ロクサーヌの章
★お知らせ★
二月はバレンタイン作品を執筆するため、こちらはしばらくお休みさせていただきます。次回からは新章スタートいたしますので、お待ちいただけますようお願い申し上げます。また、活動報告にて小話など不定期にアップする予定です。リクエストなどあればお気軽にコメントくださいませ。
今回はロクサーヌ老嬢の昔語りになります。不快な表現が多々ありますので、ご注意くださいませ。読まずとも本編に影響はございません。
リシャールは生まれたときから泣き声の弱々しい、小さい赤ん坊だった。アンジャルク様はリシャールを一瞥して言った。
「これは駄目だな」
捨て置け、との言葉だった。しかし、わたくしはまだ若く、こんなに小さい、目も開かない赤ん坊が可哀想で見捨てられなかった。いや、もっと正直に言えば、初めて取り上げまで手伝ったこの赤ん坊に愛情を感じていたのだった。
腕に抱いて温めた乳をやり、こまめに世話をした。一日に何度も肌着を替え、手足にはクリームを擦り込み、あん摩してやった。腹這いにして手足をばたつかせるリシャール、初めて寝返りが出来た日……いつもわたくしが側で見守ってきた。
リシャールは利発な子どもだった。わたくしが歌ったり暗誦して聞かせてやったことはすぐに覚え、何度もせがんだ。言葉も早く、また、文字を覚えるのも書くのも他の兄弟たちよりも早かったのだ。だが……、リシャールはノレッジとしては落ちこぼれだった。
まず、リシャールは陽の気しかその身に宿していなかった。しかも魔力量も極めて少なかった。アンジャルク様の見立ては厳しくも正しかったのだ。他のノレッジが多少なりとも陰の気を使える中で、ただ一人満足に術も導けず……。わたくしはこれではいけないと、別の方面からリシャールを鍛えることにした。
まず、白と黒の術を徹底的に覚えさせた。実際には使えずとも理論の組み立てによる術の研鑽や研究はノレッジにとっても重要なものだ。また、魔術にしてもそうだ。魔力に乏しいリシャールには、己の内面世界を踏破することは出来てもその成果を持ち帰り現実に干渉させることは難しかった。だがそれは仕方がないことだ。魔力の不足で何度も失敗を繰り返すリシャール……己の不甲斐なさに泣く小さい肩を抱き締め慰めた。この子は落ちこぼれなどではない、どの魔術をどう用いれば良いのかという理論だけであれば、高位の魔術師並みであったのだから!
リシャールはたゆまぬ努力の甲斐あって、魔力頼りではなくその知識で聖火国の魔導師の位を授かった。成人前の十三の年のことだった。その日、わたくしは本当に誇らしく、リシャールも珍しく白い頬を紅潮させて喜んでいた。だが、アンジャルク様はリシャールを認めようとはしてくださらなかった。
「魔導師の位が何だというのだ。そんなもの誰でも持っておるわ。魔力はやはりそのままか、役には立たんな。適当な女をあてがってやる、子を成してみせよ。それくらいは出来るだろう。それがまた屑だったら……お前の母親の血が悪かったのだろうよ」
リシャールはそれからしばらくの間、部屋に閉じこもって出てこなかった。何度呼び掛けても、返事すらなく。きっとわたくしのことを恨みに思っていただろう。父親と母親のことも。もしかしたら自分自身すら恨んで憎んで、涙を流していたのかもしれない。そう考えるとわたくしの身もまた切られるような思いであり、ハンケチを濡らすばかりだった。
アンジャルク様もアンジャルク様だ、少しくらい息子を気にかけてくださっても良いだろうに。あんな風に切り捨てられては、才能の芽を摘むも同じだ。魔力さえあれば……魔力さえあれば、リシャールはノレッジ随一の魔術師になれるのに。わたくしは自分の余りある魔力が何かの役には立たないかと頭を捻った。元々わたくしはアンジャルク様の奥方たちの予備であったものを、年齢やその他の事情があって教育係として回されたのだ。ならば、わたくしがリシャールの子を成すという役割を担っても良いのではないだろうか。リシャールの頭脳とわたくしの魔力、それが一つになればきっと、最高のノレッジになる!
