科学への貢献
私の旦那さんは少し変なところもありますが、最高の夫です。
「これはイチョウだな」
「イチョウ?あまり見ない木ですね」
「ああ。だが私の世界では広く栽培されていた。秋になると葉が鮮やかに色を変えてな。私のところでは秋の風物詩とされていた」
「秋の風物詩ならこっちにもありますよ……ほら、アルビサ。秋になると赤い花を一面に咲かすんです」
「この植物は……やはり知らないな。どのような花を咲かすのか楽しみだ」
「そうですね、でもせっかくなら"青龍の洞穴"の近くの花畑まで足を運んでみてどうでしょう。あなたも、龍に興味があるといっていましたよね」
「ああ。それは素晴らしいな。是非行こう」
そうですね。なにせ異世界から来たなんて公言していますから。
でも……私は信じていますよ。
夫が無意味な嘘をつくことはありませんから……でも、ツメタアサリ貝は食べたフリなんてせずにちゃんと食べて欲しいです。
ええ、この村で最初に夫に会ったのは、何を隠そう私なのですよ。えっへん。
最初会った時、夫とは言葉も通じませんでした。
奇妙な出で立ちの彼を奇異に見る人もいましたが、物を指し示して各単語を尋ねるのがなんとなく可笑しくて、私はそれに付き合いました。
彼が片言とはいえ喋れるようになった頃、私にたどたどしい言葉で教えてくれたことは今でも覚えています。
「私は"知識を求める人"だ」と。
彼はその名の通り、私達にいろいろなものを提供してくれました。
いくつかの便利な道具――たとえば、回すだけでいい臼。ムコンギパを砕くのがずいぶん楽になりました。
錘を利用した井戸汲み用の道具。
そうしたものを私達のコミュニティに提供してくれることで、少しずつ彼を受け入れていきました。
ですが、それでもなお彼を不審がる人は多かったし、せいぜいが便利屋といった扱いでした。
それが一変する出来事が起きたのです。
満月が欠けていき――凶兆の徴です――神の怒りに怯えきった時、私達よりも遥かに大きい集団から送られてきた兵士が現れたのです。
「神はお前たちにお怒りだ! 我々に降伏するか逃げ去らない限り、お前たちの集落は燃え、人は死に、神の怒りに晒されるであろう! 我々は近い日に、お前たちを攻め滅ぼす!」
突然の出来事に戸惑う私達でしたが、そこに彼が現れて、兵士に言い返しました。
「神の呪いを受けるのはお前たちだ。15日後、我々はお前たちを滅ぼす。太陽の神もそれを見ているだろう!」
兵士たちはそれを聞いてもせせら笑うのみでした。
「そうか。ではその15日後に、お前たちを攻め滅ぼすとしよう」
そう言って兵士たちは去りました。
私達の中には無用の挑発をしたと彼をなじる人もいましたが、長老が彼がいなくとも彼らが我々を攻めることは変わりなかったであろう、ととりなし――ともかく戦いの準備を整えはじめました。
そして、運命の15日後。彼らが攻め入ってきた瞬間――私達は驚きました。
太陽が少しずつ欠けていき――最後には見えなくなってしまいました。彼の言った通りに。
戸惑う敵の兵士達は怯え、逃げ出すものも現れました。
戦いは大勝。あまりにも多くの成人の働き手を失った敵のコミュニティは、自然消滅していきました。
それ以後、私達のコミュニティは彼を持て囃し、一部はほとんど崇めるような態度を取る人まで出ました。彼を神官に加えるといった話までありました。
しかし、彼はそうした地位を拒否し、その代わりに彼が"科学"と呼ぶものを誰にでも、別け隔てなく教えることを望みました。
その願いは叶い、彼は実用的な知識から、ほとんど哲学のような――科学という精神についてまで、老若男女教えていきました。
ある日、なぜそんなことを教えたがるのか、と聞いてみたことがあります。
彼は答えとして、こう言いました。
「私は科学者であるから――科学への貢献が課せられた使命なのだ。たとえどんな世界にでも、遍く科学を広めたいのだ」
彼は精力的にその役目をこなし、そうして広めたうち、実用的な知識はもちろん科学という考え方の強力さも浸透し――それを武器に少しずつ私達のコミュニティは拡大していきました。
私が彼と結婚したのもその頃です。
