『お前の歌声など聞き飽きた』と婚約破棄された伯爵令嬢ですが、実は私の声が消えゆく呪いを解けるのは殿下だけでした——手遅れになる前に気づいてくださいね?
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
第一章 断罪と、最後の旋律
「婚約を破棄する」
王宮の大広間に、第二王子アルディス殿下の声が冷たく響き渡った。
(ああ、やっぱりこうなったか)
私、リラ・フォンターナは、数百人の貴族たちの視線を一身に浴びながら、内心で深いため息をついていた。華やかなシャンデリアの光が、まるで処刑台を照らすように私を浮かび上がらせている。
「リラ・フォンターナ。お前は聖女マリエルを陰湿にいじめ、彼女の名誉を傷つけた。そのような女を、私は妻にすることはできない」
アルディス殿下の隣で、聖女マリエルが涙を浮かべて震えている。蜂蜜色の巻き毛が揺れ、翡翠色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わ、私のせいで……リラ様が……ごめんなさい、殿下。私がいなければ……」
(うわぁ、すごい。涙って、あんなに都合よく出せるものなんだ。今度コツを聞いてみようかしら……いえ、聞く機会ももうないでしょうけど)
私は完璧な淑女の微笑みを崩さないまま、静かに佇んでいた。銀糸の髪が背中で揺れ、祖母の形見である銀の鈴のペンダントが胸元でかすかに光る。
「殿下」
私が口を開くと、広間がしんと静まり返った。
「弁明のお許しをいただけますか」
「必要ない」
アルディス殿下は私の言葉を一刀両断した。金色の髪が揺れ、深い青の瞳が冷たく私を見下ろす。
「証人は山ほどいる。お前が聖女マリエルに嫌がらせをしていたことは、すでに明らかだ」
(証人って、全員マリエル様の取り巻きじゃない。というか、私がいつ嫌がらせをしたのか、具体的に一つでも言ってみてほしいんですけど)
広間のあちこちから、ひそひそと囁く声が聞こえてくる。
「やっぱりね。前から高慢だと思っていたわ」
「銀鈴の乙女なんて呼ばれて、調子に乗っていたのよ」
「聖女様がお可哀想に……」
私は一つ一つの言葉を聞き流しながら、ふと気づいた。
喉の奥が、ひりひりと痛む。
最近、ずっとこうだ。朝起きると声がかすれていて、日が暮れる頃には囁くのもやっとになる。昨日より今日、今日より明日——私の声は、確実に消えていっている。
(そうか。もう、時間がないんだ)
祖母が亡くなる前、同じように声を失っていったことを思い出す。『お前の声は特別だから、大切にしなさい』——あの言葉の本当の意味を、私はようやく理解し始めていた。
「それから」
アルディス殿下が、さらに言葉を続けた。
「その耳障りな声で歌うのをやめろ。聞くに堪えない」
——その瞬間、私の中で何かが静かに崩れた。
耳障り。
私の歌声を、殿下はそう言った。
幼い頃から、殿下が悪夢にうなされるたびに歌ってきた。私の歌を聴くと安心すると、あんなに笑ってくれたのに。
(……ああ、そうだったんですね)
私は深く息を吸い込んだ。喉がひりつく。でも、今だけは——最後に一度だけ。
「かしこまりました、殿下」
私は優雅に一礼した。完璧な角度で、完璧な所作で。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
広間にざわめきが広がった。抵抗も、涙も、弁明もなく受け入れた私に、誰もが驚いているようだった。
「……それだけか」
アルディス殿下が、わずかに眉をひそめる。
「泣きわめくとでも思いましたか?」
私は微笑んだ。いつもの、控えめで穏やかな笑み。
「殿下のご決断を、私ごときが覆すことなどできません。聖女様とどうぞお幸せに」
(本当にお似合いですよ。お互い、中身が空っぽなところとか)
マリエルがびくりと肩を震わせた。一瞬、彼女の翡翠色の瞳に鋭い光が宿ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「リラ様……恨まないでくださいね。私、本当に殿下のことを——」
「ええ、存じております」
私はにっこりと笑った。
「聖女様は、殿下のことを心からお慕いしているのでしょう。私の出る幕ではありませんわ」
(あなたが欲しいのは殿下じゃなくて、王妃の座でしょうに。まあ、どうでもいいけど)
私は踵を返した。大広間を横切り、出口へと向かう。背中に数百の視線が突き刺さるのを感じながら、私は一度も振り返らなかった。
