The Slaughter Dragon (5)
鳴り響いていた警鐘の音は、止まっていた。
東門から少し離れた大通り──付近の住人は皆、西の方へと避難を終えていた。
静まり返った町。
だが、無人の家々に両脇を囲まれた街路──東門から繋がっているその街路には、三人の人影があった。
ロアン、オージス、ポルネイラたちである。
「まったく、こんな早朝に来るとはね。お化粧する暇もなかったじゃないの」
そんな軽口を叩くポルネイラ。しかしその軽口の中にも、覇気が感じられる。臨戦態勢。ロアンの店に来た時とは、明らかに纏う雰囲気が違っていた。
ポルネイラは、ロアンが前に会ったときと同様に黒いサングラスをかけていた。身に着けているものも、前と同じような軽装鎧のようなジャケットとロングパンツ。長いブロンドの髪も、バンドで纏めてポニーテイルにしている。
一つだけ違うのは、腰に剣を差していないこと。その代わりに、前は背中に背負っていた細長い布包みを手に持っている。
「あいつは狡猾でしょうから、町の警戒が一番薄くなる時間帯と解って、早朝を選んだのかもしれませんね。実際、夜明け時は、深夜よりも警戒が緩くなりがちでしょう」
普段通り落ち着いた素振りのロアン。しかしその瞳の奥から放つ意志は強い。
ついに復讐を果たす時が来たという、高揚感。彼はまだそれを表に出さず、押し殺しているにすぎない。
剣など全く使えないロアンだが、今は小振りな剣を手に持っていた。服装は、クライスターに貰った狩人用の、丈夫な革のジャケットとパンツ。クライスターの薦めもあったから身に着けてきた。しかし、虐殺竜の前ではどんな防具も大した意味を成さないという事を、彼は最も理解していた。
「……ポルネイラさんのその包みは、やはり剣でしたか」
ロアンは、彼女の持つ布包みを見遣って尋ねる。
「あー……そうだよ。ずっと使ってなかった剣なんだけどね。…………あの時持ち出してから、ずっと」
意味深な事を言って、布包みに視線を向けるポルネイラ。彼女は、そのまま押し黙った。オージスがそんなポルネイラを一瞥だけして、再び東門へと伸びる街路の先に視線を向ける。
ずっと黙っているオージスは、右手で抜き身の大剣を地面に垂らしていた。服装はシャツの上に革のベストとパンツ。胸などの要所は鋼のプレートも付いているが、防御よりも動きやすさを重視した軽い服装。ロアンの服装と大差無い。
オージスもまた、虐殺竜相手には頑強な防具など無駄であると考えているのだろう。彼は、虐殺竜を自身の目で見た事が無い。それでも、戦い方を心得ている。
ロアンはそんな戦士の判断に、内心で賞賛を送る。虐殺竜は動きも素早い。重い防具で鈍重になれば、的になるだけなのだ。
「……東門を封鎖し、門が破られたら自警団が迎え撃つ、か──それで奴を止められるとは思えんな」
オージスが呟く。
この場所に最初に到着したのが彼だった。最後にロアンが合流した時に軽く挨拶して以来、初めて口を開いた。
「ええ、無理でしょう。自警団は剣などの武器と投石器で虐殺竜と戦うでしょうが、それくらいで倒せる相手なら、もうとっくに倒されています。だからあいつは、僕の造った武器で──いや、僕たちで倒すんです」
「門を破壊し、自警団を退け…………その後、このポイントに奴がやってくるという確証は、あるのか?」
「虐殺竜は、人間の臭いを嗅ぎ付ける嗅覚が鋭いはずです。この辺りの住人は皆避難を終えていて、もう誰も居ません。残された僕たちの『臭い』を目指してやってくると踏んでいます。それに、奴が動きやすい大通りは、限られていますからね」
「なるほどな……」
ロアンとオージスが話すのを止めると、あたりは静寂に包まれた。
