騎士、落ちる瞬間を知る
ちなみにジェレミアを言いくるめるのは、とても簡単だった。
「不治の病でもうすぐ死んでしまうお嬢さんが、大変お世話になったお祖母ちゃんへ最期のお別れがしたくて、危険を承知でここまで旅してきたんだ。死んでも良いつもりで、家族には置き手紙を遺して……。可哀想だろ?」
ゆっくりと、じっと目を見てそう言えば、ジェレミアは雷に打たれたような驚きの表情になった。
こんなベタベタの嘘を信じて涙ぐむなんて、こいつは本当に善人だ。こんな奴を騙すなんて、本当に心が痛むなぁー。ロクフォール、顔を白くしていても構わんから、口裏だけは合わせてくれよな。
そして。ジェレミアを言いくるめ……もとい説得が上手くいったおかげでエトワール嬢は“風の墓所”まで行く許可を得ることが出来た。嬉しそうにはしゃぐので、でっち上げた設定を忘れないよう釘を差す。
全員二列になって崖まで向かうことになった。ベイジルが先頭を務め、オレとロクフォールが殿だ。騎士道精神を遺憾なく発揮したジェレミアにより、エトワール嬢は安全に、そして流暢なガイド付きで“風の墓所”まで辿り着いた。
にこにこしている彼女が心なしか迷惑そうなのはオレのやっかみだろうか。ジェレミアは女になら誰にでも優しいが、それにしたってエトワール嬢に構いすぎじゃないのか。……何を考えてるんだオレは。
あんまり久しぶりに命の危機とやらに陥ったせいで、頭がどうかしているらしい。
オレは頭を冷やすために“墓所”の突端に立った。
名前の由来通り、ここは風が止まぬ時はない場所だ。先端に立って見渡すと、延々と続く緑の海に圧倒される。下までの正確な高さは分からないので想像するしかないが、落ちたら二度と戻れないだろうとは確信がある。道なき崖を登ってきても、突き出たこの場所が鼠返しのようになっているせいで上に辿り着くのは不可能だ。
しかも突端の両脇には、平らかな他の場所との境目に死者を葬るための斜面があり、これは長年の使用によってツルツルした固い面になっている。ここに間違って足を置くとそのまま堕ちて運んできた死者と同じ場所で眠ることになる。そのため、風葬の際には必ず柵に綱を結びつけて命の確保をするのだ。
「トムさん!」
「お嬢さん……」
弾む声にわざとゆっくり振り向くと、後ろで手を組んだ彼女は頬を膨らませていた。大人びた格好に不似合いな子どもっぽいしぐさ、そのアンバランスさが仕舞い込んでいたはずの名もなき心をくすぐってむず痒い。
訳もなく反発したくなるような、酷いことを言って彼女を傷つけてその反応を見たくなるような、そんな出鱈目で短絡的な後ろ暗い望みがちらちらと蛇のような頭を覗かせる。
「エトワール、です。そう呼んでくださるんでしょう?」
口を尖らせて彼女が言う。オレはその声にはっと物思いから覚めた。
「そうでしたね。……それが本当の名なら、自分は貴女をそう呼びましょう」
「っ! ……本当の名です!」
エトワールは一瞬、とても傷つけられた表情をして息を飲むと、怒りに目を煌めかせて抗議の声を上げた。
「それは、申し訳ない。ただ、さぞ名のある家柄のお嬢さんでしょうに一向に家名を名乗られないので、身分を偽りたいのかと思いましたので」
「……確かに、家の名は明かしたくありません。けど……、意地悪です!」
「そうですね、確かに意地悪でした。申し訳ありません」
「……ちゃんと謝ってください」
「この顔は生まれつきで、これでも真面目に謝罪しているんですよ」
言葉で侘びて頭を下げても、彼女の怒りはすぐには解けなかった。それはひとえにオレのこの垂れ目と歪みのある頬に起因する「ニヤケ面」にあるようだ。教会の学舎でも散々言われたが、何をどうやってもふざけているようにしか見えないので、導師様や同窓の学徒には諦められたし、オレ自身諦めている。
とはいえ……。
オレの意思じゃないが彼女を傷つけてしまい、また怒らせてしまった。ちょっと頭の片隅で邪な考えを抱いただけで、実際にはやるつもりのなかったことだ。確かに怒った彼女は魅力的だ、だが、わざとじゃない。本当だ。
「どうしたら許してもらえますかね?」
「まぁ。では、騎士の流儀で許しを願ってみてくださる? わたしがお姫様で、貴方が騎士様ね」
「……へいへい」
意識せずとも自分の顔に笑みが浮かぶのが分かる。ずいぶんと可愛いことを言うんだなと思ったのだ。苛烈な戦闘中の彼女からは到底考えられないが、本来のエトワールという少女はやはり歳相応にふわふわした夢見がちなところがあるんだろう。
オレはエトワールの前に膝を折った。見上げてその左手を取れば、その細い喉をこくんと鳴らして頬を染める少女の姿があった。
