時間屋
今日は6月25日。高校2年の初夏。時間が戻ったらどんなに良いかーそれだけが今の私の願い。それ以外は何もいらない。私は、ただ、自分の部屋に閉じ込もり、椅子に腰をかけて、叶わぬその願いを心の中で呟いていた。
もう…どうにもならない。わかってる。時間が戻るなんてあり得ない。ただ時間は…刻々と過ぎていく。私の頭の中で
「人殺しー!!」
と叫ぶ美恵子のお母さんの声がガンガンと頭の中で響く。私は人殺し…違う…。私は…何も…何もやっていない!そう私は自分に言いきかせる。でも…心のどこかで…私は人殺しと…反発が来る。
やめて…やめて…私は何もやっていない。そうやっていない!
「人殺しー!」
あの声がまた頭の中で響く。 6月22日。私は、いつも通り美恵子よりも早く学校に着いた。美恵子はいつも遅刻ぎりぎりの時間に教室に入ってくる。なるべく学校にいたくないという表れだったかもしれない。
「おはよぉ」
私は麗香に挨拶をした。麗香はこの教室の女王的な存在。皆、女王を恐れている。女王に逆らったら、女王の獲物になる。それが恐い。今の女王の獲物、それが美恵子だ。
「おはよぉ、美保」
麗香は美しい笑顔で私に挨拶を仕返した。麗香は相当な美人だ。さらにお金持ち、運動や勉強も出来ると言った、正に完璧だと言っても過言ではないだろう。
そして私と麗香はお喋りを始めた。バイトの話とかテレビの話とかそんな普通の女子高生がするよう話をー。
「ガラガラー…」
ゆっくりと教室の扉が開く。その音は、小動物が肉食獣に怯え、発した鳴き声の用にも聞こえた。
「とこ」
と上履きを履かず、靴下の姿の美恵子が1歩入って来た。下をうつ向いた姿勢で…。一斉に美恵子の方に教室の生徒達は冷たい視線を向け、ガヤガヤした喋り声がピタリと止んだ。
「クスッ」
ある女子生徒の笑い声。
「ブフッ」
ある男子生徒の吹き出した笑い声。こうして次々と美恵子の姿を見て、笑い出す。この笑い声は美恵子からすれば、人ではない何か、悪魔の様な者の笑い声にしか聞こえたことだろう。そして私も
「アハハッ」
っと笑い出した。もちろん、本当の笑い声じゃない。でも笑わないと、麗香から何されるかわからない。麗香は女王。女王の言うことは絶対。これがこの教室に自然といつの間にか出来たルールだ。
美恵子は足早に自分の席に着いた。その席には何か落書きがされていたらしく、美恵子は急いで鞄から筆箱を出し、消しゴムで机の落書きを消した。皆は笑うのを止め、またガヤガヤと話し出す。そんな美恵子の姿を麗香はニヤニヤと笑い、じっと見つめる。そしてのろのろと美恵子に近寄った。その後を数人の男女がまるで女王に飼い慣らされた犬の様に後を追う。私もその犬の1匹として、麗香の後を追う。
「どうしたの?美恵子ちゃん」
麗香はしゃがみこみ、美恵子の机に肘をのせた。美恵子は急いで麗香から目を反らす。
「何でも…ないよ」
美恵子は怯えた声で言った。
「美恵子ちゃん、冷たぁ〜い」
麗香は子供の様な甘い声を出した。
「あっごっごめん…!!」
美恵子は急いで麗香に謝った。その顔色は真っ青だ。今度は何をされるのだろうという恐怖からだろう。
「大丈夫だよ」
ニコッと麗香は笑い、そしてゆっくりと立ち、恐ろしい目つきで美恵子を一瞬睨みつけた。そして飼い犬の私達も美恵子ををぎろりと睨みつける。麗香が歩きだすと、私は
「うざっ」
と小声で発する。すると次々と
「キモッ」
「ウワァ〜」
と続いていく。これが私達の日常。でも、本心じゃない。だって皆、女王の獲物になりたくない、だからやってるだけの話。 6月22日の昼ー。私はいつも通り麗香とほかの女子生徒数人と弁当を食べていた。ただ1つ、いつもと違うことがあった。いつも1人で食べている美恵子が教室のどこにもいなっかったのだ。でも、誰もそんなことは気にも止めていなかった。いや、女王だけは、獲物がいなくて寂しがっていたかもしれない。
「ガラッ」
思いっきり力強く扉が開く音がし、ある私のクラスの女子生徒が息を切らしながら