わたくしはさっそくリシャールの部屋へ行き、開かぬ扉に向かってこの良案を伝えた。きっと、きっと喜んでくれるだろうと思った。やがて扉が開き、わたくしが笑顔で迎えると、何日も食べていなかったリシャールは青白い顔で倒れ伏した。ああ、可哀想に! それから何日もかけて看病した結果、リシャールは健康を取り戻したがどこかよそよそしくなった。
「ロクサーヌの申し出は、嬉しいよ。そんなに私を思ってくれているなんて、すごく……嬉しい。だが、ロクサーヌを道具みたいには扱えないよ。私は父上とは、違うんだ。すまない……」
リシャールはわたくしに背を向け、術の研究にのめりこむようになった。魔術の研究が進まないのだから仕方がないとはいえ、黒術・白術はお遊びのようなもの、ノレッジの目指すところではないのに。これでは逃避だ。リシャールは傷心なのだからと大目に見ていたが、魔導師の位を得るために聖典に触れすぎたか、段々とリシャールの考え方がノレッジから外れていっていると感じたのはこの頃からだった。
一方でわたくしは、魔力さえあれば、という考えを捨て去ることが出来ずにいた。魔力を鉱物に移し、溜め込む研究を始めたのだった。今までにも魔法石という、様々な力を溜め込んだ石が見つかってきた。純粋な魔力も石に宿すことが出来るのではないか、魔力石から魔力を取り出して使うならば、リシャールも「優れた魔術師の父」ではなく「優れた魔術師」と呼ばれるようになるのではないだろうか。子を成すことを断られたのは、リシャールがまだ、魔術師になることを諦めていないからだ。リシャールは、優れた魔術師になれる、そしてアンジャルク様を見返してやれるのだ!
時は移ろい、リシャールが成人する年のこと。アンジャルク様からリシャールの妻としてある女が送り込まれてきた。リシャールより二つも上の十七歳で、裕福な家からやってきたエラという女だ。ひっきりなしの煩いおしゃべり、金のかかる最新の服を着ており、化粧の臭いをぷんぷんさせていた。頭が軽そうで、若く美しかったがそれだけだった。どう考えてもリシャールの好みではない。
可哀想なリシャールは父親が用意した馬鹿女のご機嫌を取るために、研究の時間を削らなければならなかった。彼女の関心は新しい劇や慈善活動で、ノレッジのことも魔術のことも全く知らないのだ。魔術師と魔導師の違いも分からないなんて! さすが、爵位を金で買ったような歴史の浅い輩が押し付けてきた娘だこと。
おまけに友人を呼び寄せて遠足や音楽会に出掛けたり! 一人で行けば良いものをリシャールまで巻き込むのだから……わたくしがリシャールのためにやめさせようとすると、
「まぁ、ロクサーヌも一緒に出掛けましょうよ。貴女は綺麗だから、きっと皆が喜ぶわ!」
だなんて、わたくしを笑い者にしようとして! あの頭のゆるそうな顔を思い浮かべるだけで腹が立つ。屋敷の中にいても庭を歩く馬鹿女の笑い声が聞こえて頭が痛い。しかも恥じらいのないあの女は寝室の中でも声が大きい。まるで娼婦のように喘ぐのだ。リシャールの首に腕を回して、髪を振り乱して……。あの女は毒だ。リシャールには相応しくない!
だというのに、エラはすぐに身籠った。リシャールはこれまで以上に献身的に妻に仕えるようになった。彼女の言うことなら何でも聞いてやり、柘榴が食べたいと聞けば、手ずから口に運んでやる始末。月が満ち、生まれたのは、溢れんばかりの陰の気を持った女の子だった。
子を産んだエラは一時的に命が危うくなり、リシャールがつきっきりで看病した。報せを聞いてやってきたアンジャルク様は、赤ん坊を抱いたわたくしを労ってくれた。
「素晴らしい魔力だ、よくやってくれたな、ロクサーヌ。この娘は今までで一番『ブラン』に近い。子の代には出ず、孫に出たか……。これでようやくリシャールもノレッジとしての面目が立つ。お前も肩の荷が下りたろうな。これからも同じ女との間に子を作れば良いとリシャールに伝えよ」
ブランとは、初代アンジャルク・ノレッジが造り上げたと言われる人間だ。初代は本物の魔術師であった。陰と陽との完璧なバランスを保ち、内面世界はおろか物質界すら思うままに出来たという。性別すら望みのままに変じ、年月に囚われず、その魔力は生き物が持ち得る最高であったと伝えられている。
初代は他の追随を許さぬ超越者だったが、それでも生命を造り出すことは難しかったようだ。初代が造り上げた人間はただ一人、しかも不完全なかたちをしていた。女の性しか持たず、陰の気が強く魔力に恵まれていたが、寿命が短かった。何も知らぬ無垢な少女はブラン、つまりは、空白と名付けられたのだった。その人形は最初のアウストラル国王に贈られた。
どうしてその名誉ある称号を持つ赤ん坊があんな女の腹から生まれてきたのか……。エラが憎かった。本来ならあの場所はわたくしのものであったはずだった。リシャールに愛され、リシャールのためにブランを産んで称賛を、感謝を受けるのはこのわたくしだったのに……! エラなどこのまま死んでしまえばいい。リシャールの子を育て、さらに次の子を産むのはわたくしだ!