「姫様……。どうか私の無礼を、お許しください……」
「!」
旅行用の手套の上からその左の掌にそっと口づける。そしてそのまま唇で手首までを辿り、素肌に触れた。唇に滑らかな絹のようにしっとりした感触が伝わってくる。
「貴女の愛という水がなければ、私の胸の白百合は萎れて枯れてしまうでしょう。ああ、もし私に死ねと言うならば、どうぞその怒りをぶつけてください」
「ゆ、許します! だから……!」
「お許し、有り難く存じます」
「!?」
終わり、とばかりにさっさと立ち上がれば、さっきよりもぷんむくれたエトワールと目が合った。
「……からかったんですね」
「やや、そんなつもりは」
「酷い。確かにわたしは貴方に比べたら子どもっぽいでしょうけど……こんな風に……」
彼女の目に珠のような涙が浮かぶに至って、オレはひどく焦った。
「ま、待って、待ってくれ。泣かないで……」
「だって…」
「いやいや、師匠の真似をしたは良いものの、恥ずかしくてさっさと切り上げてしまって、あんな終わり方して悪かったと思うよ。すまない!」
「…………」
ええい、なんでオレがこんな風に謝らなきゃいけない! しかし泣かせたのはオレだし……いや、そもそもあんな恥ずかしいことを頼んできたのは……
「トムさんの、お師匠様?」
「そう! 物語の中の騎士みたいな、オレが知っているうちじゃ一番強くて立派な騎士だったんだ」
オレは渡りに船と、直ぐさまこの話題に飛び付いた。
師匠は凄まじく強くて格好良い、漢の中の漢だ。それと同時に女と見たらとりあえず口説いて、年がら年中女が絶えたことのない、ある意味大馬鹿野郎だったわけだが。
「素敵……」
「や……、うん、まあ……」
「トムさんの、さっきのやり方もお師匠様に習ったの?」
「えっ。あ、や……見て覚えてたというか……。今まで使ったことないぞ、あんなやり方」
「ふふっ。そうなんですか?」
「あ、ああ……」
笑った。
笑うと大人びた印象が壊れて幼い少女の顔を見せる。最初はせっかくの美人が台無しだ、なんて思ったこの笑顔も、慣れたらそう悪くないかもしれない。
髪がくしゃくしゃになるくらいに頭を撫でてやりたいが、きっと怒るだろう。それに、こんな貴族のお嬢さんにすることでもない、か。
「あ……」
そのとき、一際強い風が吹き付けてきて、彼女の髪をなぶった。戦闘のせいもあり、編み込んだ黒髪は今にもバラバラになってしまいそうだ。
オレは彼女に何かを言いかけた。
喉まで出かかった言葉が何だったかは思い出せない。
エトワール嬢は片手で髪留めを外すと、三つ編みを指でほぐして風に流した。靡くヴェールのような黒髪と、うっとりとした表情で向かい風に身を任せる彼女の姿が、なぜか色濃くオレの心に焼き付いた。
「来られて良かった……」
「え?」
「ありがとうございます、トマス=ハリスさん。わたし、今日のことを忘れないわ」
エトワール嬢は深い藍色の瞳をオレに向けた。
「きっと二度とは来られないでしょうから。ここのことを思い出すたびに、貴方に側に居てもらったことも記憶から呼び起こすことになるのね」
「そりゃあまた、大層な……」
「いいえ。大切な宝物だわ」
「…………」
この面映ゆさを何と表現したら良いのか、オレは言葉を持たなかった。そして、次の彼女の台詞にも、何と答えたら良いのか分からなかった。
「また貴方に会いたい……。だから、お願いです、わたしのことをどうか探さないで……」
不可思議な台詞のあと、彼女は何とも器用に手梳で髪をまとめ、うなじで丸めて髪留めを付けていた。
墓参りが目的というのは嘘ではなく、簡単な祈りを捧げた彼女と付き人たちは復路をオレたちに送られて人里まで下りた。先程襲われた休憩所は通らない。選んだのはなだらかで歩きやすい道だ。
これから彼女たちは聖堂教会でお小言を頂戴して、まぁ少なくない罰金を支払うことになるだろう。そうしたら来たときと同じように、遠い遠いアウストラル王国へと帰っていくのだろう。
それにしても……。
「また会いたい」と言ったのに、「探さないでください」とはまた、どういう意図で言ったのだろうか。気になるじゃないか。
これがオレの気を引くためにわざと反対のことを言ったのならば良い。だが、本当に探してはいけなかった場合はどうする?
いやいや、そもそも「彼女が」オレを好きなのであって、「オレが」彼女を好きなわけじゃない。どうしてオレが気にしなくちゃいけないんだ!
だというのに、彼女が西部大森林を後にしてからこちら、オレはどうにも仕事に身が入らないのだった……。