猫のおとしかた
オレ、トマス=ハリス・ラペルマは追いつめられていた。つい今しがた壁が肩甲骨に当たり、完全に退路が断たれた。卑怯だ、よりにもよってこんな、高価な調度品がごろごろ置いてある場所でっ。フレデリックはまだ来ないし、援護は、援護はどこだ!?
「トムさん、わたし諦めませんから。何を言われたって、諦めませんからね」
「う……、だが……」
「わたしの心はわたしのもの、この気持ちを変えることはできないでしょう? これは宣言です。宣戦布告です。何の意味もないかもしれませんけど、言うだけ言っておかないとと思いまして。だから、これから覚悟してくださいね、トムさん」
「待った! 確かに君の気持ちは変えられないし、あれをするな、これをするなとも言えない。言えないが、ひ、ひとつ条件がある……」
エトワールが小首を傾げると、編んで垂らしてある黒髪が動きに合わせて揺れる。髪を結い上げていないときの彼女は、よりいっそう幼さが強調されて見え、強く言えない自分が憎い。上目遣いでオレを見るのは策略なんだろうか、それとも無意識で……?
「条件ってなんですか? 敵前逃亡には死、あるのみですよ?」
「……。んん、何をしてもいいが、緊急時以外にオレに触れるのは禁止させてくれ」
「それはつまり……? トムさんはわたしに触るけれど、わたしは触っちゃダメってことですね?」
「違います」
違わないけど違います。
どうしてそういう発想が出て来るんだろう。
「……触って、みます?」
「フレデリックー! フレデリック、いい加減に戻ってこーーい!!」
色々と限界だったので救援要請を出したところ部屋のすぐ外に控えていたのか、サッと入ってきて助けてくれた。義理堅い友を持ててちょっとオレは嬉しいよ。引き離されたエトワールは文句を言うでもなく、オレと目が合うとふんにゃり微笑ってみせるのだった。
「わたし、馬車でご一緒しても構いませんよね?」
「……ああ、そうだな」
ここで彼女を振り払うわけにもいかない。きちんと目的地まで送り届けるさ。さて、頑丈なジェレミアは昼前には元気になり、宿で昼食を摂って出発することになった。“風の墓所”まではあと四日ほど。夜は小さな聖堂があればそこに泊めてもらって、野宿はなるだけ避けながらゆっくり帰るだけだ。
途中、大聖堂に寄り道すれば、二日ほど到着が遅れてしまう。だが、ここまで来たんだ、知り合いもいるし、挨拶くらいした方がいいだろうか。だが、オレの気遣いはジェレミアに一蹴された。
「馬鹿か貴様は。そんなことしたら…………もういいっ!」
例の夜から、ジェレミアはオレに厳しい。オレとエトワール、オレとジェレミアの組み合わせが駄目ということは、必然的にフレデリックと組むことになる。ノレッジ侯爵領を出たときと変わらず、オレはフレデリックの隣で揺られているというわけだ。フレデリックもジェレミアと二人きりは辛いし、エトワールと一緒では気が休まらないというから、お互いに今の状態が良いのだ。たまにジェレミアが手綱を執ってエトワールがその横に座ったりもする。
「大聖堂、行かないのか……」
「それは……行けば結婚しないといけなくなるからね」
「えっ」
フレデリックが御する馬車に揺られ、組んだ腕を枕にのんびりしていたオレは、びっくりして体勢を崩してしまった。諦めて普通に座ると、フレデリックが「呆れた奴だな」と笑った。
「本来なら、大聖堂に寄って君とエトワールが結婚の届けを出すはずだったんだ。我々はその保証人」
「いつの間に……」
「最初からだ。君という奴は本当に……自分の立場を分かっていないんだな。侯爵から娘を拐っておいて、どうするつもりだったんだ。結婚しなければ、彼女の身はまだ侯爵の物なんだぞ」
「……考えたことなかったなぁ」
「ジェレミアと同じことを言うなぁ、実は双子なんじゃないか?」
「ないない!」
