白と黒
※申し訳ありません。同性愛的表現が出て参りますので、苦手な方は読み飛ばしていただけますようお願い致します。
エトワールの部屋の前でジェレミアはひとり戸に背を預け座り込んでいた。傷心の彼女が夜に抜け出したりしないように不寝番をつとめるつもりだった。長く使っていなかった白術で雨に濡れた体を乾かしたのだが、不十分だったのか肌寒さを感じていた。くしゃみが出てしまう。
憮然とした表情で鼻をすすっていると、見知った顔がやってくるのに気がついた。ジェレミアはふいと横を向いた。そんな様すら愛おしく思え、フレデリックの口許が自然とほころぶ。
「大丈夫かい、ジェレミア」
「……僕は戻らないぞ」
「少し、話さないか?」
「…………」
これではどちらが年上だか分からない。穏やかな笑みを浮かべたフレデリックが手を差し伸べると、ジェレミアはその手を取って立ち上がった。そして錠のかかった室内に閉じこもったエトワールに、外へは出ないようにと言い含めると二人は歩き出した。雨はまだ止んではいなかったが、誰にも話を聞かれない場所と言えば、やはり外庭しかないのだった。【天蓋】が頭上に広がる。透明な力場が雫をはじく。
「どこまで行くんだ」
声をひそめてジェレミアが問う。月も出ない真っ暗な庭。いくら白術の手助けで視えているとあっても、輪郭のはっきりしない据わりの悪さがある。足元の花壇も外界とを隔てる木々も、まるで異形の者たちの住まうという別の次元の物のようで、しんと冷える空気とあいまって薄気味の悪さを感じさせた。
「あっ」
「おっと。気をつけるんだよ、ジェレミア」
「大丈夫だ。それで、どこへ……」
「二人きりになれる場所だよ」
躓いたジェレミアを支え、フレデリックがどこか含みのある笑顔で囁いた。白術が得意である彼はジェレミアよりも明瞭な視界を得ている。有無を言わせず腕を取ると奥の四阿へと歩き出した。
四阿に着いてからしばらく、どちらとも口を開かなかった。ジェレミアは腰ほどまでの高さがある壁に腰掛け、見透せない彼方を眺めている。その鍛え上げられているがすらっとした体躯に、絹糸のように細くクセのある赤髪に縁取られた整った横顔に、称賛の眼差しを注ぐフレデリック。かつてないほど近い距離に二人きり、ジェレミアに想いを寄せるフレデリックは高鳴る胸を押さえた。
どこまでも理想高く、いつも前を向いているジェレミア。出会った頃と同じく、希望に満ち溢れた笑顔が似合うジェレミア。生き生きと長剣を振るうジェレミア。
仲間の援護のため元々不得手であった黒術を鍛えたジェレミアは努力家だ。血も滲むほどの鍛練を重ねて聖堂騎士全体からただ一人だけ選ばれる〈黒騎士〉にも推されるほどの腕前にまでなったのだという。彼はまさに、いや、彼こそが聖堂騎士の精神を体現する誉れのひとだとフレデリックは思う。同じく次代の〈白騎士〉に押されていても生まれつき黒術が得意だったが、聖堂騎士の中で揉まれるうちに白術ばかり使うようになってしまっただけの自分とは正反対だと。
「ジェレミア」
「何故なんだ……」
「え?」
ジェレミアはまだ遠くを見やったままでポツリと呟いた。
「どうしてあいつは、ああなんだ。幸せを拒絶して、ひとりで……。崖っぷちをフラフラ歩いているみたいに、自分の命さえ蔑ろにして。彼女と出会ってからは、変わったと思ったのに! ……彼女こそがあいつを幸せにできる女性なんだ」
「怖いんだよ、彼は」
「なんだって?」
翠玉の瞳を怒りに煌めかせ、ジェレミアが振り向く。フレデリックとしてはもう少し穏やかにジェレミアの理解を得るつもりだったのだが、機先を制され流れが変わってしまった。心の中でトマス=ハリス・ラペルマに謝罪しながら、友人の胸の裡を推測を交えて語る。
「彼は一度、奥さんを失っているだろう? 好いた女性と結ばれる、その歓びも、失う辛さも知っている。だからこそ手に入れることに臆病になってしまうのだと思う」
「リアン……」
「そうだ。彼は間に合わなかったことを、側にいなかったことをずっと悔いているように見えたよ」
「フレデリック、どうして、きみがそれを……いや、いい。だが、あいつは悪くない。誰も悪くなんかない、あれは不幸な事故だったんだ」
「それでもだよ。誰も悪くないからこそ自分を責め続けた。ある日突然に愛する者の死を味わったんだ、その悲しみはとうてい言葉では言い表せないだろう。エトワールと夫婦になったとして、彼女もそうならないと誰が言える?