もう誰も、話す事も無かった。虐殺竜が来るのを待つのみ。
一分──
二分──
三分──
空漠の時間が過ぎ、ついにその時は来た。
次第に大きくなってくる、人外の足音。
「……きたか」
「みたいね」
オージスとポルネイラが射抜くように街路の先を見据え、ロアンも無言で目を向ける。
小さく見えていた黒き竜の影が、見る間に大きくなる。
頭、胴、尾を平行に疾走してきた巨大な虐殺竜が、三人の少し前で速度を落として立ち止まった。
ただそこに居るだけで、空気が変わった。
殺気。狂気。狂喜。
虐殺竜の溢れんばかりの感情と意志が、場を支配しようとする。
四肢の長い爪。背中から長く伸びる翼爪。矛のような尻尾の先端。そして牙の生え揃う口腔。それら全ての武器が、既に人間の血に紅くそまっていた。
「逃ゲズニ我ニ挑モウトスル人間ガ、マダ残ッテイタノカ。ククク……オモシロイ」
虐殺竜は、愉快そうに歪んだ笑みを浮かべた。
オージスとポルネイラが、素早くロアンの前にでる。戦う技術を持つ二人と違い、ロアンは剣を持っていても、それを扱う技術や身体能力を持っていない。事前に打ち合わせしていた事もあるが、自然とそんな布陣になった。
「あんたが虐殺竜アペティード……やっと会えたわね……。この時を待っていた!」
ポルネイラは、薄汚れた布包みを勢いよく振り解き、遂にその中身を露にした。
現れたのは、銀色の打紐で巻き上げられた美しい鞘。その鞘から素早く抜かれた剣は、さらに美しいものだった。
剣身は銀色だが、かすかに薄い空色を見せる。黄金の柄には、青く清らかに輝く宝玉が埋め込まれており、鍔の形は、翼を広げた鳥を模してある。
鞘を地面に置き、右手でその剣を虐殺竜に突きつけるポルネイラ。そして彼女は左手でサングラスを外し、投げ捨てた。
「その瞳は──」
ロアンは、少し驚いて声を上げた。
ポルネイラは清澄な輝きを見せる剣を虐殺竜に突きつけて、高らかと名乗りをあげた。
「わたしの名は、エステリカ・ロブラント。貴様に滅ぼされた亡国ロブラントの王女よ。父上や母上──そして都の民らの仇、このロブラントの聖剣『ノルトゥング』で、今こそ討たせてもらう!」
隠されていた瞳は、オージスと同じ紫。彼女の隠されていた素性は、オージスと同じロブラント王国の人間であり、生き残った王女だった。
そしてオージスも巨大な剣を正眼に構えて、ポルネイラ──エステリカ・ロブラント王女に続く。
「俺の名はオージス。俺も、貴様に滅ぼされたロブラントに仕えていた。貴様に殺された王や王妃、仲間たちの無念を晴らさせてもらう!」
ポルネイラの意外な素性を知って動揺したロアンだが、すぐに冷静になった。彼にとって、それは些細な事でしかない。
(なるほど。僕の店を出た後、オージスさんはポルネイラさんの素性を教えられた、というところかな。……さて、あとは僕か──)
長き時を越えて今、再び相見えた虐殺竜。最早、虐殺竜のみしか眼中に無くなる。
二人の後方で、ロアンもまた虐殺竜に向かって慣れない剣を構えた。
「ロブラント……? ククク……スマヌナ。我ハ人間ノ国ノ名前ナド、知ラヌ。我ニ滅ボサレタ、ドコゾノ国ノ生き残リガ、ワザワザ殺サレニ来タトイウワケカ。愚カナコトダ。……ダガ貴様ハ何ダ? 今名乗ッタ二人ト違イ、劣弱ナ人間ニ見エル」
虐殺竜が、怪訝そうにロアンを見る。
「フフ……フフフフフ…………」
虐殺竜の顔を見上げ、不敵に笑うロアン。いつもの爽やかな笑みは消えた。愉悦と憎しみが入り混じった、複雑な笑み。
「十年前──この町でおまえが見逃した人間、と言えばわかりますか?」
嘗め回すようにロアンを凝視する竜。
