白と黒 その2
今回も同性愛的表現があります。読み飛ばしても大丈夫な内容ですので、苦手な方はご注意ください。
なお、執着愛というか、精神的グロというか、重い内容が含まれます。すみません。
聖堂を照らすのは赤々と燃える篝火だと決まっている。王都では持て囃される魔力のこもった晶石の明かりは人工的すぎると嫌われているからだ。だからというわけではないが、聖堂には不寝番として聖堂騎士が詰め、まめに巡回している。蝋燭の小さな灯りだけを頼りに、ジェレミアが聖堂の「祈りの間」へ入っていったのを見届け、フレデリック・ガルムは小さく溜め息を吐いた。そしてそのまま柱の陰に身をひそめ待った。
巡回当番の者が訝しげに視線を向けてくるのを、手で追い払う。ジェレミアは誰かと待ち合わせしているのだろうか、それともただ祈りに来たのか。
「リスタールじゃないか、こんな時間にどうした?」
「少し、考えを整理したくて。お邪魔ならまた機会を改めます」
「いやいや。どちらかと言えば邪魔は俺の方だろう。……よかったら、話を聞くぞ?」
「ありがとうございます、隊長」
ジェレミアの話し相手は隊長だった。だが、最初から示し合わせてというわけではないらしい。アレン・ブノワ隊長は面倒見がよく多くの隊員に慕われており、副隊長たちに仕事を押し付けるところを除けば、理想的な隊長と言えた。フレデリックは、いけないこととは思いつつ、壁に寄って二人の会話に集中した。
「実は……」
「うんうん?」
ジェレミアが深く思い悩んだような声で打ち明けようとしていると言うのに、隊長の方にはまるで面白がっているかのような軽さがある。フレデリックは苛立ちを抑えこんだ。
「ある者から愛を告白されたのですが、どうしたら良いのか、分からないのです」
「ほうほう!」
「そのとき、こんな風に言われました。きみは愛を知らない。愛を理解できないのだ、と。彼の言うとおりです、僕には、誰かを愛することなんてできない!」
「…………」
「誰も……愛したことがないんです……」
ジェレミアは辛そうに絞り出したような、かすれた声でそう言った。
沈黙の帳が下りた。
「俺には、そうは見えないんだがなぁ……。なぁ、リスタール、お前はいつも隊の仲間と楽しくやっているじゃないか。あれは、もしや演技なのか?」
「違います! 絶対に、違います……」
「だよなぁ! 良かったよ。うん、なら、それで良いじゃないか」
「え?」
「家族を愛し、友を愛す。そんな風にひとを愛せるお前が、悩む必要あるのか?」
「しかし……。しかし、求められているのはそんな関係じゃないのです。鳥が恋を歌い、命を繋ぐように、死が二人を分かつまで共にあるようにと、そういう愛の形を望まれているのです。最初は、相手が同じ男だから、肯定できないのだと思いました。
でも違った、僕は、家族のように愛することはできても、ただひとりの相手として誰かを求めることができないと、そう理解したのです。僕は……不完全です」
フレデリックは思わず身を乗り出していた。こらえきれずに打ち明けた想いが、ジェレミアを苦しめていたのだと、ようやく気がついたのだ。それは普段の彼からすれば遅すぎるほどであった。それも仕方のないことだったのかもしれない。ずっとひとり募らせてきた愛を伝えることができたのだから。だが、フレデリックはその愛を身勝手なままに押し付けただけでなく、「愛されていることに気がつかない君が悪いのだ」とその愛を盾にジェレミアを詰り、気高く強い彼の内側の柔らかい部分を抉ってしまったのだろう。今や鮮烈な若獅子の姿はなく、ただ傷つき己を見失いつつある美しい青年がいるだけだった。
フレデリックの心臓が、勢いよく熱い血潮を送り出した。それは歓喜ゆえに。
手の届かない憧れの存在だと思っていた騎士が、あのジェレミアが、傷つき、脆さを表に出している。そう、そして彼を引き摺り下ろしたのは誰あろうフレデリック自身なのだった。涙こそ流していないものの、白皙の美貌を彩る紅き唇を噛み締めたジェレミアは美しかった。そうさせているのが自分なのだという事実に、よりいっそう興奮する!!
すべては壊れやすいからこそ尊いのだ。誇り高いあの男を、「お前は不完全だ」と罵り、その虚勢を剥ぎ取ってやりたい。大地に捩じ伏せ、あの輝く鎧を泥で汚し、心を折って支配してやりたい。そんな願望があふれ出しそうで、フレデリックは己の手の甲の皮膚を強く噛んだ。隊長がいなければ、すぐにでも出て行ってジェレミアを組み敷いているところだったろう。愛を知らぬというのなら、教えてやればいいのだ。繰り返し快楽を与えて、最後には「愛している」と言うようにさせてやるものを……!