——振り返ったら、きっと泣いてしまうから。
◆◆◆
「お嬢様!」
廊下に出ると、侍女のニナが駆け寄ってきた。栗色のショートヘアが乱れ、そばかすの浮いた頬が涙で濡れている。
「お嬢様、あんな……あんなひどいことって……!」
「静かに、ニナ」
私は彼女の手を取り、そっと微笑んだ。
「大丈夫よ。予想通りだったもの」
「でも! あの王子、目が節穴どころか塞がってますよ! 聖女だなんて、あんな胡散臭い女のどこが——」
「ニナ」
私は少しだけ声を落とした。喉が痛い。もう、大きな声は出せない。
「……馬車を呼んで。今夜のうちに、領地に帰りましょう」
「お嬢様……」
ニナの琥珀色の瞳に、新たな涙が溢れる。彼女は私の声がおかしいことに気づいているのだ。ここ数週間、どんどんかすれていく私の声に。
「大丈夫よ」
私はもう一度、微笑んだ。
「帰ったら、やりたいことがあるの」
◆◆◆
フォンターナ伯爵領に戻った夜、私は自室の机に向かっていた。
窓の外には満月が浮かび、銀色の光が便箋を照らしている。羽ペンを手に取り、インク壺に浸す。
『拝啓、アルディス殿下』
私は、手紙を書き始めた。
決して届けることのない手紙を。
『本日は、盛大な断罪をありがとうございました。おかげさまで、社交界での私の評判は地に落ちたことでしょう』
ペンが止まる。
違う。こんなことが書きたいんじゃない。
私は便箋をくしゃりと丸めて、新しい紙を取り出した。
『拝啓、アルディス殿下』
『覚えていらっしゃいますか。十年前、初めてお会いした日のことを』
『殿下は夜になると悪夢にうなされて、誰も近づけないほど暴れていらっしゃいました。私が歌うと、嘘のように静かになって……「きれいな声だね」と、初めて笑ってくださいましたね』
涙が一滴、便箋に落ちた。インクがにじむ。
『あの日から、私は殿下のために歌い続けてきました。殿下の悪夢が消えるように。殿下が安心して眠れるように』
『でも、もう歌えません』
『私の声は、もうすぐ消えてしまうから』
喉に手を当てる。ひりひりとした痛みが、奥深くまで染み込んでいる。
『殿下。私は、あなたを愛していました』
ペンを置いて、私は窓の外の月を見上げた。
『この手紙を出すつもりはありません。届けるつもりもありません。ただ、消えてしまう前に、どこかに残しておきたかったのです』
『私の声が完全に消えたとき、この国に何が起こるのか——殿下はきっと、知らないのでしょうね』
『追伸:今日も、声が少し遠くなりました』
便箋を折りたたみ、封筒に入れる。宛名は書かない。封もしない。
これは誰にも届けない手紙だから。
私は引き出しを開けて、その手紙を一番奥にしまい込んだ。
——明日も、また一通書こう。
消えゆく声の代わりに、届かない想いを綴り続けよう。
誰にも迷惑をかけずに、静かに消えていくために。
◆◆◆
その頃、王宮では。
「殿下、今夜はお休みになれましたか?」
マリエルの甘い声に、アルディスは首を横に振った。
「……いや。また、あの夢を見た」
暗闘の中で何かが蠢く夢。喉を締め付けられるような恐怖。子供の頃から何度も見てきた悪夢が、今夜は特にひどかった。
「まあ、お可哀想に……」
マリエルが心配そうに眉を寄せる。
「私がお傍にいても、お役に立てないのですね……」
「気にするな。お前のせいではない」
アルディスは窓の外を見た。
不思議だ。リラが傍にいた頃は、こんな夢を見ることはなかったのに。
(……いや、関係ないだろう)
彼は首を振って、その考えを追い払った。
あの耳障りな歌声が聞こえなくなって、せいせいしたはずだ。そう、思い込もうとした。
遠く離れた伯爵領で、銀髪の令嬢が涙を拭いながら手紙を書いていることなど、知る由もなく。
そして——王国の深部で、古い封印がかすかに軋み始めていることにも。
第二章 消えゆく声と、綴られる想い
婚約破棄から二週間が経った。
「お嬢様、朝食の時間ですよ」
ニナの声で目を覚ます。カーテンの隙間から朝日が差し込み、私は小さく咳き込んだ。
「……おはよう、ニナ」
自分の声に、思わず眉をひそめる。昨日よりも、さらにかすれている。まるで砂を噛んだような、ざらついた響き。
「お嬢様……」
ニナが痛ましそうな顔をする。私は首を振って、いつも通りの笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。少し喉が乾燥しているだけ」
(嘘だけどね)
起き上がると、机の上に昨夜書いた手紙が置いてある。十四通目。毎晩一通ずつ、私は誰にも届けない恋文を書き続けていた。