オレは大きく手を振って否定した。フレデリックは笑っていたが、ふっとその笑みを消して溜め息を吐いた。項垂れると黒っぽい髪がさらりと落ちて表情を隠す。
「どうした?」
「君のおかげで、エトワールはジェレミアの婚約者だ。ジェレミアの婚約者……ふふ、その響きだけで口から血を吐きそうだよ……」
「げっ」
「ああ、いっそ私が会場に乗り込んで彼女を拐い、結婚すれば良かった。そうしたらエトワールは君に押し付けて私はジェレミアと幸せになれたのに!」
「おい?」
「ああ! だが駄目だ、あんな仕打ちをした私をジェレミアは許してはくれまい!」
「そりゃまあ、置き去りはなぁ……」
雨の降りしきる夜中に、外にほっぽり出すなんて、普通の人間なら死んでるぞ。聖堂騎士だから、わけてもジェレミアだからこそピンピンしてるだけだ。オレなら三日は寝込んでる。
「勢い、唇を奪ってしまって後悔した。だが私は、私は……!」
「何してくれてんだ、お前ぇ!」
「こらぁ、道の真ん中で止まるな馬鹿者!!」
フレデリックの胸ぐらを掴んだオレの耳に、突き抜けるようにジェレミアの怒鳴り声が響いた。鼓膜がビリビリする。いつの間にか、手綱は離れ、馬車は止まっていた。
戸口から半身を乗り出していたジェレミアは、オレたちを睨んでから車内へ戻っていった。フレデリックも襟と帽子を正して御者としての勤めを果たすべく席に着く。
しかしジェレミア……変態には気をつけろと言ったのに。無防備に唇をさらしてちゃダメだろ。なんで自慢の拳でぶちのめさなかったんだ!
「なんだ、何か言いたいことでも?」
「お前、サイテー」
「ぐぅっ。だが君に言われたくない…!」
「…………」
「…………」
オレたちは無言で旅を続けた。
カルドまでくると、一気に「帰ってきた」という気分になる。幸いにも宿に空きがあって全員が泊まれることになった。もちろん安い所だが。エトワールはむしろ楽しそうだった。
カルドと言えば生意気なお嬢さん、ファラダ商会のキャデリンちゃんがいる。あの子、歯は生えてきたかな。そんなことを思い出しつつ宿先でフラフラしていると、通りかかった女の子の群れに、そのキャデリンちゃんがいた。こちらを見て嫌そうな顔になったので、オレのことを覚えているみたいだ。
「また来たの? しつこいわよ?」
「いやいや、きみに会いに来たんじゃなく、通りすがりだよ」
「そ? 男はみんなそう言うわ」
「はは、強いな。ミス・ファラダ、運命の相手って、いると思うかい?」
「……。そんなものいないわ。女なら崇拝者こそを夫に選ぶべきよ。もし、いるとしたってそれは、愛してくれるひとこそが運命の相手であって、そうじゃないならただの勘違いだわ。さっさと次を探すべきね。……それよりあなた、幼女趣味は治した方がいいわよ」
「違いない!!」
蔑んだ目で見られ、オレはついつい、人目も憚らず爆笑してしまった。女の子たちが蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。しばらくは笑いが治まらなかった。だが、彼女の言うことはいちいちもっともで、さっきから隠れて見ていたエトワールの耳にもちゃんと届いただろう。
「運命の相手なんて、いない。まったく、違いない」
だって、そうだろう? エトワールが運命の相手なら、リアンとのことはいったい、何だったんだ。リアンを愛する気持ちに変わりはない。なら、エトワールに惹かれているのは気のせいだ。エトワールを喪うのが怖いと、心臓が訴えてくるのも……。
(よせよせ、あまり深く考えるんじゃない。考えると、答えが出ちまうからな。答えを出しちゃいけない、いけないんだ……)
店先の腰掛けに浅く座り、組んだ腕を敷いてオレは壁に寄りかかった。ちょっと寝よう。もうすぐ夕飯で、きっと誰かが呼びに来る……。
誰も呼びに来なかった。
トム「誰か来いよ!!」