「貴様ハ……ソウカ、アノ時ノ子供カ。ククク──我ヘノ復讐ナド考エズニ逃ゲテイレバ、モット長生キデキタダロウニ。自分ニハ戦ウチカラガ無イカラ、ソノ二人ヲ使ウトイウワケカ? 劣弱ナ人間ニ育ッタモノダナ。期待外レトハ、正ニコノ事ダ。今度コソ嬲リ殺シテヤルトシヨウ」
虐殺竜はこれから始まる殺戮の宴を前に、舌なめずりをする。しかし──
「フフフ……ハハハハハハッ!」
唐突に、ロアンが肩を揺らして狂ったように笑い声をあげた。
狂気を吐き出すように、上を向いて哂う。
哂う。大声で。
内に溜めていた全てを吐き出すように。哂う。
虐殺竜だけでなく、オージスとポルネイラも、豹変したロアンを訝しむように注視する。
ついにロアンの中の堤防は、決壊したのだ。
「貴様、何ヲ笑ウ? 狂ッタカ?」
「ヒャハハハハハ────ハァッ? 楽しいから笑ってんだよっ! この黒トカゲ野郎がァッ! 死ぬのはおまえの方だからなァッ! ハハハハハハハハハハ!」
「ホウ……? 貴様ノヨウナ劣弱ナ人間ゴトキガ、ドウヤッテ我ヲ倒スト? ヤハリ気ガ狂ッタノカ?」
ロアンは、前に踏み出す。オージスとポルネイラよりも前に出る。虐殺竜の前で、堂々と対峙する。
「ハハハハハ! 教えてやる! 教えてやるとも! よぉーくこの剣を見てみな、虐殺竜!」
ロアンが哂いながら、銀色に輝く剣を天に向かって振り上げた。
虐殺竜は、つい言われた通りにその剣を注視した。
そして、それを見たオージスとポルネイラは、いきなりその場でしゃがみ込んで身を伏せた。
だが剣には、何も起きない。
「……一体ソノ剣ガドウシタト────」
虐殺竜が剣からロアン本人に視線を移そうとした時には、ロアンも剣を下ろし、その場にしゃがみ込んでいた。
その瞬間──
ロアンのたちからニ百メートルほど離れた家屋。三階のテラス。
独り『撃竜砲』のスコープを覗く中年の男は、狩人のスキーマである。
スコープのレンズにより拡大されて見える視界の中で、遂にロアンたちと虐殺竜が接触していた。
「おいでなすったか、虐殺竜……!」
スキーマはスコープを覗きながら、素早く『撃竜砲』の照準を虐殺竜に合わした。
後は、ロアンからの合図を待つのみ。トリガーに添えた手に汗がにじむ。
『撃竜砲』最初の一発を撃つ役目を与えられたのが、彼スキーマだった。
長い間狩人として狩りを経験をしてきたスキーマにとっても、初めての『竜狩り』。
それは、いつもの狩りとは全く異なる。対象が異なるだけではない。
いつもの狩りは、獲物が人間の糧となる。狩った獲物は、食糧となり、毛皮等の道具にもなったりもする。人が生きるため。人が暮らすため。そのための狩りだ。
しかし虐殺竜を狩るのは、その肉を食べる為ではなく、その体を道具に加工する為でもない。
(人を、守る為──そして、復讐に手を貸すため、か……)
狩りは、他の生物を命を奪う。人は、様々な生物の命を奪って、生きる事ができている。そして、奪うならば、奪われもする。それが道理だろう。しかし、現実は少し違っている。
長く狩りを続けてきたスキーマにとって虐殺竜は、純粋な悪とは見なせなかった。
確かに虐殺竜は、生きる為に糧とするためでなく、娯楽として人間を殺している。人間にとって『悪者』以外の何でもないだろう。それでも、スキーマにはひっかかる事があったのだ。
(人は『殺されることが、なさすぎる』。なんでだろうな。人だけが、殺し殺され、糧となる命の連鎖から、はみ出してしまってる。全ての生物を見ると、人だけが異常なのは明らかだ。他の生物に殺されないから、人だけが増え続けている。あの竜が、その異常を修正する役を担ってるとは、考えられねぇか……?)