『今日は、殿下と初めて舞踏会で踊った日のことを思い出していました——』
そんな書き出しで始まる、過去の思い出を綴った手紙。読み返すつもりはない。ただ、書かずにはいられないのだ。
声が消えていく代わりに、文字として残しておきたい。私がこの世界にいた証を。愛した証を。
「ニナ、この手紙を引き出しにしまっておいて」
「はい……」
ニナは手紙を受け取りながら、じっと私の顔を見つめた。
「お嬢様、本当に殿下に……送らないんですか」
「送らないわ」
私は窓辺に立ち、領地の風景を眺めた。緑豊かな森と、きらめく湖。穏やかで美しい故郷。
「届けたところで、何も変わらないもの」
(それに、こんな手紙を読まれるくらいなら、死んだほうがマシだわ)
自分の想いを吐露した手紙なんて、恥ずかしすぎる。あくまでも自己満足のために書いているのだ。決して——決して、いつか誰かに読んでもらいたいなんて、思っていない。
……思っていない、はずだ。
◆◆◆
午後、予期せぬ来客があった。
「王都から騎士団長がいらしています」
執事の報告に、私は眉をひそめた。
「騎士団長?」
「レイン・ヴァルトシュタイン様とおっしゃる方です。国王陛下の密命で、調査のためにいらしたとか」
(密命? 何の調査かしら)
嫌な予感がする。でも、王命とあれば断るわけにもいかない。
「お通しして」
応接間で待っていると、長身の男性が入ってきた。
漆黒の髪に、琥珀色の瞳。黒を基調とした騎士団の正装に身を包み、精悍ながらも穏やかさを湛えた顔立ち。どこか見覚えがあるような気がしたが、思い出せない。
「お初にお目にかかります、リラ・フォンターナ嬢。騎士団長のレイン・ヴァルトシュタインです」
「ようこそ、フォンターナ領へ。騎士団長様」
私は立ち上がり、礼儀正しくお辞儀をした。
「遠路はるばる、お疲れ様でございました」
——その瞬間、レイン様の瞳が大きく見開かれた。
「……懐かしい声だ」
「え?」
「いや、失礼。どこかで……いや、何でもない」
彼は首を振り、ソファに腰を下ろした。その表情には、困惑と、それから——懐かしさのような感情が浮かんでいる。
(懐かしい? 私、この方にお会いしたことあったかしら)
不思議に思いながらも、私も向かいのソファに座った。
「それで、調査とは何のことでしょうか」
「単刀直入に申し上げます」
レイン様は真っ直ぐに私を見つめた。琥珀色の瞳には、鋭い知性の光がある。
「最近、王国で奇妙なことが起きています。各地で原因不明の災害が発生し、古い封印が次々と弱まっている。国王陛下は、その原因を調査するよう私に命じられました」
「……それが、なぜ私のところに?」
「フォンターナ家は、古代から封印に関わる一族だと聞いています」
私の心臓が、どくんと跳ねた。
「特に——『声』に関する力を持つ家系だと」
(……まさか)
私は表情を変えないように努めながら、内心で動揺していた。
「さあ、私には何のことか」
「本当に?」
レイン様が、少し身を乗り出す。
「あなたの声は、以前から掠れていましたか?」
——息が止まった。
「……何を、おっしゃっているの」
「隠さなくても結構です」
彼の声は静かで、でも確信に満ちていた。
「あなたの声が日に日に消えていっていること。そして、それが王国の封印と関係していること。私は知っています」
沈黙が落ちた。
私はじっとレイン様を見つめた。彼もまた、私から目を逸らさない。
(……この人、何者なの)
普通の騎士団長が知っているはずのない情報だ。国王陛下の密命というのも気になる。
「仮に」
私はゆっくりと口を開いた。もう、誤魔化せそうにない。
「仮に、あなたの言う通りだとして。それが何か?」
「助けたいと思っています」
「——は?」
思わず素が出た。慌てて咳払いをして、淑女の仮面を被り直す。
「あなたに助けられる義理はありませんわ」
「義理ではありません」
レイン様は静かに、でも力強く言った。
「私には、あなたに恩がある」
「……恩?」
「覚えていませんか。十五年前——森で迷子になった男の子を、歌声で導いてくれた女の子のこと」
私の記憶の奥底で、何かがかちりと嵌まった。
あれは、私がまだ三歳の頃。領地の森に迷い込んだ男の子がいて、私は祖母に教わった歌を歌いながら、彼を屋敷まで導いた。泣きじゃくる男の子の手を引いて、歌い続けた。
『きれいな声だね』
男の子は、涙を拭いながらそう言った。
『もっと聴かせて』
——あの子が、この人だったの?
