騎士、夜会に乗り込む
それからは地獄の特訓が始まった。たかが数時間のパーティーだと舐めてかかっていたが、正直なところダンスが形になるまでずいぶんと苦労した。男性側がリードしなくてはいけないのだから当然か。遠い昔に少しだけ齧っていたから良かったようなものの、全くの初心者だったらここで計画が破綻していたところだ。
そしてパーティーの当日、ノレッジの屋敷に着いてからの動きを何度もおさらいしながら、オレはジェレミアに礼服の着付けを手伝ってもらっていた。
「ふむ、まあ、良いだろう」
「どうだ、似ているか?」
「どうだろうな。僕もお前も、顔は仮面で隠れるんだ、気づかれようがないだろう」
「そうか。ところでジェレミア、その右の脇の下に何を仕込んでる」
「隕鉄製のナイフだ」
「…………」
「当然だろう?」
当然なのか、それは。ナイフを仕込んでいて当然なのか、隕鉄製なのが当然なのか。はたまた、どっちともなのか……。呆れて見詰めてやれば、誉められたとでも思ったのか、ジェレミアは顔をほころばせた。オレは仕方なく曖昧に頷いておくことにした。
全身が映りこむ大きな鏡が壁に据えられている。庶民にとってはそれ自体がひと財産だ。そこに偽者と本物を並べて、どこが違うのかを探してみた。
まず、当たり前だが顔だ。仮面で上半分を隠したとしても、そこから下が違う。オレの歪んだ笑いめいた口許、顎の線、それと肌の感じ。ジェレミアの肌はもっと、きめの細かい滑らかな表面をしている。
それから髪の質感、目の色、耳の形。そこから下は衣装で隠れた筋肉の付き方や骨格、革靴に隠れた足の形が違う点か。長さ太さは大体同じだし、立ち方をもう少し気を付けて肩を持ち上げてみようか。うん、似ている。
「よし、何とかなりそうだな」
「そうか。……あまり気を揉みすぎて目的を忘れるなよ。寄り道もほどほどにしてくれ、今はお前が僕なんだからな。女性をむやみに口説くな。ご婦人が困っていたとしても、手助けは禁止だ」
「へいへい」
「伯爵家となれば礼服も格が違う。堂々と振る舞って、服に負けないことだ。多少変なところがあっても、気にしなくていい。気にすれば違和感が目立つ。伯爵家という貼り紙があれば、失敗もお目こぼしされるだろう。だからと言って調子に乗りすぎないことだ」
「どっちだよ……」
「どのみち、僕は全くと言っていいほど夜会に縁がなかったし、声をかけてくる人間の顔も名前もわからない。 前に一度やらかしているから相手側も重々承知だ、話しかけてはこない」
「何をやった」
「男らしく、僕らしく振る舞うんだ、トマス=ハリス! 僕ほど男らしい男もそうはいないからな、手本にするといい」
「ソウダナー」
本気で自分のことを男らしいと思っているなんて、可愛いなぁ、ジェレミアは。言えば絶対に蹴飛ばされるから黙っているが。
「さて、気分もほぐれたし、行くとするか」
「そうだな。僕の代わりに前を歩いてくれ。頭を下げられたら頷くだけで良いからな」
「ああ。そうしよう」
仮面を着けたまま廊下を歩いていると、屋敷で働いている全員が足を止めて頭を下げた。だが、中には肩が震えている者もいて、この茶番劇が知れ渡っていることに気付く。
(まぁ、気付かないほうがどうかしてるよなぁ)
玄関に馬車が待っていた。
「さあ。ジェレミア様、どうぞ」
「……っ、お前、そりゃ、女性に対してのエスコートだろ」
「なっ! そ、そうだったか?」
開いた扉を片手で押さえ、ジェレミアはもう一方をオレに向かって差し出していたのだ。笑いをこらえながら、そう指摘してやると耳まで真っ赤になっていた。
「気取るのはよそう。いつもの聖堂騎士流でいこう」
「……そうだな。『虚飾は悪徳の始まりである』と言うしな!」
まずはオレが、次いでジェレミアがベルベットのクッションに腰を落ち着けた。一番良い車はパトリス父子が使っているはずだから、これは予備のものだ。それでも今まで乗ったどの馬車よりも安定していて、走り出すと座り心地の良さに驚く。これなら長旅も耐えられそうだった。ここから先はとうとう敵の本拠地だ。気合を入れなければならない。
「なぁ、ジェレ……」
「シッ! どうした、ジェレミア?」
「おいおい、まだ…」
「良いから。で、なんなん…だ?」
「…………。さっき見せてくれた短剣の他に、何か武器を持ってないか? やっぱりちょっと落ち着かない」
「そうだろうとも! どれにする?」
嬉々として刃物を取り出す弟の姿に頭が痛くなる。他人のことを言えた義理じゃないが、それにしたって酷い。そう思いつつもオレは結局、掌に隠せる刃物を借りることにした。ジェレミアが得意そうに講釈を垂れてくれる。
