あめの庭園
クロッコの街では衛士以外は馬に乗れず、馬車も許可のある物以外は乗り入れができないと言われたため、門の側にある預かり所に馬と車を預けた。“森”での暮らしが長いせいか、オレなんかは「保証」という言葉をイマイチ信用できないものだが、フレデリックは簡単に手綱を渡した。
「見ての通り、クロッコは小さな街だ。門壁もせいぜい獣避けくらいの意味しかない。車の通行を制限しているのも混雑や石畳の損耗を減らすためと言われている。その代わり、クロッコの門外で開かれる定期市は税金がかからないためにとても賑わうそうだよ」
男三人で手分けして荷物を持ちつつ、フレデリックの蘊蓄に耳を傾ける。貴族階級のはずの残り二人がとても興味深そうに聞いているのはどうなんだ。習ったりしないのか。
「さて、辻馬車を拾って宿へ行きたいんだが、人力車しか見ないな。いっそあれにしよう」
フレデリックが呼び止めると、大柄な男が上品な車を牽いてやってきた。そしてオレたちをざっと見ると「四人は無理だ」と言った。そんなことは分かりきっている。
人力車は一人乗りの馬車のようなフォルムだが、完全な箱形ではなかった。前面が取っ払われており、柔らかそうなクッションに挟まれるようにして座るのだ。二人ほどは乗れそうだが、本当にこんなものが主要な乗り物なのかと思う。所変われば品も変わるとは言うが。とりあえずさっさと荷物を積み込み、エトワールを座席へ押し上げた。
「えっ、そんな、わたしだけなんて駄目です!」
「けど、ほら、誰かが荷物が落ちないように見てなくちゃならないし」
「そんなこと言って、皆さんは歩かれるんでしょう? わたしも歩きます!」
「まぁまぁ。オレたちも男の子なんでね、こういうときはカッコつけたいんだよ。頼む」
「でもっ」
「オレを車があるのに女の子を歩かせる悪者にしないでくれよ」
「~~~っ、トムさんはずるいです!」
エトワールの頬がまるでリスのように膨れ、思わず笑い出しそうになるのをこらえる。誰もいなければきっと、エトワールの髪の毛をくしゃくしゃにしたり、くすぐって笑わせたりしていただろう。
「生憎と、女の子に言われる『ずるい』は、オレにとっては誉め言葉なもんで」
「もう! 今だけですから。次は絶対にわたしも歩きます!」
「はいはい」
エトワールは座席にちょこんと腰掛けることとなり、オレと目が合うとツンと頭をそらした。その仕草すら可愛い。フレデリックが「そろそろいいかな?」と割り込んでこなければ、ずっと眺めていたかもしれない。
「では、この街で一番浴場の大きい宿に行ってくれ。王族が泊まれそうな所でないと駄目だ」
フレデリックの言葉に思わず振り向くと、呆れたような視線が返ってきた。
「もう逃げ回る必要はないだろう。それに、彼女はご令嬢だ、そういう宿にしか泊まったことはなかったろう。今まで野宿を強いてきて心苦しかった、今日はぜひともゆっくりして欲しい。いいですね、エトワール」
エトワールは曖昧に微笑んで頷いた。ずいぶんと気軽に「西部大森林においで」なんて拐ってしまったが、これはもしかしてやらかしてしまったんだろうか。観光するのと住むのは違うと聞くし……。最低限、湯が貰える宿ならどこでもいいとか思っていた。エトワールがここまで何一つ文句も愚痴もこぼさないから、ついつい甘えていたんだな。
(やばい、フレディがいなきゃ何もできなかったな、オレたち)
オレもジェレミアも、所詮は体を動かすのが得意なだけの馬鹿だ。細やかな気配りなんてしようと思っても行き届かないだろうし、実際にそうだろう。事前の準備を含め、フレデリックには世話になりっぱなしだ。感謝を込めて肩を叩くと、ヤツはちょっと驚いた顔をして、ニヤリと笑ってやり返してきた。本当にいいヤツだ。
「ジェレミア、危ない! 路の真ん中に寄ってはいけないよ。ほら、私の右側においで……」
これさえなければな!!