とは言え、虐殺竜の行いを認めるわけではない。日々狩猟している食用の獣たちも、人間に害を成す獣を駆逐するのも、彼らが悪者ではないと解っていて、人間が平穏に生きるために命を奪っているのだ。
虐殺竜が悪か、そうでないか。そんな事は、関係が無い。
(人だから、人のために殺す。どんな奇麗事を言っても、全ての生物は皆エゴイスト。利己的なもんだ。自分や、自分たちの種のために、利益になることを良しとする。そこには、善も悪もねぇんだ──いけねえな、ミップスのが、かなりうつっちまったか?)
相棒のミップスは狩りの腕もいいが、読書が好きで、勉強した色々な話を聞かせてきた。面倒くさい事を考えて話したりもしてくるが、時折それはスキーマにとっても面白く、大切な事だと思うものもあった。
(ミップスはいいとして、クライスターの奴は大丈夫だろうな……。ここでビビってヘマなんかしやがったら、ロアンたちの命に関わるんだからな)
まだ若い弟子が、しっかりやる事を祈るスキーマだった。
短い思考を巡らしている間に、スコープが写す先で、虐殺竜とロアンらが会話をするような様子が見えた。
そして、ロアンが銀色のメッキで輝く剣を天に掲げた。
(合図……!)
その直後、ロアンたちは弾道の邪魔にならないように、しゃがみ込んでくれた。
「食らいやがれ、虐殺竜!」
重い砲身を細かく動かし、照準を虐殺竜の腹部に合わせる。全神経を集中。それでいて、身体に力を入れすぎないようにする。
そしてスキーマは、『撃竜砲』の引き金を引いた。
発射火薬の爆音。テラスに落下する空薬莢。
人の目では捉えられない速度で、弾丸は刹那を飛翔した。
ズドゥッ──
異様な破砕音。
「グォアッ……!!」
竜が苦痛に呻く声。
黒き竜の右腹部に、直径九〇ミリほどの穴が空く。スキーマの『撃竜砲』から放たれた高速の弾丸は、硬い黒鱗の鎧を貫き、その奥の内臓にまで穴を穿った。
続けざまに、それぞれ別の方向から第二、第三の弾丸が、右胸部、左肩口に直撃した。それぞれミップス、クライスターが撃った弾丸である。
左肩口に命中した弾丸は、肩の鱗と肉を削りとり、左肩から生える翼爪を、付け根の筋肉から千切り飛ばした。
虐殺竜の身体が、着弾の衝撃で後ろに引かれるように仰け反り、よろめく。
腹部、胸部、左肩から血が溢れでる。
態勢をなんとか立て直した竜は、激しい痛みに喘ぎながら、怒りの形相でロアンたちを強く睨みつける。己がどこからどのような攻撃を受けたのか、虐殺竜は理解できないでいた。
「ウグォォ……ナ、ナンダ、コレハ……!?」
膝をついて伏せていたロアンが、興奮を抑えきれずに哂いながら、視線だけで虐殺竜を見上げる。
「ハハハハハハッ! まだ終わりじゃないぞおォォ!」
「ナンダト……!」
そして再び、三発の『撃竜砲』の弾丸が虐殺竜の身体を撃ち貫いた。
左腹部。右太腿。背中の左側。
「グガアァッッ!」
さらに呻き声をあげ、虐殺竜はよろめき──右太腿に受けたダメージのせいで、右足から地面に崩れた。右前足を地に着いて、なんとか身体を支える虐殺竜。
「ハハハハハハ! 痛いか? 苦しいか? 見下してた人間にやられて、悔しいか? ヒャハハハハハッ! あと一セットあるから、よく味わってくれよォッ!」
大きく見開いた狂える瞳で虐殺竜を凝視し、哄笑するロアン。穏やかな笑みと落ち着いた仕草をしていた青年の中に隠されていた感情が、完全に表に出てきていた。
