罠
木々の生い茂る小径を抜け、鐘つきの塔へとジェレミアは急いだ。表の道を行かなかったのはわざとだ、何が起こっているのかを探るためである。しかし、肝心の塔の周りには誰の姿もなく、気配もなかった。ジェレミアは首を傾げたが、もしや中で待っているのかと思い、戸板もない入り口から声をかけつつ薄暗い建物の内部へ足を踏み入れた。
「隊長、いらっしゃいます……っ!!」
潜んでいた人物に気がついたのは、すでに突き出された杖に触れ、体の自由がきかなくなってからだった。脳裏に閃光が走り、意識が灼き切れるような衝撃と痺れ、それには覚えがあった。気絶しそうなのを何とか踏ん張り、銀の杖を押し当ててきた者の正体を見ようとするジェレミア。そこにいたのは意外な人物だった。
「なぜ……だ……、答えろ、ヨックトルム!」
「はっ、リスタールか!」
鎧を脱いだ軽装で暗がりに身を隠していたヨックトルムは、一撃を受けても立っているジェレミアを見て舌打ちした。そして腰のベルトから短剣を音もなく引き抜くと、まだまともに動けないでいるジェレミアを突き刺した。刃は急所をずれ、左のわき腹に吸い込まれた。わずかにでも躱そうと身を捩ったおかげだった。
「うっ……!」
「本当ならラペルマを殺して、それを見つけたお前の間抜け面を眺めるつもりだったのになぁ!」
ねっとりとした笑いを浮かべながら、ヨックトルムはジェレミアに突き立てた短剣をひねった。ジェレミアの口から、たまらず悲鳴が漏れる。鮮血が滴り、石床に複雑な文様を描いた。それを見たヨックトルムは歪んだ笑みをさらに深くする。
「最初から気に入らなかったんだよ、お前ぇ。いつもいつも俺の粗探しばっかりしやがって!! くそ、くそ、くそっ! 死ね、死んじまえ!!」
「………………」
刃をひねるよりも刺す方が気分が良かったのか、ヨックトルムは執拗に短剣を抜き刺しした。引き攣ったように笑いながら、何度も、何度も。血に濡れる直刃は隕鉄より鍛え上げられた、気を断ち術を阻害するものだった。反撃しようにもそんな物が体内にあっては黒術が使えない。いや、よしんば術を行使できる状態だったとして、朦朧とした状態で刃を何度も受けているのだ、痛みと混乱で術の構成など不可能だったろう。言葉にならない吐息が、血糊と共に無抵抗のジェレミアの口から吐き出された。
ずるりと力を失い倒れた体が、重い音を立てて地面に沈む。ヨックトルムのらんらんと光る目玉と荒い呼吸が凶行に及んだ後の言い知れない興奮を物語っていた。
「……このままここで寝てろ。苦しんで死ね。どうせ、誰もここには、来ない……!」
額に浮かぶ大量の汗を拭いつつ、ヨックトルムは嘲笑した。見下ろした赤毛の青年は身動きひとつしない。まるで汚いものに触れるかのように、長靴の足先で肩を強く押して転がすと、ジェレミアは短剣を腹に生やしたままか細い呼吸を繰り返していた。
「ふん……」
ヨックトルムは一瞬、とどめを刺すべきか迷った。だが、結局は自分の手に付いた血の始末の方を優先した。急いで戻らなければ鎧を着ける時間が短くなるばかりだ。疑いの目を避けるためにも、素早い行動が必要だった。
「安心しろ、すぐにラペルマもお前と同じ場所へ送ってやる。兄弟がいれば、寂しくないだろ? あの生意気な女も、今頃は……」
憐憫のつもりなのかそんな言葉を嘯いて、彼は死に体の青年に背を向けた。塔の出入り口に手をかけ、もう一度だけ振り返る。そして、満足げな笑みを浮かべると日差しの中に足を差し出した。
フレデリックは窮屈そうに首の布を指先で調節した。その指も今や流麗だがどこか武骨な手甲に覆われている。観客席に目をやると、フレデリックの家族が総出で最前列を陣取っていた。
