曇り時々ハニーバター
本日、曇り時々窓ガラス。
鍋底色の空を仰ぎ見ながら、少女は目を細めた。頭上に差しかかる廃ビルの群れはひび割れて、風が吹く度にキィキィと音を立てていた。瓶の蓋をひねる音にも似ている。それはゆっくりと朽ちるうちに、様々な物を降らすのだ。
今日あたり、そろそろ窓ガラスの雨が降るだろう。離れていればただただ綺麗なだけのそれは、少女は見たことも無いけれど、ダイヤモンドダストとか言う宝石の雪によく似ていた。雪など知らない少女は、降り注ぐガラスを、砂糖菓子のようだと思う。
雪どころか、ここには晴れ空も無い。あるのはくすんだ鍋底色と、時々降るぬるい雨。それから朽ちてゆく建造物が降らす、無機物のかけら。
彩度の低い世界で、少女は気象予報士だった。空と馴染んでしまいそうな建物も、日によって違った顔をする。差し当たり昨日の夕方は、はるか上空の窓がちらちらと瞬いていた。傾いでいく建物の歪みに耐え切れなくなったガラスが、最期にその身を震わせている光。
今日のうちには、きっと弾けて粉々になってしまう。
少女は瞬く窓ガラスを仰いで、瓦礫の崖下に身を寄せた。低い所から、高みの見物。
その場でぐるりと地面を確認すると、少女はいそいそと仕事の準備を始めた。
腰に括ったバッグから出て来るのは、重そうな紙袋。ひしゃげた紙箱。ラベルの剥がれた瓶。メッキのまだらになったスプーン、フォーク。布で包んだ白い皿。一緒に転げ落ちた布袋や小さなガラスボトルは詰め直した。今日は使わない。
それから、腰紐の金具に引っかけた道具を外していく。安っぽいヘルメットのような器。分厚い金属のフライパン。針金を束ねただけの泡立て器。薄いヘラがひとつ、ふたつ。
取り出した物を並べ終えると、満足げに一息。
まとめ置かれた道具たちにばさりと上着をかぶせると、少女はついと駆け出した。手近な建物のエントランスをくぐる。踏み締めた床や三段飛ばしの階段は罅や歪みが目立つけれど、崩れはしない。元が丈夫なのだ。少女が手を伸ばし、ノブをひねったドアも軋みながら、問題なく役目を果たす。埃っぽい室内には、いくつかの家具や機材が雑然と、けれど朽ちずに並んでいた。
ひとつ、異彩を放つのは、灰色ばかりの部屋の中にあって白くつややかな、二段扉の直方体。
角砂糖をふたつ重ねたような姿をしたそれは、もとは輝かしい純白だったのだろう。いくらか煤けてくすんでいるとはいえ、見た目にも清潔な白色を辛うじて保っていた。
角砂糖ひとつにつき、取っ手がひとつ。正面の正方形の左端が窪んでいる。少女の細い腕でも、ば、と剥がれるような音をたて、軽く開いた。途端に冷気が流れ出して来る。遠い過去の先端技術を詰め込んだこの遺物は、何の動力にも繋がらないまま、白い霧を見せるほどの冷たさをたたえている。入れられた物はいつまでも、時の流れから出たままだ。
水が凍るほどではない温度。少女には、その仕組みも調整法も分からない。けれど、この箱は間違いなく冷気を生み出し続ける。それで十分だった。
いくつかに仕切られたそこから取り出したのは、少女の腕二本分はあるような、鈍色のボトル。歪みも無くつるりとしたそれは、古臭い金具できっちりと閉ざされていた。持ち上げるとゆらりと揺れる。不安定な重心は、中の液体がまだたっぷり残っている証拠。
ぽん、と音を立てて開けると、ひんやりと白い波が揺れた。腰のポケットからガラス瓶を取り出して、慎重に注ぎ込む。腕の筋が張り詰めて、揺れる。恐る恐るボトルを傾け続けると、やがて小さなガラス瓶はなみなみと白く満たされた。すかさずキャップを締めて、ポケットにほうり込む。わずかに膨らんでいたその中では、ガラスと金属の音がした。
そうして役目を果たした銀のボトルは、もう一度箱の中へ。次に開ける時までの冬眠を。
おまけにもう一つ、別の銀色も取り出した。今度は親指よりも小さな立方体。長く握ってはいられないそれは、手早くポケットへ。
そうしてからようやっと扉を閉ざされた箱は、また角砂糖のふりをする。その白い固まりに背を向けて、少女はとんと駆け出した。下り階段も三段飛ばし。勢いのついたそのままに、エントランスの柱をくるりと回る。
涼しい曇り空の下で、炭酸水の汗は地面にはじけた。
一周でバターになるような回転は、少女の体を見当違いの方へ投げ出した。目的地崖下、向かって十時。生まれた勢いがもったいないと、少女はまだ踏み散らかっていない瓦礫の山を撥ねた。