そして、最後の三発が虐殺竜を撃ち貫く。再び右腹部。左肩。右肩口。右腹部は、一度目に着弾したところに再び着弾し、弾丸はついに竜の身体を貫通して飛んでいった。
「グウッ……ハァッ……!」
苦痛に漏れる弱い声。虐殺竜は着弾の衝撃で、今度こそ完全に地面に倒れ伏した。全身から大量の血が溢れ、虐殺竜の周りに血溜まりができる。『撃竜砲』の弾丸が当たった箇所は、自慢の黒い鱗の鎧も無残に撃ち貫かれ、ずたずたになっていた。
「おやおやぁ~? まだ生きているんですか。さすがですねぇ。どうでしたか、僕が造った『撃竜砲』の味は? 気に入ってもらたかなあァッ?」
先ほどより落ち着きを取り戻したロアンが立ち上がった。
彼は歪んだ笑みを浮かべて言いながら、倒れ伏す虐殺竜に近づいていく。ロアンに続いて、オージスとポルネイラも立ち上がった。
「いいザマだねぇ。もう起き上がる事もできないか? ハハハハハハ!」
嘲弄するロアン。
虐殺竜はぐったりと倒れていたが、その瞳はまだ光を失っていなかった。憎悪を込めてロアンを睨みつける。
「おや、そんな目で見られると、鬱陶しくて蹴りたくなるじゃないですか。ハハハハハハッ! ざまぁ見ろ! おまえが人を嬲って与えてきた苦痛を、おまえもよく味わえよ! よく味わってから死ね!」
瀕死の虐殺竜の頭を蹴りつけるロアン。ダメージは無いが、虐殺竜にとって屈辱的な仕打ちには違いなかった。
「グゥッ……キサマ…………好キ放題ヲッ……!」
その時、虐殺竜が急にその全身に力を込め、ガバッと上半身と頭を起こした。
「なっ……!?」
そんな力がまだ残っていると思いもしなかったロアンは、うろたえて尻餅を付いてしまう。銀メッキの剣も取り落としてしまった。
そのロアンを上から激しい憎悪を込めて睨み、竜は右腕の爪を振り上げた。
「キサマハ……キサマダケハ……殺ス!」
体重を乗せて振り下ろされる、虐殺竜の爪。ロアンは逃げる事もできず、思わず目を瞑った。
「ロアン殿!」「ロアン!」
オージスの太い叫び声と、ポルネイラの高い叫び声が重なる。
ガキィッ──
竜の爪は、ロアンを切り裂かずに止まった。
「え?」
ロアンが目を開くと、オージスの立つ姿があった。ロアンと虐殺竜の間に割って入り、巨大な剣を横に持ち、竜の爪をなんとか防いでいた。
そしてそこにポルネイラが肉迫する。
「はあぁっ!」
気合の一閃。彼女の振った聖剣ノルトゥングは、竜の右上腕を刺し貫き、筋肉を引き裂いた。そしてポルネイラは素早く飛びのいて間合いをとる。『剣の妖精』の名も頷ける、鮮やかな一撃離脱の技。虐殺竜の右腕は、まともに動かせなくなっていた。
「グゥッ! 小癪ナッ……!」
虐殺竜は最後の力を振り絞り、すぐさま左手の爪を突き出す。その爪はロアンの前に割って入ったオージスを狙っていた。
ポルネイラがそれを阻止しようと再び駆け寄るが、間に合いそうになかった。
オージスは何故かその場から動かなかった。後ろのロアンを庇うため、避ける事を躊躇ったのである。彼が避けても、後ろのロアンが爪の餌食になる。
その一瞬の光景を見たロアンの脳裏に、家族と幼馴染のエルーの姿が浮かぶ。
虐殺竜の爪で串刺しにされ、引き裂かれた彼女たち──
(嫌だ! 僕の前で、こいつに人が殺されるのはもう嫌だ!)