手にすればなおのこと、失う恐怖ばかりを考えてしまうというラペルマの言葉は正しいよ」
「だったらエトワールはどうするんだ! 彼女が辛い旅にも耐えてここまでついて来たのは全て、トマス=ハリスを愛しているからだ。結婚話をぶち壊して拐っておいて、それで後は勝手にしろだなんてどうしてそんなことが言える!? あいつがエトワールを愛し、真っ当に生きていくのだと思ったからこそ僕は……!」
ジェレミアは苦しげに言葉を切り、項垂れると片手で顔を覆った。フレデリックはそれを冷ややかに見据えた。エトワールに対する辛らつな言葉を飲み込み、代わりに鋭く息を吐いた。
「彼女には悪いと思う。私も彼女が独立できるように少しでも援助なり……」
「冷たいんだな、きみは」
「なに……?」
「どうしてそんなことが言える? 二人は離れるべきじゃないのに」
「彼女に肩入れしすぎだ、ジェレミア。あの娘は君と何の関係もないだろう」
「どうかしているんじゃないのか、フレデリック・ガルム! トマス=ハリスの愛する女性なら、僕にとっては妹も同然だ。そのエトワールを侮辱するのは許さないぞ!」
白と黒、相対する二人は互いに一歩も引かず睨み合う。だが、やはりと言うべきか、先に折れたのはフレデリックだった。
「……私はただ、トマス=ハリスに強要するようなやり方は良くないと言いたいだけだ。エトワールのことも勿論考えているが、それも彼女自身がどうしたいと思っているかにもよる。何も言わずに少し時間をやってくれないか、ジェレミア。私には彼の気持ちが少し分かるんだよ」
「……わかった」
フレデリックの真摯な言葉にジェレミアの表情も柔らかくなった。どちらからとなく握手をし、乱暴な言い方をしたことを詫びる。だが、にこやかにジェレミアが放った言葉がいけなかった。
「それにしても、トマス=ハリスの気持ちが分かるとは、きみにも想い人がいたんだな」
「…………」
「誰だろうな、村の女性か? そういえばダナと仲が良かったな」
「……君だよ。私の想い人はね、君だよ、ジェレミア。君を愛している」
「うん? 僕も好きだぞ? けど、愛していると言うのは、ちょっと冗談が過ぎるんじゃないか?」
「私は本気だ。今までも散々態度で示してきた。君とキスがしたい。そういう意味で愛しているんだ」
「……は。僕は、男だ。キスは愛し合う男女のためにあるんだぞ?」
無言で自分を見詰めてくるフレデリックに、ジェレミアは眉をひそめた。
「理解できない」
「そうか。君は男女がキスをして結婚して、それが正しい形だと思っているんだね。もちろんそうだろう、だが、それとは違う愛の形だってあるんだよ。君だって君の言う正しさからは外れているだろうに」
「なっ、僕だってそのうち所帯を持つぞ。愛する女性を見つけて、結婚して、子どもをもうける。それが求められる形という物だからな」
「そうかい? だったら、なぜそうしないんだい?」
「それは……」
「今まで色んな女性が君の前に現れただろうに、キスどころかデートもしていないじゃないか。言わなくても分かる。生真面目な君のことだ、そういう女性に出会えばすぐに婚約するだろうからね。
任務の厳しさゆえに結婚率が高い聖堂騎士の中で、今まで一度として女性とそういう関係になったことがないのは何故だい? 心を動かす女性に出会わなかった? 一度も? リアンにせよエトワールにせよ、そういう目で見たことが一度もないと?」
「フレデリック……」
「君は愛を知らないんだね、ジェレミア。己の伴侶へ注ぐ愛を持ち合わせていないんだ。はたして君にトマス=ハリスを責める資格はあるのかい?」
「…………」
フレデリックは困惑して目を見開いたまま硬直しているジェレミアを四阿の柱に押し付けると、片手でその目を塞ぎ、唇を奪った。フレデリックの思惑は外れ、ただ触れるだけのその行為は抵抗も反発もなく受け入れられた。苦い数瞬が過ぎ去り、身を離したフレデリックは泣きそうな表情で自嘲した。
「怒ってもくれないんだな、ジェレミア……」
それ以上の言葉も何もかもを拒むようにフレデリックは踵を返し、闇夜の庭へと消えていった。強い風が吹きつけ、ゴウゴウと四阿を苛む。あまりにも色々なことがありすぎて、ジェレミアはまだ混乱し、動くことすらままならない。無体を働いたのは向こうだというのに、何故フレデリックの方が傷ついた表情をしていたのだろうか。
「僕に、どうしろっていうんだ……」
ひとり呟いたその言葉を聞く者は誰もなく、嵐のような暴風に飲み込まれていくのだった。