「美恵子が…屋上から飛び降りたみたいよ!!」
と大声で言った。麗香はすっと立ちあがった。
「うそ…!?」
「本当だって。うち落下した所を見たんだから!!うそだと思うなら現場に行ってみると良いよ」
「現場は…どこ!?」
麗香は真面目な声で尋ね、女子生徒が現場の場所を言うと駆け足で教室を出て行った。
「待って!!私も行く!!」
私は麗香の後を追った。でも、運動神経が良い麗香には運動神経が並みの私の足では追いつかなかった。私がようやく現場に着くと、いつものもの静かな校庭とは違った雰囲気が広がっていた。現場には沢山の様々な生徒が集まり、がやがやと話している。その中に、
「美恵子ー!!」
という麗香の叫び声も聞こえた。私は急いで麗香の声が聞こえる方へ野次馬を押しのけながら進んだ。
「何だよー!」
「ちょっと…!」などという声も聞こえたが私は無視して進んだ。野次馬の先にあったのは頭部が血だらけの美恵子の上半身だけを抱え、座りこんでいた麗香の姿だった。
「美恵子…」
私はそう小さく粒やいた。
「美保…」
麗香はこの様な事態に対し、警戒しているのか、小さな声で粒やいた私の声を聞き取り、私の方を見た。
「美恵子が…!美恵子がぁあぁ!!」
狂った様に麗香は叫んだ。でも瞳はまっすぐに私を見ている。涙も出ていない。私はわかった。麗香は悲しいんでなどいない。焦ってもいない。狂ってもいない。これは、ただの麗香の演技だと…。 6月23日ー。美恵子は旅立ち二度と会えない人となった。私クラス警察から多少事情聴取をされることもあったが、ほとんど自殺だろうということであまり大したことを聞かれることもなかった。美恵子はいなくなった。でも、何事もなかったように普通に時間は過ぎっていった。
6月25日ー。
「4X=…」
今は数学の授業の時間だ。男性教師の眠くなる声が耳をすうっと通りすぎていく。麗香は次の獲物となる者を探しているのか、シャーペンをくるくるとまわしながら、周囲を気にしている。その時だった。廊下でなにかがこっちに走ってくる足音が聞こえた。その音は次第に大きくなってきた。こっちに向ってきているのだ。何か…来る、そんな感が私の心を支配した。心臓を握られるような、そんな嫌な感じに襲われた。麗香を見ると、麗香はそんな足音など気にせず、相変わらず、シャーペンをくるくるとまわしている。突然足音が止まった。…多分…私の教室のドアの前で…。私は教室のドアをじっとみつめた。他の生徒もちらりとドアを見た。麗香も見た。私の額から汗がじわじわと染み出る。そして、
「バン」
という音とともにドアが開いた。一斉に教室全員がそっちに目を向ける。
「あ…あのぉ…」
男性教師はおろおろと何か言いたげな雰囲気でそっちに話かけた。
「はぁはぁ…」
そこからは、ただ荒い息だけが聞こえた。そして教室に入ってきたのは、ぼさぼさな白髪頭の50代くらいのスーツ姿の女性だった。その人は美恵子のお母さんだった。美恵子のお母さんはゆっくりと教室の真ん中に歩き、足を止めた。教室はじめじめとした暑さだけが漂い、静寂を保っていた。
「あのぉ〜…」
またおどおどと男性教師は美恵子のお母さんに話しかけた。
「聞きなさい」
美恵子のお母さんは、そんな男性教師の言葉は耳に入らないのか、私たち生徒にそう話しかけた。麗香は相変わらず、シャーペンをくるくるとまわし、面白いものを見るかのように、美恵子のお母さんを見つめている。
「私は…美恵子の母です」
美恵子のお母さんがそう言った瞬間麗香の手は止まった。でも、焦りの顔はない。ただ、その場を楽しんでいるかのようにも見える。
「今日、美恵子の机の引出しをいじっていたら、美恵子の日記を見つけました」
美恵子のお母さんは、大学ノートを鞄から取り出した。
「この1部をきいて下さい」
美恵子のお母さんは生徒をぐるりと見渡した。
