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帰還 上

 朝の目覚めは、泥沼から足を引き抜くようなものだとオレは思う。ベッドから抜け出すためにはそれ以上の労力と根気を要するのだ。動きたくない、泥の中に埋もれていたい、体はそう主張し、温もりにしがみつこうとする。それでも起きなくちゃならないから、無理やり意識を覚醒させた。


「おはようございます、トムさん。お着替え、ここに置いておきますね」

「んあ。あー、ありがとう……?」

「どういたしまして。お水、飲まれます?」


 ベッドに起き上がり、眠気覚ましに片手で顔を撫で下ろしていると、エトワールがかいがいしく世話を焼いてくれている。こういうのも悪くな……エトワール?


「げっ!? な、なんでここに!?」

「げっ、てなんですか、トムさん! ジェリーさんが入れてくれたんです」

「あんにゃろ……。で、そのジェレミアは?」

「卵拾いのあと、かまどの掃除をしてらっしゃいました」

「へぇ。働くねぇ」

「私も卵を磨くお手伝いをしたんですよ。おかげで朝食にオムレツが付きます!」

「そりゃ豪勢だな。それはともかく出てってくれ」

「ええ~っ?」


 早朝からきっちり髪を結い上げ、黒衣に身を包んだエトワールは、オレの言葉に唇を尖らせた。こちらの方へ体を向け直すと長いスカートの裾が揺れる。オレは敷布に隠してごそごそとズボンを穿きながら文句を言ってやる。


「あのね、オレ今、下着姿なんだけど。こんな時間に男だけの部屋に来ちゃいけないんだぜ」

「こんな時間に、ってもう朝ですよ、トムさん」

「朝だからこそだよ。つーか、隣のベッドにすっ裸で寝る主義の男がいるから絶対駄目! はい、出てった、出てった!」

「そんな、トムさん!」

「ほらほら、もう来ちゃ駄目だぞ」


 オレは上半身は夜着のまま、ベッドから下りてエトワールを部屋の戸口まで追い立てた。エトワールは戸の握り部分を自分の体で隠し、最後の抵抗の構えだ。


「エトワール……」

「わたし、もうちょっと二人でお話し、したくて……だめ、ですか?」

「……駄目。それに話ならいつでもできる」

「うそ! あれからずっとわたしを避けてるじゃないですか!」

「それは……」

「触ったらだめな約束でしょう? わたしを追い出すのは諦めて、わたしとお話し……を……と、トムさん? ち、近い……です……」

「ん~?」


 オレは触れるか触れないかの距離まで彼女に近づき、無遠慮にその可愛らしい顔を覗き込んだ。目が大きく印象的に見えるのは、睫毛が長く、はっきり持ち上がっているからだ。鼻筋はすっと通って滑らか、大きすぎず小さすぎず。口は小さめだが唇は厚く、ぽってりと柔らかそうだ。触れば肉厚な真紅の薔薇の花びらのような感触に違いない。同じように色付いていても、すべすべした頬とは違い、しっとりと吸い付くような……。唇で挟んで、舐めて、吸ってやれば、きっと極上の心地好さが味わえるに違いない。


「や……トムさん……」


 恥ずかしがって顔をそむけるエトワールを、追いかけていって覗き込む。最初の余裕はどこへ行ったやら、今の彼女は真っ赤だった。オレはそっとエトワールの細腰に手をやった。