彼はかなり壮年でしたから、親戚には少しばかり難を示す人もいたものの、私の両親は何も憂いのない笑顔で私を送り出してくださいました。
初めての夜では――私はもちろん、彼もこういったことはよく慣れていない様子でした。でも、私に色々と尋ねながら、優しくしてくれたのは覚えています。
その……彼は私のお尻が好きなようです。えへへ。
彼は(たぶん、もういい年でしたから)おそらく子供を作るのは不可能だという旨を私に伝えましたが、それは元より覚悟していたことです。私が幸せであるということに何も影響しませんでした。
そんなある日のことです。彼は講義の上で日食も月食も単なる天文現象である旨を何度も伝えていましたが、それでも皆気になるものです。
彼はあまり気の進まない様子ではありながらも、前のように月食を予測し、そしてそれはもちろん当たりました。
が、変化が起きたのはその夜のことです。彼が毎晩ペルガミーニョ皮紙を束ねたものに、研究の成果を書き留めているのは知っていました。
ですが、彼は月食が起きたことを確認した瞬間――なにかに気付いたように机に向かい、猛烈な早さで筆を動かしだしました。そして、突然手を止めたと思うと立ち上がり、大きく目を開いた状態で、私の両肩を掴みました。
「元の世界に戻る手がかりが見つかった」
と。正直言って、彼の様子は少し怖かったです。
それに加えて――彼が一人で元の世界に戻ってしまうのではと思い、不安になりました。
そして、彼は集落の科学者としての仕事の傍ら、元の世界に戻るための研究を毎晩毎晩続けました。
それは昨日、成就したようです、彼は「間違いがあるかも知れないが、私の能力ではこれ以上の正確さを期すことが出来ない」なんて言っていましたがあの人の理論が間違っていたことは今までありませんでした。たぶん、これもそうでしょう。
私は思わず泣き出しました。
彼は突然の私の様子に戸惑ったようですが、私が不安について吐露すると、抱きしめながら「君を置いていくことなんかない。絶対に連れて行く」と言ってくれたのです。
私は泣きながら、何度も何度も頷きました。
そして今日、その理論に基づき、彼の世界へと向かいます。
彼と一緒なら何の不安もありません。
私の旦那さんは少し変なところもありますが、最高の夫です。
* * *
私は科学者を目指して育ち、科学者となった。たとえ科学が解明せぬ事態に遭遇し、異なる世界を訪れたとしてもやることは一つ。科学への貢献だ。
この世界は、私のよく知る地球と同様、二足歩行の知的生命体が大きく勢力を伸ばし、彼らは文明を築きはじめていた。
周辺の動植物は私の知るものとはかなり異なり、そもそもサバイバルの知識など表面的にしか持たない私にとって――現代文明のコミュニティと比べて大幅に小規模でかつ発展途上的、もしこうした迂遠な言い方を好まないならば、彼らに最初接触した時の率直な私の感想を言えばいいだろう。
私が連想したのは、アマゾンのヤノマミ族だった。
その後、実際にはヤノマミ族よりもコミュニティの規模は大きく、首長制社会のような形であることが把握できた。
なにはともあれ、私はサバイバルの知識など表層的にしか持ちあわせておらず、また周囲の動植物も見知らぬものばかりの状況でそうした集団にコミットせずに生きていくのは不可能だろう。
私は言語の習得を目指すことにした。単語の習得にあたっては絵を見せてその単語を問い――その途中で全くわけのわからないものを見せて「何?」という言葉を引き出すかの有名な手法を活用し、これがなかなかに上手くいった。少なくとも、数日で最低限必要な単語については獲得することが出来た。
続いては、私の持つ知識を彼らに有用だと伝えなければならない。
回転式の臼など(彼らは、一般的な鞍型臼しか持っていなかった)私のたどたどしい言葉による説明がなくともすぐに用途がわかり、かつ即時性のある発明品を提供していく。
こうした物として残るものはインパクトが強く、その有用性に気付いた目ざとい人たちによって導入が広げられ、目に見える形で私の有用性というものを広めた。
少なくともこうして、明日の飯に困るといった状況からは脱すことが出来た。