「ある日、美恵子はこう書いています。『今日、話かけても、みんなに返事を返しくれなかった。どんなに大きな声をだしても。まるで、私の存在がそこにないように。』また、ある日はこう書いています。『今日、教科書が机の引き出しから消えていた。私は仕方なく、教科書を探した。もちろん…1人で。そんな私の姿を皆にやにやしながら、見つめた。教科書はゴミ箱から見つかった。』また、ある日はこう書いています。『わかってる。どれもこれも麗香ちゃんが仕込んだこと。でもどうして?どうして私なの?私麗香ちゃんに何かしたかなぁ?』」
麗香が美恵子を獲物に選んだ理由は多分ないだろう。誰でも良かったのだ。ただ、女王は獲物を欲した…それだけのこと。「また、ある日はこう書いています。『美保と仲良かった中学生時代が懐かしい。一緒に吹奏学部に入って、一緒に練習したり、一緒にショッピングしたり、楽しかった。でも、今じゃ麗香ちゃんの言いなりで、そのころの面影もない。今じゃ麗香ちゃんと必死で私が教科書を探する姿をにやにやしてみてる。美保…前の美保に戻って。また、一緒に遊びたいよ。』」
私はただ呆然とした。確かに美恵子とは昔仲良かった。だからって、私のことばっかり、こんなに書くなんて。もっと、麗香のこと書いてよ。どうして、私のことばっかり。美恵子のお母さんをふと見ると目からだらだらと涙を流していた。
「麗香って誰!?この教室のなかにいるんでしょ!!」
美恵子のお母さんは怒りと悲しみをぶつけるように、怒鳴った。でも麗香はそんな美恵子のお母さんは物珍しそうにみるだけで、別段何の動きもみせず、他の生徒も何も口に出さなかった。美恵子のお母さんは、今度は私の方にゆっくりと歩いて来た。そして、私の机の少し前で足を止めた。
「美保ちゃん、美恵子はあなたのことを本当の友達だと、思ってたのよ。昔は、あなたのことを…よく、私に話してくれた。美保ちゃん、覚えてる?よくうちに遊びに来たことを。なのにどおして…!?あんなに…あんなに仲良かったのに…?」
私には返す言葉がなかった。
「人殺し…皆この教室の人!皆人殺し!!あなたたちがあの子を…美恵子を殺したのよ。人殺しー!!人殺しー!!」 その日の夜。私は部屋に閉じこもり、ただ時間が戻ったらどんなに良いか。そんな叶わぬ願いを虚しくも心のなかで願続けた。ただ、
「人殺しー」
という美恵子のお母さんの声だけが私の頭の中で、がんがんだと響いた。
6月26日。今日は土曜日のため、都立高校の私は学校が休みだ。ただ、予定があるわけでもないがただ家にいるだけなのも嫌な感じがし、適当に近所をぶらぶらと私はしていた。まるで足を引っ張られるように行く宛てもないのにさっさと前に進んだ。
頭はぼーっとし、何も考えていなかった。私はいつの間にか知らない所へと来ていた。そこは、どこにでもありそうな和風の家が並んだ物静かな住宅街だった。私はキョロキョロと辺りを見回しながらゆっくりと歩くと随分と古い木造建築が目に止まった。ショーウインドゥには沢山の様々な形をした時計が並べてある。私は少し後ろに下がり、その木造建築の屋根を見ると大きな木の板に時間屋と黒く太い字で書かれた看板が建てられていた。ゆっくりと時間屋の戸に近づくと白い板に営業中と書かれた札が下げられていた。あまり営業しているようには見えなかったから私は思わず首を傾げた。まず時間屋とは何を売っているのだろうか。ショーウインドゥにあったものから言うと時間屋はいわゆる時計屋なのだろうか。ただ、私は分けもわからず興味のあまりその戸を開けた。中は埃くささがただよっていた。周囲には棚の上に沢山の時計がおかれており、奧にはカウンターがありさらにその奧には扉があった。天井には今直ぐにでも切れそうに蛍光灯がピカピカと光ったり消えたりしていた。
「あぁ〜もうすぐこりゃ切れるね。すまなぃねぇ〜お客さん」
よぼよぼの声が私の耳を通った。ふとカウンターの方を見ると80代くらいの白髪頭の小柄で背筋が大きく曲がったおばあさんがいた。いつの間に入ったのだろう。
「あの…ここはいわゆる時計屋さんですか…?」
私はおどおどしながらおばあさんにそう質問した。
