだかったのは、誰あろう、つい先ほどまであんなにも睨み合い、いがみ合い、その命までをも奪おうとしたロクサーヌだった。
卓越した術の導き、省略しながらの詠唱。手には印を結びながらロクサーヌはゆっくりとした足運びで“炎の尾持つ殺戮者”に回り込んでいく。
「……いさ、【絶】!!」
意識を奪う黒術を導くロクサーヌ。しかし、それが通用するような甘い相手ではなかった。咆哮することで陽の気を一気に解き放ち、強引に彼女の術をうち消した。たかが魔物とあなどっていたロクサーヌは驚きを隠せない。今まで彼女が相手にしてきたのは人間ばかり、こんな野生の脅威に晒されたことなどなかった。
「そ……んな、馬鹿、な……」
彼女としては充分な距離を取ったはずだった。術が届くギリギリの、二十フィート、だが……
『ゴアアッ!』
「えっ……」
力強い跳躍。ロクサーヌはいっそ火傷しそうな熱を感じながら地面に押し倒されていた。無慈悲な顎は老嬢の肚をたやすく噛み裂き、内腑を引きずり出した。
「ひっ……いや……いや、ロクサーヌ!!」
憐れな贄の弱々しい悲鳴を、エトワールの絶叫が掻き消す。愚かな行動だった。“炎の尾持つ殺戮者”が新たな獲物に夢中になっているうちに、息を殺し、音を立てずに這い逃げれば良かったのだ。いや、そうするべきだった。けだものが久しぶりの食事に夢中になっているうちに。
“炎の尾持つ殺戮者”は恐怖に満ちた悲鳴を聞き、弱らせていたご馳走の存在を思い出したようだ。芳醇な生き血から想像する主役の味わいに涎が止まらないのだろう。彼は食事を終え、次のテーブルに移ることにした。
「……生命の恵みをお分けください、この大地に潤いをもたらしたまえ、いさ、【慈雨】!」
エトワールが左手を振ると辺りに細かい雨が降り注いだ。“炎の尾持つ殺戮者”は唸り後退さる。水はこの魔物にとって忌避すべきものであった。燃え盛る麦の穂を逆立てたような尻尾は、彼の陽の気の顕現であり、これを濡らすことは彼にとって苦痛となる。彼は迷うようにその尻尾を揺らした。今ここにあるご馳走に目をつぶって森の奥へ帰るべきか、それとも、雨に曝されながら狩りを続けるか……。
(ああ……トムさん、助けて!)
エトワールは気づいていた。もう自分が長く術を展開していられないこと、失われていく血の量から考えて生命の尽きるのも時間の問題だということ。そして、こんな終わりを迎えるなんて絶対に嫌だと強く思った。
(嫌よ、わたしはまだ生きていたい! トムさんに会いたい、愛されたい……!)
「トムさん……」
「エトワール!!」
幻聴だろうかとエトワールは思った。去り際の生命が見せるという夢まぼろしの類ではないかと。だが、そんな甘い妄想とは違い、聞こえてくるのは想い人の優しい声ではなく、やかましい金属音や猛獣の咆哮であった。彼女の騎士はたったひとりで、自分よりも大きい魔物を相手に剣と盾で立ち向かっている。鎖鎧を布のように引き裂く爪も、彼の鎧には効かない。
「森へ帰れ、この、けだものが!!」
その一撃が決め手になったのか、“炎の尾持つ殺戮者”はトマス=ハリスを睨みつけたまま、ゆっくりと木々の影に姿を消したのだった。
トマス=ハリスがエトワールのもとへ駆けつけると、彼女はロクサーヌを抱きかかえて話しかけているところだった。
「ロクサーヌ……どうして……。ロクサーヌ、ロクサーヌ!」
「エラ……、わたくし、今までのことを、後悔したことなんてないわ……」
「喋っちゃだめよ! ああ、誰か……」
「後悔なぞ、するもの……ですか……」
ぱったりと細い腕が落ちると、ロクサーヌはそれきり長い眠りについたのだった。エトワールが泣き崩れる。
「エトワール……、もう……」
「トムさん、トムさ……うぅっ……」
エトワールはトマス=ハリスの胸に飛び込んだ。彼らは二人とも地面に膝をついていたが、泥濘さえ今は気にならなかった。力なく倒れそうなエトワールの体を支え、トマス=ハリスは彼女の黒衣が雨ではないもので濡れていることに気がついた。
「エトワール、まさか……」
「トムさん、抱きしめていてください。強く、抱きしめて……。愛しています、心から。どうか、わたしを……」
「エト! そんな場合じゃない、早く手当てを……!」
「いいんです。もう、いいの……」
「いいわけがあるか!」
トマス=ハリスは怒りのあまり怒鳴っていた。エトワールの体が震える。
「すまない……。ほら、オレに掴まって。すぐに連れていく」
「お願いが、あるんです」
「いいよ。何でも叶える。だから、頑張ってくれ、諦めないでくれ。エトワール、すぐに誰かが治療してくれるからな……」
「トムさん……、トムさん、こっちを見て……? お願い、最後に、キスしてください……」
「っ……!」
エトワールはふんにゃりと微笑んだ。いつになく涙に濡れた顔で、いつものように。トマス=ハリスはあふれだす感情をとどめようと眉間に力をこめた。彼はこのときほど、自分の顔の造りに感謝したことはなかった。どうやっても薄く笑っているように見える自分の顔が大嫌いだった。真面目なときも、怒っているときも、いつだって自分の感情の通りにならないこの顔が大嫌いだったのだ。だが、今は……。
彼女には笑った顔を見せていたかった。こんな傷を負って、瀕死でありながら微笑んでくれる彼女だから。
トマス=ハリスは、立ち止まると膝をつき、エトワールの体をかかえ直した。彼女が苦しくないように、足を下ろして肩と腰を支えてやる。
「ありがとうございます、トムさん」
「エトワール、きみを愛している……」
「嬉しい……。わたし、ずっと、夢見てました……。その言葉を、ずっと、待ってたの……」
「エト……」
二人の唇が重なる。
「エト……!」
トマス=ハリスは己の無力を嘆き、エトワールを抱きしめた。