「これは非常に珍しい暗器だ。見た目は美しい銀細工のオークの葉だが、このように親指でずらすと先端の覆いが取れる。鋭さは保障するが一回こっきりで壊れてしまう繊細な道具なんだ。残念ながら投擲には向かない。人体にはまず刺さらないし、かすめても致命傷には至らない。近距離で力任せに先端を押し込めば血管を裂くことが出来るだろう」
「……うん、正直そこまで求めてなかった」
「きっと役に立つ」
「立たない方がいいんだがな」
それでもありがたく、礼服の胸に飾らせてもらった。血気盛んなジェレミアと違って、オレには誰かを害するつもりなんてない。精々が必要になったときに、ちょっと首筋に当ててお願いを聞いてもらいたいだけなんだ。
「ノレッジか……。戦闘はごめんだな」
「なんだ? 術士とやりあうのか?」
ジェレミアは声を弾ませてニヤリと笑った。
「その悪い顔、やめろ」
「うん? お前の真似だぞ?」
「くっそ……!」
やがてどちらともなく口数が減り、どこでも寝られるように訓練されたオレたちは、道中の時間を睡眠に当てることにした。ノレッジの治める街の名はアカスィア。アウストラル国内に唯一の高等大学院を有し、全ての書物を納めたと言われる大図書塔の上に築かれた円形の魔術の集積地だ。
馬車に揺られて一刻と四半ほど、堅固な石壁に囲まれたアカスィアに辿り着く。近寄る者を拒絶するような飾り気のない門、あまりに静かすぎる街路。農業や漁業、牧畜を営む人々の一切を遠ざけ、商人や学生から取り立てる金だけで経営しているここは、村の暮らしを大切にするリスタールとは正反対だ。親父殿が嫌うはずである。
ノレッジの城は都市の中心にあった。鉄柵に囲まれた庭園は閑散としており、だだっ広さを強調している。贅沢にも道の脇には魔法石の明かりをふんだんに用いており、温かみのない光に満ちていた。建物は堅固というよりは華美、まるで王族の持つ城のようだ。アウストラルには城が幾つかあり、王城も王子の持つ城も見てきた。ノレッジの城は王城と同じくらい豪華で、比べ物にならないくらい魔術的な防御に優れているが、人間の匂いを感じない。吐き気がする。
大きく回りこんで正面に着くと、きらびやかな人々が続々と入城していくのが見えた。仮面を着け、オレたちも馬車を降りると、係りの者が「もうすぐ始まりますのでお早く」と声をかけてきた。それはつまり、エトワールが皆の前に姿を現すということだ。気もそぞろになるのを自覚する。己を律しながら入城を待つ。
「なぁ、ジェレ……あっ」
(いねえっ!?)
気が付けばジェレミアの姿がない。どこかに紛れてしまったのか。あれだけオレには「よそ見するな」と言っておいて! 一応探しておくかと人ごみに目を凝らしたその時、大きな鐘の音が鳴り渡った。それはこの国のどこの鐘とも違う響きを持っていた。
時を管理するのは聖堂の役割だ。その鐘を別のものに置き換えるやりかたに憤りを覚えた。だが、そんなものはまだ埋み火を起こすものではなかった。オレが本当に怒りを掻き立てられたのは、ダンスホールを見下ろす大階段にノレッジ侯爵が現れたときだった。頭のいかれた老人の挨拶など耳にも入らない。オレの瞳が捉えていたのは、紺碧のドレスに身を包んだエトワールだけだった。
艶やかな黒髪を結い上げて、そこに螺鈿細工の冠を挿していた。青い絹は彼女の瞳の色と同じだ。むき出しの肩から二の腕は透き通るほど青白く、首は折れそうに細い。
美しかった。
だが、その瞳にはオレの知る輝きはなかった。陶磁器の肌に差した紅も色褪せるほど、生気のない顔。それはまさに、魂の抜けた肉の器。虚飾にまみれた泥人形も同然の美だった。
「ノレッジ……侯爵……!」
噛み締めた奥歯から。絞り出すように囁いた。
あの日から、これほどまでに誰かを憎んだことは、呪ったことはない。全てを諦めることで、手放すことで受け止めた。それでも受け入れきれなかった、「喪った」という事実を。
もう何も残っていないと思っていたオレの中にも、赤く燃えるものがあると気付かせてくれたのはエトワールだ。
こうして彼女の姿を見て分かった。
オレに残された命の使い途は、彼女の側でその幸せを見守ることなんだと。
エトワールをノレッジから自由にし、憂いを、涙を拭い去ろう。必ずあの笑顔を取り戻してみせる。
ダンスが始まり、ホールに色とりどりの花を咲かせる。すぐにオレの、いや、ジェレミアの名が呼ばれて、エトワールと引き合わされた。彼女は前のパートナーに気のない返礼をし、オレの手を取った。
「エトワール……」
「………………」
どこを見ているのか定かでなかった、硝子細工の瞳が揺れた。ゆっくりとオレに顔を向け、彼女の持つ夜空に星が宿る。
「迎えに来た」
オレが笑いかけると、小さく息を飲む音が聞こえた気がした。