「はっはっは!」
おばあさんは突然大笑いした。
「まぁそこに置いてあるの時計を売ってやっても良いがな、ここに来るお客さんはね、そんな物を求めちゃあいないのさ」
「はぁ〜…」
私は困った様にそう頷いた。
「まぁ〜聴きな。ここに来るお客さんはね、皆、時間を求めているのさ」
時間を…求める…。私は昨日、時間が戻ったら良いのにー…と願ったことをふと思い出した。
「お客さん、あんたも求めているはずだよ、時間をね」
おばあさんはそう言い終えると私の方を真っ直ぐに見つめた。
「無理ですよ、そんなの無理です。私は確かに過去に戻れたら良い。そう願いましたが…そんなの…無理なんです」
「何で無理なんだい?」
おばあさんは面白いものを見るような目で私をみた。
「だって…」
「それが無理だったらこの店は存在しないよ」
「からかってるんですか!?」
私は思わずおばあさんに冷たい視線を向けた。
「はっはっはっ!」
またおばあさんは大笑いした。
「からかってなんかいないよ。だってほら、あんただってここのお客さんだ。お客さんのあんたは時間を求めている。違うかね?ん?」
おばあさんは私の顔を覗きこむような動きをした。確かにそうだ。大体何故、このおばあさんは私が時間を求めていたのを知っていたのかー。これは信じてみる価値があるかもしれない。
「じゃあ、やってみてください」
「ふん、お客さん、悪いがね、これはボランティアでやってるんじゃない。いわゆるれっきとした商売。それ相応の代償を払ってもらわなきゃ困るんだよ」
私は何やら怪しい感じを感じとったものの
「お金…いくら必要何です?」
ときいてしまった。
「はっはっは!お金何かいらんよ。そんなものには興味ないんでね」
「だって…今」
このおばあさんを信用して良いものか、いまいちしっかりしない。
「そうさ。代償は必要だよ。でもお金何かいらないさ。それは、目には見えないものだよ」
「目に見えないもの…ですか…?」
このおばあさん…何を言っているのか全くわからない。
「そうさ…その人の寿命だったり、大切な人の存在だったり、奪われると嫌なものだよ。要するに幸福が代償さ」
おばあさんはにやりと笑った。このおばあさん、本当にいかれているかもしれない。
「幸福…そんなものどうやって払うんですか」
「消費者は何もしなくて良いさ。私が勝手に奪っているからね」
「そうですか。じゃあお願いします」
「良いのかい?あんたは幸福を奪われるんだよ」
どうせ、そんなもの、奪えやしないし、今の私に幸福などない。これ以上奪い様がないに等しい。
「良いですよ。どうせ、今の私に大した幸福はありませんから」
私は淡々と答えた。
「わかってないね」
おばあさんはカウンターから身を乗り出した。
「今より不幸になるっとことだよ」
今より不幸…。本当は大好きな人がこの世から旅立ちいなくなり、その母親から人殺しと言われる。これ以上な不幸なことはあるだろうか。
「お願いします」
私はただそう言った。
「いつに戻りたいんだい?」
「6月22日の私が朝、学校の教室に入った時…で大丈夫ですか」
「あぁ。それで十分だよ。じゃあ目を閉じな」
私は目を閉じた。当たり前の話だが一瞬にして私は闇に囲まれた。
「心の中で10秒数えな。10秒たったらゆっくりと目を開けるんだ」
1…2…3…4…5…6…7…8…9…10…
私はゆっくりと目を開いた。
そこは、学校の教室だった。本当に今日は6月22日なのだろうか。私はぐるりと1周教室を見渡した。麗香もいる。本当にいつも通りの学校の教室だ。私は鞄からケータイを取り出し、開くと、そこにはしっかりと6月22日と書かれていたのだ。どうやら、あのおばあさんが言ったことは本当だったらしい。
「おはよぉ」
私はいつもの様に麗香に挨拶をした。
「おはよぉ、美保」
この前とまったく同じやりとりだ。そして私と麗香はお喋りを始めた。バイトの話とかテレビの話とかそんな普通の女子高生がするよう話。この前とびっくりするほど同じ話。