ブランが生まれた日の夜のこと、エラの悲鳴に皆が駆けつけると、黒衣の老婆がブランの揺りかごの側に立っていた。
「この娘には辛い旅路が待っていようぞ。子を成し、産めば命を落とす定めだ。選ばせよ。己で選びとる物こそが辛き旅路を和らげようぞ」
そう言って老婆は煙のように掻き消えた。誰もが青ざめ息を飲む中、ブランは、まだ生まれたばかりの赤ん坊なのに声を立てて笑ったのだ。ひどく不吉な温い風が吹いていた。
リシャールによってエトワールと名付けられたブランは、燗の強い子どもだった。母親からの乳しか口に含まず、夜泣きもひどく、手がかかるばかりだった。リシャールはすぐに子を疎んじ、ブランを遠ざけたがった。あの頃はアンジャルク様の城の一角に住んでおり、いささか手狭だったので、その試みもなかなか上手くはいかない。結局、リシャールの生母が暮らす郊外へ移り住むことになった。
エラの体調不良を理由にブランを手に入れたわたくしだったが、この小さい人形は魔物かと思うくらいに暴れた。すぐに奇声を上げ、走り回り、食べ物をこぼした。ずっとわけの分からぬおしゃべりをし、何でも壊したがったし、何にでも落書きをした。教えてもいない黒術を勝手に使うのはもはや当たり前、片付けが追い付かなかった。……可愛いと感じなかったわけではない。リシャールの小さい頃に似ていたし、舌ったらずにわたくしの名前を呼ぶ声は今も耳に残っている。抱き締めれば甘い匂いがした。
だが。昼間はともかく夜は、特に寝る前のブランは手がつけられないほどに泣きわめいた。母親を求めて暴れたのだ。母様、母様と、喉が嗄れるまで呼んで、泣き疲れて寝てしまうのをわたくしが寝台に運んでやっていた。言葉をはっきりと言えるようになったある夜のこと。いつものように寝かしつけようとしたわたくしを、ブランは涙に濡れた瞳で睨み上げてこう言ったのだ。
「ロクサーヌなんか大嫌い! 母親じゃないくせにわたしに命令しないで!」
頭が真っ白になった。ブランが暴れたせいで火かき棒の先端が暖炉の中で焼かれていた。わたくしはそれを手に取り、ブランの剥き出しの腕に押し付けたのだった。つんざく悲鳴が、リシャールの耳にまで入った。彼が慌てて駆けつけたとき、わたくしは下着を汚して気絶しているブランの腕と、火かき棒とを両手に持っていた。狼狽えたリシャールは、結局、何も言わずにブランの腕を治療すると抱き上げて連れていった。
次の日から、ブランはとても大人しい子どもになった。それなのに、わたくしの心は冷えるばかり。ブランがびくつく度に苛立ち、抑えきれずに手を上げてしまうこともあった。段々とエラそっくりになっていくブランに、憎しみのような、裏切られたショックのような、形容できないドロドロした何かをぶつけていた。
ブランに手がかからなくなった分、わたくしの研究は進んだ。銀に術を刻み、魔力を通すだけでその術を導く実験に成功したのだ。まだ一度だけしか上手くいっていないが、理論は完璧だし、実際に成果を出している。何もかもこれからだ。
そうするうちにリシャールの生母が死に、次の子を成す前にエラも死んだ。リシャールは自室に隠りきりになり、もうずっとわたくしから逃げ続けている。ブランは生意気にも口答えするようになり、わたくしへの敵意を隠さなくなってきた。外見と作法、勉学だけは優秀なわたくしの人形だが、いかんせん自我が強すぎる。ブランが成人の年に祝いの言葉と贈り物を持ってきた、アンジャルク様の後継と見込まれているリシャールの弟、リュシアンはブランを見て言った。
「薬でも使え。これは気が強すぎる。持ち主に従えない人形は必要ない」
ブランは何を言われているか分からないといったように口を開けたまま固まっていた。
「どうせ一度胎を使えばそれっきりだからと教育を怠ったのではないか? 男と対等でいるつもりの女ほど見苦しいものはないぞ」
「リュシアン、貴様……!」
「なんだその顔は。実力も弁えずに突っかかればいずれ死ぬぞ、リシャール? 弱者は大人しく頭を垂れていろ」
