苦い告白
雨の音だけがオレと彼女の間にあって、まるで薄絹のようにオレと彼女を隔てていた。うつむくエトワールの表情は見えない。どのくらいそうしていたろうか、戻るように告げても彼女は動かなかった。オレと一緒には戻りたくない、そういうことなのだろうなと思った。
頼りなげな細い肩が震えている。今はそれに触れることすら憚られて、伸びかけていた手をぐっと握り締めて引き戻す。
(オレはこの距離でいい。オレには、この距離が一番いいんだ……)
そう自分に言い聞かせて、庭園を抜け、宿への路を足早に辿る。ここからオレが消えればその分、彼女が早く戻れるだろうから。柱に隠れるようにしてエトワールの様子を窺うと、曇天を振り仰ぐ彼女のもとに、ジェレミアが駆け寄るところだった。
……あいつに任せておけば、きっと大丈夫だろう。オレは重い体を引き摺るようにして宿の部屋に戻った。
部屋の戸を開けると、いきなり顔を目掛けて丸まった手拭いが投げつけられた。咄嗟に掴むと、綿織りの柔らかい手触り。不機嫌そうに腕組みをし、壁に寄りかかって待っていたのはフレデリックだった。
「ひどい顔だ。せめて拭いてから着替えたまえ、その後で髪の毛を乾かしてやろう」
「どうして……」
「うん? ああ、私がジェレミアについていないからか。もちろん、さっきまでは一緒だったとも。だから、君が何かやらかしてしまったことも知っている。ジェレミアはノレッジ嬢のもとへ、私は君から事情を聞こうと思ってね。急いで戻ってみれば、君はまだ帰ってきていなかったというわけさ!」
フレデリックは一気に捲したてると、入り口に立ち尽くしたままのオレの前まで来た。責めるようだった口調が一転、穏やかな声でフレデリックは言った。
「とにかく、このままでは風邪をひく。部屋が暖かいうちに早く着替えるといい。話はゆっくりと聞く」
言われてようやく、部屋の中の空気が暖められていることに気がついた。肩に置かれた手に慰めを見出だしてしまうのは、オレの勘違いだろうか。小さく感謝の言葉を呟けば、仕方のない奴だと言わんばかりの微笑が返ってきた。
雨を吸って重くなってしまった上衣を脱ぐのも、その下の衣服を乾かすために吊るすのも、それが当然であるかのようにフレデリックが手を貸してくれた。最前線の金杯騎士団でならいざ知らず、比較的安全な地域に勤める貴族階級出身のコイツがこんなことに手慣れているとは思わなかった。それに、もし尽くすならジェレミアにだけだろうと。
「そんなに不思議かい、私が介助なんてするのは」
「そりゃ、まあな」
「ジェレミアが前線にいると聞いて、実際に勤めるところまでは思い切れなかったが、心構えだけはね……。上下に関係なく助け合わないと、生き残れないのだと。だから、隊を束ねる長だろうと、新入りに長靴の乱れがあれば跪いてそれを直すのだと。頭で考えずにその行動に移れるようでなければ、死地にあって何ができようかと言われたよ」
「……まぁ、実際にあるからな。やらかしちまった新入りの心中は知りたくもねぇけど」
「ジェレミアは迷わない。そしてきっと跪くことを気にしない。彼は気高い、彼こそが騎士なんだ」
「…………」
そんな大したもんでもないんだが。フレデリックの中ではジェレミアこそが理想の極致であるらしかった。そのジェレミアは今、エトワールと何を話しているのだろうか。涙を流す彼女を慰め、あの細い肩を抱いているのだろうか……。
「何があった、ラペルマ。私には何も見えなかったし、聞こえなかった。ジェレミアは私に戻れと言い、自分は彼女のもとへ走ったんだ。あそこで何があった、いったい、彼女に何をした?」