「ガラガラー…」
ゆっくりと教室の扉が開く。
「とこ」
と上履きを履かず、靴下の姿の美恵子が1歩入って来た。下をうつ向いた姿勢で…。一斉に美恵子の方に教室の生徒達は冷たい視線を向け、ガヤガヤした喋り声がピタリと止んだ。
「クスッ」
ある女子生徒の笑い声。
「ブフッ」
ある男子の吹き出した笑い声。
こうして次々と美恵子の姿を見て、笑い出す。この前と同じように…。でもただ1つ違うのは私が笑わなかったことだ。そう、この前と同じように過ごせば今日美恵子は自殺する。それを何としてでも止めなければならないのだ。そんな私の姿を麗香は不思議そうな顔で見つめた。美恵子は足早に自分の席に着いた。
その席には何か落書きがされていたらしく、美恵子は急いで鞄から筆箱を出し、消しゴムで机の落書きを消した。
皆は笑うのを止め、またガヤガヤと話し出す。そんな美恵子の姿を麗香はニヤニヤと笑い、じっと見つめる。そしてのろのろと美恵子に近寄る。その後を数人の男女がまるで女王に飼い慣らされた犬の様に後を追う。私もその犬の1匹として、麗香の後を追う。いや、違う。私は、もう麗香の飼い犬じゃない。美恵子を助けに行くのだ。
「どうしたの?美恵子ちゃん」
麗香はしゃがみこみ、肘を美恵子の机に肘を載っけた。美恵子は急いで麗香から目を反らす。
「何でも…ないよ」
美恵子は怯えた声で言った。
「美恵子ちゃん、冷たぁ〜い」
麗香は子供の様な甘い声を出した。
「あっごっごめん…!!」
美恵子は急いで麗香に謝った。その顔色は真っ青だ。
「大丈夫だよ」
ニコッと麗香は笑いそしてゆっくりと立ち、恐ろしい目つきで美恵子を一瞬睨みつけた。そして麗香は歩きだした。
この前ならば私は
「キモッ」
と言ったが今回は違う。
「おはよぉ、美恵子」
と私は二コリと笑った。他の生徒の視線が一気に私の方に向けられた。私の心を恐怖が支配した。そして、あのおばあさんの言葉を思い出した。
「今より不幸になるっとことだよ」
と…。でも…美恵子は失いたくない。美恵子は一瞬驚いたように目を丸くし、その後、安心したように目をしょぼしょぼさせ、嬉しそうに笑い、
「おはよぉ、美保」
と挨拶を仕返した。私は驚いた。たった1言の挨拶で人はここまで喜ぶものなのだろうか。麗香の方から、怒りの念を何となく感じ取った。でも、もう後戻りは出来ない。したくもない。
「美恵子、美恵子の上履き…一緒に探そ…」
私は小さな声で、呟くようにそう言った。
「うん…」
美恵子は小さく頷くとすっと立ち上がり私たちは教室を後にした。
「美保…ありがと…」
美恵子は涙を流しながら、私に礼を言った。今までに、こんなに人に心から、感謝されたことがあっただろうか…。何とか今日は美恵子の自殺をくいとめることが出来た。その後も周りから冷たい視線を感じた。特に麗香とはあれ以来、話していない。でも、美恵子は楽しく仲良く過ごしてた。こんな時間がずっと続けば良い、そんな風に私は考えていた。 10月11日ー。私はいつもの様に教室に入って来た美恵子に
「おはよ」
と挨拶した。
でも美恵子は困った様な顔をしただけで私に何も返さずすたすたと鞄を自分の机に置くと足早に麗香の方へ行ってしまった。やられた。裏切り。まさか、美恵子が…裏切った。あの美恵子が…どうして。信頼していた人に裏切られるということは想像を絶する悲しみとショックだった。私は駆け足で教室を出て、トイレで1人涙を流した。
その後、麗香達の虐めはどんどんエスカレートしていった。ある時携帯を見ると50件以上のメールが来ていて、見ると
『死ね』
『学校来るな』
といったメール。私の存在を否定する内容しかなかった。またある時は教科書が机の中にいれておいたのに、ごみ箱の中に捨ててあることもあった。美恵子が虐められていた時、辛いだろうと私は想像していたが、ここまで、辛いとは私は想像出来ていなかった。