「参ったな……」
誰にでもなく呟くと、フレデリックは腰の短剣がきちんとあることを触って確かめた。それは以前にジェレミアに渡していたガルムの紋章が入ったもので、鎧とひと揃いになるものだ。家族が観戦に来るとは思っていなかったフレデリックに、ジェレミアは肌身離さず持っていたそれを返してくれたのだった。フレデリック自身は、ジェレミアの短剣をまるで聖典と同じような扱いで丁重に飾ってあったためにすぐさま再度交換するわけにはいかなかったのだが……。
「ジェレミア……」
別にフレデリックの勝利を祝ってのことではないが、ジェレミアの口づけを受けているこの短剣である。フレデリックはそのときのことを、ついでジェレミアの唇を奪ったときの甘き想い出に浸った。
だが、そんな至福のひとときを邪魔するように、鎧姿の若者が金属音を立てて通りすぎていく。何かがあったようだ。フレデリックが耳を澄ますと、どうやら彼の対戦相手である第四分隊の長、ヨックトルムがいないらしい。このまま不戦敗になるのではないかとまで囁かれている。
(ふむ……、私としてはどちらでも構わないが。しかしいつもジェレミアに絡んでくる嫌な奴だったはず。ならば、ジェレミアの目の前でやっつけてやれば……)
『フレデリック! ありがとう……。すごく格好良かった!』
フレデリックは己に感謝し、抱きすがってくるジェレミアを想像して悦に入った。本物のジェレミアは絶対にそんなことはしないが、いかんせん妄想の中だ。ジェレミアに着せる服装も言わせる言葉も思いのままだ。
表面上はきりりとした男らしい様子でいながら、頭の中で甘ったるいことを考えていたフレデリックは、トマス=ハリスの呆れた顔がすぐ目の前に迫るまで全く気がつかなかった。
「うわっ、トム!?」
「……起きたか。なに考えてたんだよ、ええ? フレディちゃんよ~!」
「べ、べつに大したことじゃない……!」
「いやらしい顔しやがって」
「なっ!? そ、そんなことはない!!」
お見通しである。尚も言い訳を並べようとするフレデリックを制止し、トマス=ハリスは聞き捨てならない言葉を発した。
「ジェレミア知らないか? アイツ、結局オレの試合見に来なかったんだよなぁ。そりゃ、ロクフォールたちとは被ってたんだが。でも一度はオレの方へ行くとあの二人には言ってたのに……」
「おかしいな。義理堅いジェレミアが行くといったのに姿も見せないなんて考えられない」
「だろ? 伝言も残ってないし、そもそもどこへ行ったか誰も見てないんだ」
「……第四のヨックトルムも、戻っていないらしい」
「……ヨックトルムと、ジェレミアが? まさか……」
トマス=ハリスの顔色が曇った。フレデリックは自分もまた似たような表情をしていることに気がついていたが、迂闊なことは言わなかった。
「とにかく探そう。もしかしたら、隊舎や聖堂の方にいるのかもしれない」
「そうだな。だが、お前さんは試合が……」
「構うものか。ジェレミアが戻らず、ヨックトルムだけが帰ってきたとなったら、私は奴をどうするか分からないぞ」
「わかった。なら、行こう」
「ああ!」
言うが早いか、二人は鎧を激しく鳴らしながら走り出していた。会場の人込みを抜け、聖堂の方へ向かう。途中途中で他の選手や見回りの聖堂騎士に聞きながら、何の手がかりもないまま人気のない聖堂の側、鐘つきの塔のあるあたりまでやって来てしまった。
「なっ!?」
まず異変に気がついたのは、目の良いトマス=ハリスだった。そこに倒れていた人影は……明らかに死んでいた。