詰問とまでは行かないが、相手が相手であるのでフレデリックの声は厳しかった。エトワールの立場もあやふやなままであるし、そんな状態でもしやオレが彼女に破廉恥な行為を働いたのではないかと懸念しているのだ。
「オレは彼女に触れていない。誓う」
「ならば、信じよう。そもそもラペルマならノレッジ嬢に強要せずとも、その辺の女給をいくらでも好きに……」
「待った! 何だその誤解は!?」
「えっ?」
「え……」
真面目な話をしようとしていたというのに、本当にひどい誤解だった。確かにオレは女の子は好きだし、よく話しかけちゃいるが、それはあくまで女の子との会話を楽しんでるんであって下心はないぞ。泣きたくなるほどムサイ男所帯で働いてるんだ、心が華やぎを求めるのは仕方ないことだろう! そう力説すると笑われた。
「少しは気がほぐれたかな。それで? ノレッジ嬢と何を話していたんだ?」
「ああ、そうだな……。短くまとめれば、そう込み入った話でもないんだ」
寝台に腰掛け、組んだ両手を揉み合わせながら言葉を探すオレを、フレデリックは辛抱強く待ってくれた。背後の硝子窓に雨風が吹き付けているのか、小さく音を立てている。エトワールはどうしているだろうか。
「フレデリック、オレは……どうすれば良かったんだと思う? 彼女はオレを好きだと言った、側において欲しいと。だが、そんなことできやしない。……怖いんだよ、オレは。手に入れてしまえば、喪うことばかり考えてしまうだろう。また喪うなんて、耐えられない! もう二度と冷え切った女の体を抱きたくないんだ!」
沈黙が下りる。
そうだ、フレデリックには詳しく話したことがなかっただろう。今まで、自分からそういう事情を説明したいとは思わなかったのだから。呆れているだろうか、それとも気味が悪いと思っているだろうか? 頭が冷えたオレは、フレデリックに謝罪した。
「…………怒鳴って悪い。だが、オレはっ……、これが正直な気持ちなんだ。それで結局、上手く誤魔化せなかった。エトワールにひどい、言葉を……。いつもみたいに笑って適当なことを言えれば、良かった、のかな」
本当なら、できることなら、オレだってエトワールの側にいたい。ずっと彼女の笑顔を見て過ごしたい。だからこそ、想いを打ち明けずにただ騎士として側にあろうと決心したんだ。だって、触れたら最後、きっと歯止めがきかなくなる。
そしてきっと、後悔するんだ!
触れなければ、彼女を汚すことはない。想いを打ち明けなければ、彼女を傷つけることはない。いっそのこと、愛さなければ、喪う辛さも知らなかっただろうに……。
リアンの笑顔がもう思い出せないんだ。土で汚れた、力ない腕と、決して開くことのない瞼と、亡骸を掻き抱いたときのことばかりが頭に浮かぶ。そしてそれは、エトワールの姿に重なるんだ。
苛立ちを込め、拳を膝に打ちつける。フレデリックが向かい合わせるように隣の寝台に腰掛けた。
「喪うくらいなら、いっそ手に入れなきゃいい、か……」
「フレデリック……?」
「理解できるよ。私もずっと、同じように考えている」
「ジェレミアか」
「ああ。ノレッジ嬢、エトワールには悪いが私は君の味方だよ。ジェレミアが怒鳴り込んできたら、助けてやろう」
「来るか? ……来るだろうな」
そう言っているうちにバタバタと足音が迫り、戸が勢いよく開けられた。頬を朱に染めた、ずぶ濡れのジェレミアがオレと目が合うや否や飛びかかってきた。
「貴様っ、よくもあんな仕打ちを!」
左の拳が耳の下に突き刺さり、オレは床へと叩き落とされた。速くて、重い……。甘んじて受けるつもりではあったが、まさに渾身の一撃だ。歯が浮いたような感覚、折れてなければいいんだが。
「見損なったぞ、トマス=ハリス・ラペルマ!!」
見上げるとそこには、全身から水を滴らせた憤怒の化身が立っていた。