そうしてなんとか生き残っているうちに重大な出来事が起きた。
月食、そして敵の来襲だ。
周囲にいくつものコミュニティがあることは知っており、今から考えれば軍事的な衝突が起きることもほぼ必然といっていいと思うのだが、当時の私はまだまだこうした世界に慣れておらず、酷く狼狽した。
少なくとも体力的に劣る(彼らは身体能力――特に肺活量、スタミナなどに優れており、研究室と家を車で行き来するだけだった私など到底追いつくものではなかった)私が兵士として彼らに立ち向かうなど無謀であるし、たどたどしい言葉で彼らに私の有用性を伝え、処刑を思いとどまらせることなど不可能だと思えた。
コミュニティの規模は大きく劣っており、敗北はほとんど不可避に思えた。だからヤケになって叫んだのだ。
「神の呪いを受けるのはお前たちだ。15日後、我々はお前たちを滅ぼす。太陽の神もそれを見ているだろう!」
科学者として、単なる天文現象に過ぎない月食を権威として利用する彼らに怒りが生じた部分もあった。
日食と月食は似た現象である。日食は月が太陽と地球の間に入った時に起きる現象である。さて、このとき月がぐるっと180°回転し、逆側に行くと?
今度は、太陽の光を地球が遮り、反射によって輝く月は欠けて見える、というわけだ。
が、これはほとんど賭けだった。理論的には15日後に(そのときの日食は皆既日食であった――つまり大きく欠けていたから、15日の間に月食が起こらない位置まで動くということはないだろう)起きるはずである。が、それを観測できるかは別だ。
月食の時間に真っ昼間であれば当然観測はできない。無論、その時間まで計算で出すことは可能だが、私では必要な値を集められなかった。もちろん、雲が覆い隠すといった単純な気象条件でも容易に観測は不可能になる。
だが、私は幸運だったようだ。月食は観測できる宵に起こり、敵の兵士は怯えに怯え、そのまま敗走した。私は集落で祭り上げられ、あわや神官といったところまで行った。
冗談ではない。ソクラテスを始めとして一部の科学が神事のもとで進められたことはよく知っているが、私は神事として知識を広めるのではなく科学として知識を広めることこそが重要であると考えていた。
科学の柱は有用な知識ではない。知識や経験の体系化であり、検証可能性であり……そうした、システム全体こそが科学の柱であり精神なのだ。
幸いにしてこのコミュニティには理解を示す人が多く、私はこのコミュニティに科学というものを広めることを認められた。
――ああ、大学の連中どももこれだけわかりがよければ!
そうした諸事の合間を縫って、この世界を調べていった。
動植物に関してはいくつか私の知っているものに似通ったものもいくつかあったものの、大きく異なるものも多い。驚くべきことに"龍"までいるらしい。
だが、こうした調査はそれなりに楽しんでやってはいたものの生物学に関して私は専門家ではないし、実際のところほとんど片手間の趣味といった趣が強かった。
それがある出来事で一変した。
私と馴染みの深かった娘と結婚の話が持ち上がった。私も彼女を憎からず思っていたし、私の知識を大々的に利用することでコミュニティ内での政治的影響力を増していた彼女の家と、この立場を堅持したい私とで利益は合致していた。そうして、婚姻はつつがなく進められた。
驚いたのは、結婚した妻と迎えた夜だ。
彼女の裸体を抱きしめて眺め回していると――彼女に尾てい骨がないことに気付いた。また、性器の構造もかなり異なるように思えた。
怪訝に思い、いくつかセックス――ああ、こちらのほうが正確かな――生殖の方法を確認すると、人間……ホモ・サピエンスのそれとは異なることがわかった。
私はようやく気付いたのだ。この世界の二足歩行する知的生命体は、ホモ・サピエンスではないと。
その後、私は必死でこの世界の動植物についての調査をまとめた。歩きまわり、人に聞き、頼み込んで資料を手に入れた。