「……覚えています」
私は小さく呟いた。声がさらに掠れる。
「あの日から、私はずっとあなたを探していました」
レイン様は、どこか照れくさそうに視線を逸らした。
「あなたの歌声を、もう一度聴きたいと思っていた。だから——」
彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「あなたの声を守りたい」
◆◆◆
その夜、私はまた手紙を書いていた。
『拝啓、アルディス殿下』
『今日、不思議な方がいらっしゃいました。騎士団長のレイン・ヴァルトシュタイン様という方です』
『十五年前、私が森で助けた男の子だったそうです。覚えていますか? 殿下に「きれいな声だ」と言われたとき、私が「二人目です」と答えたこと。一人目が、彼だったのです』
ペンが止まる。
殿下は覚えているだろうか。私の言葉を、私の声を、私の歌を。何一つ覚えていないのだろう。だから、あんなことが言えたのだ。
『レイン様は、私の声を守りたいとおっしゃいました』
『おかしな話ですね。殿下は「耳障りだ」とおっしゃったのに』
涙が一滴、便箋に落ちた。
『誰かに「守りたい」と言われたのは、初めてです』
『殿下は、一度もそんなこと言ってくださいませんでしたね』
『追伸:今日も、声が少し遠くなりました。もう、普通の声では話せません』
◆◆◆
翌日から、レイン様は領地に滞在することになった。
「古文書を調べさせていただきたい」
彼は父の書斎にこもり、フォンターナ家に伝わる古い文献を読み漁った。私も時々様子を見に行ったが、彼は驚くほど集中していた。
「フォンターナ家の『声』の力は、古代の封印を維持するためのもの……。代々、声を持つ者が力を使うと、少しずつ命を削られる……」
彼が独り言のように呟いているのが聞こえた。
「リラ嬢のお祖母様も、同じだったのですね」
「……ええ」
私は小さく頷いた。父から聞いた話を思い出す。
「祖母は、五十歳で亡くなりました。最後は、声どころか……息をすることも」
言葉が詰まった。
「あなたも、同じ道を辿ろうとしている」
レイン様が、静かに言った。
「……そうですね」
私は窓の外を見た。
「でも、仕方がないでしょう? 私の声が封印を維持しているなら、私が消えれば——」
「消えさせない」
強い言葉だった。振り返ると、レイン様が真剣な表情で私を見つめていた。
「必ず、方法を見つけます」
「……どうして、そこまで」
「言ったでしょう」
彼は少しだけ微笑んだ。不器用な、でも温かい笑み。
「あなたの歌声を、もう一度聴きたいんです」
◆◆◆
同じ頃、王都では。
「殿下、また悪夢ですか?」
マリエルの声に、アルディスは苛立ちを隠さなかった。
「うるさい。放っておいてくれ」
「で、でも——」
「一人にしてくれと言っている!」
怒鳴りつけると、マリエルは怯えたように部屋を出ていった。
アルディスは頭を抱えた。最近、悪夢がひどくなっている。毎晩のように闇に飲み込まれる夢を見て、汗だくで目を覚ます。
リラがいた頃は、こんなことなかったのに。
——いや、違う。関係ない。
そう思い込もうとしても、心のどこかで疑念がくすぶり続けていた。
そして、机の上には報告書が積まれている。王国各地で発生している原因不明の災害。古い封印の弱体化。不気味な兆候。
「封印が……弱まっている?」
報告書を読みながら、アルディスは眉をひそめた。
騎士団長のレインが、フォンターナ領に調査に向かったという。なぜ、あの伯爵領に?