そんな体の奥から突き上げてくる欲求を、フレデリックは完全に御した。もとより、そのような妄想を現実にするつもりはないのだ。ただ、理性という名の楔が外れかかっただけである。フレデリックは甘美なる幻視を追い払い、続く二人の会話に傾聴した。
「不完全だなんて、それはちょっと自分を責めすぎだろう。いつからそんな風に考えていたんだ……」
「わかりません。でも、これはきっと生まれつきなんだと思います。母もそうだったのだと、聞きました。誰も愛することができなかったから、愛してくれるというひとを選んだのだ、と。だから、愛していると言われたら、もしそのひとが立派なひとだったら、そのひとに忠誠を誓いなさい、と。愛することはできなくても、役目を果たすことは出来るのだと言われました。
……でも、僕にはそれが、誰でも良かったと言っているように聞こえてしまって。父に求愛されたから、数いるうちの求愛者の中で父が家柄も立派で、資産があったから、だから受け入れたのだと言っているように思えたんです」
淡々とした独白。だが、それはあまりにも寂しい内容だった。ジェレミアが親元を離れたのは七つか八つだと聞く。ならばいったい、いくつのときに諭されたというのか。
「そのせいで、愛が信じられなくなったとか?」
「いいえ。愛することのできない、そういうことに心が全く動かない自分のことが嫌いなだけです。女性が困っていたら助けたいし、話をするのも好きです。ですがやはり……」
「俺は、別にいいと思うけどな。結婚して、子ども作って、それだけが人生じゃないだろう。一緒にいたけりゃ側にいるし、ひとりがいいならそうするもんだ。ただ、恋愛っていうのは相手がいるもんだ、相手のことを第一に考えようぜ。無理なら無理で、そう言ってやるのが親切だ」
「………………」
「なんだ、期待に応えられないのが、怖いのか?」
「……はい。僕は子どもの頃から、何をやらせても駄目だと言われ続けて育ってきましたから。幼少期から優れた素質を見せていたのは、僕の兄やラペルマであって、僕は……」
「馬鹿言うな!」
「!」
隊長の一喝に、ジェレミアばかりか盗み聞きしていたフレデリックまで身をすくませた。冷え冷えとした空気を吹き飛ばすように、ブノワ隊長の大声が「祈りの間」に響き渡る。
「過去がどうだろうと、今ここで分隊を任されてるのはお前だろうが! お前が努力したからだろうが! 部下にも慕われているし、同僚の信頼も厚い、それはお前が良い奴だからだ!
卑屈になるな、前を向け。家族を、友人を大切にできるお前だ、恋愛がダメならダメで、仕方ないだろう。それがお前なんだ。後は相手がそれでもいいと言うか、無理だって言って去るかだ。精いっぱい大切にしてやることしかできんだろうが、それも、愛だ!」
「隊長……」
「もちろん、たくさんの女の子を一度に愛するのも愛だ!」
「隊長?」
ブノワ隊長は腰に拳を当てて高笑いした。最後の最後で締まらない、それもまた彼だった。
「そうだ、俺はてっきり、お前が仕事の人間関係で悩んでいるんだと思っていたんだ。今日か明日あたり、ここに来るんじゃないかってな」
「いえ、特になにもありません」
「第四のヨックトルムと上手くいってるか?」
「摩擦はあります。僕としては時間をかけて解決するしかない問題だと認識しています」
「じゃあ、向こうにも聞いてみるか……」
実際には、ジェレミアの考えているよりも第三と第四の亀裂は大きい。隊長もフレデリックも、ヨックトルムの態度は問題だと思っているが、現状は「何事もない」ために、ヨックトルムとジェレミアに異動を勧めることしかできないのだが、両者ともそれを断っている。いっそもっと上から辞令があれば話は早いのだが、その上申は無視されていた。
「何かあれば、いつでも言えよ。というか、我慢する必要ないぞ? お前、あいつをどう思ってるんだ」
「はい、ヨックトルムは優秀な男です。自分の部下以外には冷たい部分がありますが、それも成長すれば消える部分だと思います。今はまだ、分隊長になって日が浅いですから」
「ふーん。その言葉、間違いないか?」
「はい」
「ん。なら、行って良し!」
「はい!」
「あ。すまん、間違い! オレが行くわ」
「はい?」
「じゃあな、リスタール」