「んきゃっ!? だ、だめ、だめですよ!」

「なにが?」

「触ったらだめな約束なんですから! その、こ、腰を触っちゃだめ!」

「オレからは触ってもいいし、触ってくださいと言ったのは、エトの方だぞ?」

「えっ、えっ!? そうでしたっけ……?」


 嘘だけどな。彼女は「触ってみますか」と言っただけで、「触ってください」とは言わなかった。


「で、では、その……、ど、どうぞ!」

「うん、また今度な。じゃあね~」

「ふわっ?」


 オレは探し当てたドアノブを回して、彼女を部屋の外に出した。ぶつからないよう、挟まないよう、細心の注意を払って戸を閉め、錠を差し込む。


「トムさん!? ひどい! ひどいです、トムさんのばかぁ!!」


 泣きながら走り去っていく気配がした。エトワールを思ってオレの繊細な胸も痛む。ごめんな。でも、ここは危険なんだ。


「おはよう、トム。ジェレミアはどこへ?」


 ベッドの上にはようやく起きてきた気だるげな美男子が、朝っぱらから無駄な色気を振り撒きつつ、掛け値なしの素っ裸で座っていた。せめて隠そうぜ、フレデリック。






 リリオの街に着いた。ここには先にサーラ嬢とドニが着いているはずだ。オレたちの宿舎も目と鼻の先、旅もこれで終わりだ。


「長かったなぁ」

「君はほとんど何もしてないだろう、トム」

「傷つくな~」

「はいはい」


 クロッコのあの夜から、フレデリックの中でオレは“仲間”ということになったらしく、愛称で呼んでくるようになった。それは全く構わないし、親しくなったってことで嬉しいが……いったい何の仲間なんだよ。認定基準が暗すぎるだろ。


 小さな街なんでほどなくして探し人は見つかった。サーラ嬢はエトワールを目に留めるや走ってきて抱きついた。ツンと澄ました美人が涙でぐしゃぐしゃだ。ドニはあいかわらず無口無表情でのんびりと歩いてきた。


 ペラペラとよくしゃべる彼女の話をまとめると、二人は宿には泊まらずに下宿して日雇いの仕事まで手にしているらしい。これからエトワールがどこへ行くにしても、二人はもちろん一緒なのだとサーラ嬢は満面の笑みだった。


「お嬢様がご無事で本当に良かったです! ありがとうございます、リスタール様。いえ、もう旦那様ですわね! 大聖堂で結婚の誓いをしていらっしゃったんでしょう?」


 その場の空気が固まった。サーラ嬢はエトワールの様子には気づかず、結婚の祝宴をどうするか、新居はどうするかと、ひとりで楽しそうにしゃべっていた。


「サーラ……。サーラ、わたし、結婚していないの。わたしの相手は、ジェリーさんじゃ、ないのよ……」

「……え?」

「だって、だってわたし、言ったでしょう? わたしの好きになったひとは、わたしたちを助けてくれた赤い髪の騎士様だって……」

「え? ですから、あの日、助けに駆けつけてくれた騎士様のうち、赤毛でいらっしゃったのはリスタール様じゃありませんか! お嬢様のおっしゃる通り、すらっとした美男子で……」

「だから、それはジェリーさんじゃなくてトムさんなの! ほら、この方よ」


 サーラ嬢の訝しげな視線が上から下までオレを精査する。まるで屋敷にやってきた客人が、歓待するべきお客様なのか、追い払うべき物乞いなのかを見極めるような顔つきだった。


「サーラ、失礼でしょう?」

「……確かに、赤毛に見えますわね。背もちょうどリスタール様と同じくらいですし。……聖堂騎士、ですものね」

「そうですね。オレとジェレミアはよく似てるらしいですから」

「……どちらの家柄ですの?」

「サーラ!!」

「だって、お嬢様……。こんな野良犬みたいな男……!」

「サーラやめて!」

「まさか、もう結婚……」

「いやいや。オレとお嬢様が結婚なんて、ありえない、ありえない。心配いりませんからね~。じゃ、オレは先に戻るわ」

「待って、トムさん!」

「待て、トマス=ハリス!」


 その場からさっさと立ち去ろうとすると、二人から引き留められた。ドニは狼狽えているし、フレデリックはしかめっ面で、エトワールは泣きじゃくっていた。サーラ嬢だけは顔を真っ赤にしてオレを睨んでいる。……オレが悪いのか?


 そんな中、ジェレミアは冷静だった。フレデリックに馬車を取ってくるように言い、ドニにはサーラ嬢を連れてついてくるように指示を出す。


 「まずは隊長に挨拶に行く。皆、それぞれに言い分はあるだろうが、話はそれからだ」

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