2月15日ー。私はいつのまにか、学校をぎりぎりに行くようになっていた。もちろん、下駄箱には上履きなどない。私は靴下で床を歩いた。床の冷たさがきりきりと足に響いた。教室の戸を開けると、一斉に私の方に教室の生徒達は冷たい視線を向け、ガヤガヤした喋り声がピタリと止んだ。
「クスッ」
ある女子生徒の笑い声。
「ブフッ」
ある男子の吹き出した笑い声。こうして次々と私の姿を見て、笑い出した。怒りだけが私の心を満たした。「アハハッ」
美恵子の笑い声。どうして…!?私が美恵子を助けたんだよ。本来なら、あなたはここにいない存在。私はあなたの命の恩人。私は足早に自分の席に着いた。すると、机の上には『バカ』とだけ大きく書かれていた。私は鞄から筆箱を出し、急いで消しゴムでそれを消した。私は麗香の視線を感じた。さぞ、にやにや笑って、優越感に浸っていることだろう。そして麗香を先頭にその後を美恵子を含めた男女がのろのろとやってきた。何だろう…この威圧感は…。
「どうしたの?美保ちゃん」
麗香はしゃがみこみ、肘を私の机に肘を載っけた。私は急いで麗香から目を反らした。
「美保ちゃん、冷たぁ〜い」
麗香は子供の様な甘い声を出した。
「あっごっごめん…!!」
私は急いで麗香に謝った。何故、麗香に謝らなければならないのか…?何だろう…この強烈な屈辱は…?
「大丈夫だよ」
ニコッと麗香は笑いそしてゆっくりと立ち、恐ろしい目つきで私を一瞬睨みつけた。そして飼い犬の美恵子も麗香をぎろりと睨みつける。麗香が歩きだすと、美恵子は
「うざっ」
と小声で発する。すると次々と
「キモッ」
「ウワァ〜」
と続けていく。これが、いつの間にか日常となっていた。私はあることに気がついた。美恵子が自殺した時と全く同じことに。ただ役割だけが美恵子と私は違う。不思議なものだ。
そして昼休みー。私は屋上へと向かった。そこには何人かの生徒達がいた。私はその生徒達がいない所へと向かった。自殺する人は靴をぬぐっていうけど、私はしない。だって、上履き、履いてないから。私はフェンスを越えた。そこからは空という青い美しいものが目にはいった。こんなに空を眺めるのは久しぶりだ。ここの所、下ばかり見ていたからかもしれない。恐い。死は恐い。でも、生きることはもっと恐い。そして、私はまた、時間屋のあの言葉を思い出した。今以上に不幸になるよ。確かに、前よりひどい現実になった。私はそこから飛び降りた。そして、私を闇が包んだ。
今日は2月18日ー。高校2年の秋。時間が戻ったらどんなに良いかーそれだけが今の私の願い。それ以外は何もいらない。私は、ただ、自分の部屋に閉じ込もり、椅子に腰をかけて、叶わぬその願いを心の中で呟いていた。
もう…どうにもならない。わかってる。時間が戻るなんてあり得ない。ただ時間は…刻々と過ぎていく。私の頭の中で
「人殺しー!!」
と叫ぶ美保の母親の声がガンガンと頭の中で響く。私は人殺し…違う…。私は…何も…何もやっていない!そう私は自分に言いきかせる。でも…心のどこかで…私は人殺しと…反発が来る。
やめて…やめて…私は何もやっていない。そうやっていないのよ!
「人殺しー!」
あの母親の声がまた頭の中で響く。どうして、美保のお母さんは私のことばっかり読んだのだろう…?確かに私は中学校の頃仲良かったし、助けてももらった。でも、1番悪いのは、麗香じゃない。
2月19日ー。今日は土曜日のため、都立高校の私は休みだ。ただ、予定があるわけでもないがただ家にいるだけなのも嫌な感じがし、適当に近所をぶらぶらと私はしていた。
まるで足を引っ張られるように行く宛てもないのにさっさと前に進んだ。頭はぼーっとし、何も考えていなかった。私はいつの間にか知らない所へと来ていた。そこは、どこにでもありそうな和風の家が並んだ物静かな住宅街だった。私はキョロキョロと辺りを見回しながらゆっくりと歩くと随分と古い木造建築が目に止まった。ショーウインドゥには沢山の形をした時計が並べてある。私は少し後ろに下がり、その木造建築の屋根を見ると大きな木の板に時間屋と黒く太い字で書かれた看板が建てられていた。