どこからどう積み上がったのか、瓦礫の九龍城は崩れる気配を微塵も見せない。少女は、器用に足をかけては階段を上るように登頂する。
そうして見下ろした景色の中には、瑞々しさが弾けていた。
奇妙に傾いだ山に覆い隠されていた緑色。曇り空から陽は射さずとも、艶やかな葉は白い光を散らす。
これだから、寄り道はやめられない。少女はもう一度勢いをつけると、ゆらめく緑色めがけて宙を蹴った。下から上へ流れていく景色と、吹き上げる圧力。
ばさん、という柔らかく尖った音は、少女の体を地面より上に留めた音。
緑色の腕に危なげなく受け止められた少女は、その場で後転すると、片腕でその腕をつかんだまま宙吊りの体を揺らした。
そうしてもぐりこんだ傘の下には、点々と散らばる橙色。
つるりと丸い、ともすれば人工物と見まごうような球形をした果実。刃を入れれば押し込められた水気が溢れるこの果実は、よく少女の仕事の材料になっていた。
今回も例に漏れず、少女は果実をもぎ取ると腰のポケットに押し込んだ。縫い目が伸び切るのも、いつものこと。
ポケットの中身が飛び出さないことを確認すると、少女は今度こそ目的の崖下へと駆けた。
緑色も瓦礫の山も背景にして、仕事を待つ道具たちの元へ。
埃よけの上着をばさりと自分に羽織り直し、静かに待っていた道具たちを、ようやく仕事に駆り立てる。
こん、と薄っぺらい音を立てるボウルの上で、軽くはない紙袋をひっくりかえした。いっぺんに落ちた白い粉が、もうもうと少女の視界を曇らす。
それから小さな紙箱を傾けて、さっきとは別の白い粉を一振り、二振り。
白く粉っぽいボウルの上で、今度はガラスの瓶をひっくりかえした。流れ出す中身もまた、白色。
中途半端に交ざりあった粉と水は、歪な泡立て器でかき回される。どろりとなめらかに、もう粉と水には戻れないよう。
ようやく出てきた白以外の色彩は、艶やかな橙色。滑らかな球体をナイフで割って、零れる酸味を白の中に溶かし込んだ。
白で満たされた容器は、一先ず脇へ。
今度はポケットから枝切れをいくつも引っ張り出す。乾き切ったそれは、ぱきぱきと折れていくつにも増えた。
そうして細かくなって積み上げられた燃料は、すぐさま赤色に呑まれていく。少女の手にあるのは、飴玉のように透き通った赤を生む、銀色の箱。冬眠を守る箱と同じ、遠い昔の先端技術。
仕組みなど知らなくとも、役立つことには違いない。少女はもう一度そう思う。
目の前で揺れる赤は、名前も知らない道具から生まれたもの。けれど少女がそれを使いこなすには何も問題はない。
膨らむ赤を石で囲い込んで、重たいフライパンで蓋をした。
ちりちりと熱をもつ金属をならすように、小瓶からとろりとした液体を注ぐ。よくよく見れば薄く黄色がかったそれは、熱を帯びてさらりと粘度を落とした。
少女は立ちのぼる熱気に手をかざすと、ひとつ、頷き。
十分に熱された金属の中に、どろりとした白色を流し込んだ。
途端、弾けたように細かい破裂音が連鎖する。炭酸水よりも硬質で激しいそれは、やがてくぐもった音に変わっていく。白色の周囲が丸く、形を持ち始める。滑らかな表面には、いくつもクレーターのような泡が立った。
すう、と少女が息を飲む。
両手に持った薄いヘラを、回す、差し込む、引っくり返す。金属のぶつかる音は、少しだけ。
熱され、固まった白色は最早白色ではない。香ばしい焼き色のついたそれは、スポンジのようにふわりと膨れた。
あとは、白い皿の上へと落とし込むだけ。
ふわりと湯気をたてる丸形クッション。フォークを差し込めば、ぷつりと裂けてやわらかな香りを振り撒いた。
滞りなく完成へと進む仕事に、最後の仕上げを。
ポケットの中で柔らかくなっていた立方体から、銀色の皮を剥ぐ。現れた薄黄色の塊は、焼き上がったばかりの熱の上へと落とされてじわりと角を融かした。
それから融けた黄色の上で、少女は茶色の小瓶を傾ける。瓶と同じ色のとろみが溢れて、突き刺さるような甘い香りを放った。
さあ、仕事は最終面へ。
頭上では、砕け散った窓ガラスが最期の光を写した。小さな太陽の雨が降り注ぐ。
幸せな仕事の終点は、少女の身体を組み立てた。
書きたい事を詰めて焼き上げました。
ちょっと膨らみが足りなくて、口当たりの軽さに欠けたかなと反省しています。