わたくしが割って入るのと、ブランがリュシアンに花束をぶつけるのは同時だった。リュシアンは顔色ひとつ変えずに花束を黒術で弾き、逆にブランを見えない刃で切り裂いた。山吹色のドレスが血に染まるまで、何度も、何度も。悲鳴はすぐに啜り泣きに変わった。リシャールは床に倒れたブランの横に跪き、不甲斐なさを詫びながら傷を癒やそうとしていた。裂傷の数が多く、白術のみでは完全な治療は望めないと、わたくしも手伝った。
感謝など求めてはいなかったが、リシャールはわたくしに言葉でも態度でも感謝を示してくれた。そして今までわたくしを避けてきたことを謝罪し、わたくしは許した。長い不和は終わった。終わったのだ。
「……エトワールを国王陛下に嫁がせる!? どうしてそんな……馬鹿な……」
リシャールは拒否したが、これは良い話だ。わたくしは懸命に彼を説得した。ブランと引き換えに、この十年程度にリシャールが温めてきた実験の構想、それをアンジャルク様が後押ししても良いと言っていること。これはリシャールが認められるチャンスなのだ、と。
「しかし……、そんなことをすればエトワールは……」
「いずれは誰かに嫁ぐのですよ。早いか遅いか、今ならば王家とノレッジの橋渡しとして、歴史に名を残せるのです。名誉な花嫁ですわ。ブランを嫁がせた貴方が、弟よりも下に置かれるはずがありませんわ!」
「………………」
「リシャール」
リシャールはすぐには頷かなかった。何度も話し合いを持って、ようやく肯定を引き出したのだ。それを、それをあの小娘と赤毛の男が台無しにしてくれて!!
あの夜会が終わった後、わたくしはすぐに追跡をするよう指示した。小賢しくも二手に別れたようだったが、どちらも追えば良いのだ。しかし、ブランがリスタールの城に逃れたとはどうしても思えなかった。朝を待ち、王都方面へ逃げた馬車を追うつもりでいた。
それは、深夜と夜明けの狭間、とうてい人間の起きている時間のことではなかった。王都からの報せは乱暴な足音を伴ってもたらされ、わたくしは偶然にもそれを聞き付けた。王子誕生……本来は朗報だったろう、しかし今だけはそう思えなかった。
「アンジャルク様、わたくしに、わたくしにブランを追わせてください! 必ずや連れ戻します!」
「捨て置け。状況は変わった。リスタールと一戦交えている場合ではなくなったのだ。それに、リスタールなら種として不足はない。後は子を成した後に考えれば良い」
「し、しかし……」
「くどい! リシャールすら御せないお前に、与えてやった最後の機会を逃し、我の顔に泥を塗りおって!」
「お許しを! どうか!」
「追うことは許さぬ。我が命に逆らえば二度とこの城に入ることは許さぬぞ」
「……はっ!」
アンジャルク様はリュシアンを連れて王都へ向かわれた。残されたわたくしは恥辱と怒りに体の震えが止まらなかった。わたくしに恥をかかせたあの仮面の男やリスタールの姿を思い浮かび、耳には客たちの笑い声がまだこびりついている。わたくしのブランを連れ去った憎きリスタール! わたくしの人形なのだ、あれは! リシャールの血を引き、エラにそっくりなあの美しい人形は、わたくしの手元に置かねばならないのだ!
リシャールの栄達のためにも絶対に取り戻さなければならない。リスタールの子を宿していようが、ブランはノレッジのもの……ノレッジになくてはならないのだ、ブランの子ならば尚更、わたくしが、わたくしが、わたくしが……!
風の音が鳴り止まない。風の音が、ゴウゴウと、耳の中で鳴り止まないのだ。ノレッジの教育係を解任するとの通達が来たときも、荷物をまとめてアンジャルク様の城を後にしたときも、なぜかリシャールが馬車でわたくしを迎えに来ている今も……風の、音が……あの峠道の、崖から吹き上げる風の音が、鳴り、止まない!
「ロクサーヌ、帰ろう。もう終わったのだ、なにもかも」
おのれ…おのれ…おのれおのれおのれぇ!! トマス=ハリス・ラペルマ……トマス=ハリス、ラペルマぁ!! あの男だけは殺す。あの男だけはぁっ、絶対に、絶対に殺す! あの垂れ目の雑種めが、わたくしの人形を汚したあの虫けらだけは、殺す……殺してくれる!
「ロクサーヌ、待て、ロクサーヌ!!」
リシャールの情けない声が聞こえたが立ち止まるつもりはなかった。ふふふふふ、あはははは……! 久々に声を上げて笑いたくなってきたわ。待っていなさいね、トマス=ハリス。貴方はわたくしが凍土の泥濘に沈めて差し上げましょうね。