「ありがとうございました、ブノワ隊長」
ブノワ隊長はゆっくりした足取りで「祈りの間」を出ていくと、隠れていたフレデリックの肩を叩き、闇の中へ消えていった。フレデリックは隊長の無言の激励を受け、ジェレミアへの想いに決着をつけるべく、断罪を待つ罪人のような厳粛さで明かりの下へ姿を現した。
「ジェレミア」
「フレデリック! もしかして……」
「ああ。すまない、すべて聞いていた」
「そうか」
ジェレミアは怒りもせず、ただじっとフレデリックを見つめ返した。言葉を発することなく、一歩一歩、フレデリックは距離を詰めていった。ぶつかる寸前まで側に寄っても、ジェレミアは退かなかった。まるで彫像のような美しさで立ったままだったが、長い睫毛に縁取られた翠玉の瞳の輝きには一点の曇りもない。フレデリックは一歩退き、ジェレミアの額にかかる柔らかい毛を払いのけた。
「ジェレミア。卑怯な振る舞いで君を苦しめた。どうか私を赦してほしい……」
「僕こそ、期待に沿えずにすまない。聞いていたならわかる通り、僕は本当に愛を知らない人間らしい。だから、きみを愛することができないんだ」
「構わない。いや、本心はそう割り切れたものじゃないが……。受け入れるよ」
「フレデリック……。僕たちは、まさか、これで終わりじゃないだろう? 友人としては、今まで通りに、側にいても構わないだろう?」
「……酷なことを言うね」
「だって、僕は……。友人だと思っていた男にいきなり愛を告げられて、それで断れば友情まで失うのか? これからも同じ職場で、頻繁に顔を合わせるというのに、会話ひとつにも気を使ってきみを避けていかなきゃいけないのか? そんなことなら、僕は……」
「すまない、ジェレミア。私が悪かった! もちろん、君の側に置いてもらえるなら、その方が私も嬉しいさ。お互い、忘れることなんてできないだろうけど、それでも友と呼んでくれるなら……」
「フレデ……」
「だが、ひとつだけ、ひとつだけ約束してほしい。これからも誰も愛さないでくれ。あの言葉が私の愛をはねのける偽りでないならば。どうか、他に誰も君の心に入れないでくれ。
どうか、私を君の一番の友として、その情けを垂れてくれないか? トムよりもこの私を、近くに……」
「だが、トマス=ハリスは友ではなく家族……」
「ジェレミア!」
「…………」
フレデリックはジェレミアの両肩をきつく握った。ジェレミアは戸惑いながらも頷いた。
「嬉しいよ、ジェレミア!」
「待った、友達は唇にキスしない」
いきおい、ジェレミアに迫ったフレデリックの唇を、手のひらが塞いだ。
「ならば、額に。それなら良いだろう?」
「…………そうだな」
「ああ、なんという喜びだろう!」
「……節度は守ってくれるんだろうな?」
「もちろんだとも!! それに私は全くの普段通りだよ!」
「それも、そうか……?」
変わらないことが本当に正しいことなのかなど、フレデリックにはどうでも良いことだった。たとえジェレミアに拒絶されても、胸の想いは消えないのだから、それならば今まで通りに側にいて、ジェレミアを見つめていたかった。それでもきっと、時折ふっと愛の痛みは訪れるだろう。その傷口から血を流すことになるだろう。だが、ジェレミアが変わらないでいてくれるなら、フレデリックはきっとその痛みに耐えられる。
フレデリックは衝動的にジェレミアに愛を打ち明けたことを悔やみ続けていた。黙っていれば、拒絶されることはないのだからと、想いは胸の奥に仕舞っておくつもりだったのだ。だが、エトワールが現れ、フレデリックは動揺した。もし彼女が心変わりしてジェレミアを、ジェレミアが彼女を好きになってしまったら!
結局それはフレデリックの思い違いだったのだが、その心配はこれからも尽きないだろう。だからこそ先んじて、ジェレミアの心に鍵をかけた。誰も、愛さないでくれと。たとえ自分がそこに入れなくても、他の人間も同様に入れないならば、それは勝利だ。ジェレミアに変わらないでほしいと願うことが、彼の幸せを取り上げることだと同義だとしても、フレデリックはそう願う。
脆さは尊さで、不変は輝きだ。
ジェレミアが変わらずに輝き続けてくれるなら、手の中に抱き籠めよう。だが、彼が変わるときがくれば、そのときは……その脆さが命取りになるだろう。