その結果わかったことは、一部の私の見知っている動植物は、概ね三畳紀の頃には既に確立していたものであるとわかった。例えば、植物であればイチョウなどの裸子植物の一部に限られた。被子植物に関してはほとんど壊滅的で、麦や豆などイネ科の植物は見つからず、これらに関しては存在していないと断言していいだろう。
動物の場合は顕著だったのは哺乳類だ。少なくとも私が知る哺乳類の特徴――胎生や温血などの特徴を備えた一群の動物が繁栄しているのはわかったが、その中に見知った形態のものは少なかった。ネズミのような生物はたびたび目撃したが。
ほとんど私の妄想のような推測だが――この星が地球であることは天体の動きから明らかである。が、こうした大きく異なる歴史を歩んだこの世界は――いわばパラレルワールドといった者なのではないだろうか。
そして、地質学的な調査は行えていないため妄想が続くが……この世界に起きた変化というのは三畳紀近辺で起きていると推測される。三畳紀近辺で起きた大きな出来事といえば大量絶滅――定説では隕石によるもの――だ。龍と呼ばれる存在が(話で聞いた限りでは、爬虫類に近しい性質を持っている)生き残っていることを鑑みるに、大量絶滅が隕石によるものであるとすれば、その隕石自体がなかったか、あるいは我々の世界よりも小規模に留まったというパラレルワールドのではないかと推測する。
さて、こうした調査結果から当然起こる疑問は――この世界のヒト(便宜的にこう呼ぶ)、及びその祖先だ。
私の調査結果は狭い範囲にとどまるが、少なくともその範囲においてサルにあたる生命はいなかった。
並行して行った調査は、元の世界に帰る方法、及びこちらの世界に私と同様訪れた者の記録だ。
幸いにして、私達が持ち込んだ道具は世界各地で珍重されているようで、手に入った日時(無論、本来の持ち主の運命は言うまでもない)の記録は比較的豊富であった。
加えて、どうも私のように長生きしコミュニティに影響を及ぼした人間の記録も幾つか手に入った。そして重要なのは――彼らがある日忽然と消えた記録が複数残っていたことだ。
その記録を漁り、日時を調べると驚くべきことに気付いた。
彼らが来た日といなくなった日の間隔が一定の周期に基いていることだ。
18年と11日、あるいは12日。
だが、この間隔が何を意味しているか長らくわからなかった。
そんなある日、私は前々から月食の予測について頼まれていたが、その際に予測した日が近づき、話題は月食でいっぱいとなった。
月食を怯えるのはあまり科学的な態度ではないと思うが、とはいえ予測を外せば私の役職の権威の低下に繋がる。前と比べて入念に計算し、情報を集めて行ったものであるから精度は高いと見ており、それほど不安はなかったが一応、空を眺めていた。
もちろん、無事に予測は当たり安堵していたとき――食の周期に関わる数字が浮かんだ。
サロス周期。日食と月食を予測するために用いられる周期である。
無論、天文学者ではないからその数は覚えていないが、これが月の周期と太陽の周期の公倍数であることは覚えている。
月の周期はざっくり29.53日、太陽の周期はざっくり346.6日だ。
この公倍数を手計算でなんとか無理やり求めると6585~6日!
うるう年を加えると18年と11日におおむね一致する。
そして――彼らが来た日の食を調べてみると、全て日食が起こっているとわかった。
自分の場合も計算しなおしてみると日食が起きていることがわかった。私がこの世界に迷い込んだとき――日食が起きている時だ――夜であったから気付かなかったようだ。
あとは、記録のサンプル数も少ないのでほとんど神に頼むに等しいが、どうも忽然といなくなった来訪者たちはみな訪れた場所付近から離れていなかったのは間違いないようだ。
つまり、その日時に元の場所に向かえば――元の世界に戻れるかもしれない。
私は興奮してこうした結果を妻に伝えた。
すると、彼女は泣き出してしまった。なんでも、置いて行かれるかもしれないと不安になった、と。
まったく、そんなことを私がするわけがない。
ホモ・サピエンスとは違った形ながらほとんど似た形態に収斂進化した知的生命体だ。
元の世界に持ち帰れれば、どれだけ貴重なサンプルになるだろう。
それは、素晴らしい科学への貢献になるだろう。