「やめろおぉっ!」
ロアンは立ち上がると同時に、渾身の力でオージスを突き飛ばす。
そして──竜の爪は、ロアンの腹部を貫いた。
想像を絶する激痛が走り、呻くロアン。
「ロアン殿!」
オージスの叫ぶ声。
しかし次の瞬間に、ロアンは笑い出すのだった。
「ハハハ……ハハハハハ……そうか……そうだよ。あの時も、こうすればよかったんだ…………僕がエルーの身代わりに…………なっていれば──」
弱々しく微笑を浮かべたまま、膝からくずおれるロアン。
「ククク……残念……ダッタナ。グゥッ」
爪をロアンの腹から引き抜いて、嘲笑を浮かべようとする虐殺竜だったが、今度こそ力を使い果たして倒れ込んだ。
「よくもロアン殿を!」
竜にとどめの剣を浴びせようとするオージス。しかし自慢の大剣は、最後の力を込めた虐殺竜の爪を防いだ衝撃でヒビ割れ、今にも折れそうな状態だった。
「オージス、わたしにやらせて。あなたは、ロアンを」
ポルネイラが、オージスの肩に手を置き、彼の前に出る。
「エステリカ様……わかりました」
オージスは自分の剣の状態の事もあり、彼女にとどめを譲った。そして倒れたロアンに駆け寄る。気絶していたが、まだ死んではいない。すぐに応急処置を始めた。
ポルネイラは決然して虐殺竜の頭の前に立つと、紫の双眸に想いを込めて見下ろす。
「これで終わりよ。虐殺竜──あんたも、わたしの復讐も」
竜の頭の上で剣身を下にして、聖剣ノルトゥングの柄を強く両手で握る。
「終ワリ……カ。ダガ……世界意志ニトッテハ……始マリカモシレンナ。ククク……」
虐殺竜は力無くその紅い瞳を閉じて、呟く。
「始まり? 世界意志? 何を言ってるの?」
「世界ノ均衡ヲ崩スハ……人間。我ハソレヲ……抑制スル存在」
「抑制? 人間を、殺すことで……?」
「ソウダ……我ガイナクナレバ……世界意志ハ、新タナ手段ヲ使ウダロウ。ソレガイカナルモノカ……我ニモワカラヌガナ……ククク」
「そんな馬鹿なことが……! 人間は神に作られ、愛された存在なのよ!」
「神……? ククク……ソレハ世界意志ノ事デハナイノカ? 人間ガ特別ナドト……愚カナ……サア、トドメヲ刺サンノカ?」
「言われなくても! この期に及んで、戯言など聞きはしない! 愚かな事をしてきたのはあんたの方よ、虐殺竜!」
吐きつけるような語気で言って、亡国ロブラントの王女は聖剣を突き下ろした。
竜の額に聖剣が埋まる。
もはや声も無く、虐殺竜アペティードはついに息絶えた。
百年以上も世界中の人間を脅かしてきた存在が、世界から退場した瞬間だった。
意識が遠のいていく最期の瞬間に、彼は一つの予測をした。それは、彼が出した答えでもある。
世界意志が、人間を虐殺する竜の代わりに、均衡を崩す人間の急増を抑制する方法。
虐殺竜をも倒してしまった人間を、抑制する方法。
(モシソウナラバ、愚カナ人間ニハ、コノ上ナク相応シイ。ソシテ、我ノ存在ナドヨリモ……)
そして、彼が予測したそれは正解であると、後の世で証明されることになる──