高級宿での食事は大層美味だったが、居心地は良くなかった。いや、椅子のクッションは充分以上に柔らかいし、さりげない室内楽は耳にも心地好いし、丁度いいタイミングでグラスに注がれた檸檬水は出てくるし。何もかもが至れり尽くせりなので贅沢な愚痴だというのは分かっている。
仕方がないんだ、三人と違ってオレだけが身分違いなんだから。付け焼き刃の礼儀作法でやり過ごす夕食も、窮屈な準礼装も好きじゃない。泊まるためだけにわざわざ服を買うのも借りるのも、正直、二度とゴメンだ。
食後のゆったりした時間を楽しまされていると、目の前の背の低い茶卓にグラスを置いた女給の広く開いた胸元から、ふっと花の薫りがした。目が合うと栗色の髪の美女は悪戯小僧を咎めるように紅い唇を尖らせ、音もなく微笑った。流し目に名残惜しさをこめてくる彼女に、片目を瞑って挨拶すれば、フレデリックの咳払いが邪魔をする。
「ラペルマ……行儀に気を付けてくれ」
「へいへい」
そのまま説教が始まると思ったが、フレデリックは黙った。その視線の先には、ジェレミアにエスコートされてこちらへやってくるエトワールの姿があった。白のブラウスに濃いサフラン色のドレス、黒髪を編んで片側にだけ垂らした彼女は、典型的な田舎風の装いだったが、それがまたよく似合っていた。
野に咲く花のような趣。若さと瑞々しさ。生命というものが彼女の体を通して輝きを放っているような……。その場にいる全員の視線を惹き付けながら、エトワールは真っ直ぐにオレのいる卓へ向かってきた。フレデリックが立ってそれを迎える。礼儀作法ではそうするべきだと、思い至ったときにはすでに彼女が脇にいた。
「トムさん、わたし、散歩に行きたいのです。付き合っていただけますか?」
思わずジェレミアを見て、フレデリックを見ると、二人とも力強く頷いていた。
「喜んで、お姫様」
「トムさんったら……」
オレは彼女の手を取り、ほんのり桃色に染まった指先にキスをした。鈴が転がるような声を立てて笑うエトワール。甘い匂いがふんわりと広がった。
宿の外に出ると、辺りはもう暗かった。星明かりが庭を照らす。刈り込みをされた木々、丁寧に整えられた花壇、薔薇の蔦を這わせた弓型状の金属柵が小路を飾っている。庭を進む間、エトワールはひと言も声を発さなかった。背が大きく開いたブラウスのせいで滑らかな皮膚の下の肩甲骨が、そこだけ別の生き物のように息づいている気がする。蒼褪めたように白いうなじからどうにか視線を切って、オレは彼女の前に回り込んだ。
「エトワール」
エトワールは驚いた表情を一変させ、ぷうっと頬を膨らませた。作り物のような端正な美貌より、こっちのこどものような彼女が好きだ。焦げ付くような欲望とは違う温かさがじんわりと胸に広がる。
「トムさん、ひどいです!」
「え、何が?」
「どうしてわたしのこと、愛称で呼んでくれないんですかっ、もう! あの夜は呼んでくれたのに……。わたし、嬉しかったんです。だから、もっと呼んでください……」
「エト……」
「はい!」
エトワールは、それは嬉しそうにふんにゃりと笑った。その拍子に、髪に編み込まれていたミモザの花がひとさし、抜け落ちてしまう。
「おっと……」
「あっ……」
思わず手を出して受け止めていた。同じくミモザを追って差し出されたエトワールの手がぶつかる。
「ごめんなさ……」
「悪い……」
近くなりすぎた距離。オレは彼女の夜空のような紺碧から目を離せなくなっていた。語るべき言葉も持たないというのに……。不意に、温度の低い彼女の指がオレの手を包み込んだ。
「好きです、トムさん。は、初めて会ったときから、ずっと……。あの舞踏会で、貴方を見たとき、嬉しすぎて夢じゃないかと思いました。トムさん、どうかわたしを、貴方の側に置いてください」
「………………」
心臓が凍りついたのじゃないかと思った。
遠くに雷鳴が響いている。雨粒が頬を叩いた。
「あ、雨……。やだ、トムさん、戻りましょう。あの、さっきのことは忘れてくださ……」
「オレは」
自分の声がどこから出ているのかすら、わからない。
「オレは君を、愛さない……」
雨が、降り始めていた。