リラの顔が、頭をよぎった。
銀色の髪と、紫水晶の瞳。澄んだ歌声。
——耳障りな声だと、言ってしまった。
なぜか、胸が締め付けられるような気がした。
「……馬鹿馬鹿しい」
アルディスは首を振って、報告書を放り出した。
あの女のことなど、もう関係ない。自分にはマリエルがいる。聖女が。救国の聖女が。
——そう信じて疑わなかった。
この時の彼は、まだ知らない。
聖女と呼ばれる女が、どれほどの嘘をついているか。
そして、追い払った銀髪の令嬢が、どれほどの犠牲を払って王国を守ってきたか。
全てを知るのは、手遅れになってからだった。
第三章 暴かれる真実と、遅すぎた後悔
婚約破棄から一ヶ月が経った。
私の声は、もう囁くことしかできなくなっていた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
ニナの声に、私は小さく頷いた。声を出すのも辛い。喉の奥がひりつき、言葉を発するたびに針で刺されるような痛みが走る。
「……ありがとう」
かすれた声。もはや、歌うことなど夢のまた夢だ。
レイン様は相変わらず古文書を調べ続けている。毎日のように書斎にこもり、解呪の方法を探してくれていた。
「リラ嬢」
その日の午後、レイン様が珍しく興奮した様子で私の部屋に来た。
「見つけました」
「……何を?」
「解呪の方法です」
私の心臓が跳ねた。
「古い文献に記されていました。『封印の歌姫の呪いを解くには、心から愛する者の涙が必要である』と」
「……涙?」
「ええ。ただし——」
レイン様の表情が曇る。
「条件があります。涙を流す者は、歌姫を『真に理解し、心から愛している』者でなければならない。そして——」
彼は言葉を切った。
「歌姫もまた、その者を愛していなければならない」
沈黙が落ちた。
「……つまり」
私は小さく息をついた。
「相思相愛でなければ、解呪できないということですね」
「はい」
(なんて皮肉なの)
私が愛しているのは、私を捨てた人。そして、私を理解してくれているのは——
レイン様を見上げた。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめ返している。
「リラ嬢」
彼が、静かに言った。
「私は、あなたを——」
「レイン様」
私は首を横に振った。
「……今は、言わないでください」
「でも——」
「お気持ちは、嬉しいです。でも、私は——」
言葉が詰まった。
私は、まだ殿下を愛している。婚約破棄されても、罵倒されても、それでも——心のどこかで、諦めきれないでいる。
(馬鹿みたい)
自分でも呆れるほど、愚かだと思う。
「……すみません」
私は俯いた。レイン様は何も言わず、ただ静かに私の肩に手を置いた。
「謝らなくていい」
彼の声は穏やかだった。
「あなたの気持ちが変わるまで、私は待ちます。そして——」
彼の手に、わずかに力がこもった。
「あなたを守り続けます」
◆◆◆
事態が急変したのは、その三日後だった。
「大変です、お嬢様!」
ニナが血相を変えて飛び込んできた。
「王都から、第二王子殿下がいらっしゃいました!」
私は、手にしていた羽ペンを落とした。
◆◆◆
応接間に向かうと、アルディス殿下が立っていた。
金色の髪は乱れ、深い青の瞳には隈が浮かんでいる。以前の傲慢さは影を潜め、まるで別人のようにやつれていた。
「……リラ」
殿下が、私の名を呼んだ。
「……殿下」
私は最小限の声で応じた。これ以上声を出すと、咳き込んでしまう。
「お前の声……」
殿下の顔色が変わった。
「どうしたんだ。なぜ、そんなにかすれている」
「お気になさらず」
私は淡く微笑んだ。いつも通りの、控えめな笑み。
(今さら心配されても、困るんですけど)
「それで、ご用件は何でしょうか」
「用件……」
殿下が、一歩踏み出した。
「リラ、お前に謝りたいことがある」
「謝る?」
「ああ。俺は——俺は、とんでもない過ちを犯した」
殿下の声が震えている。
「聖女マリエルは、偽物だった」
——やっぱり。
私は内心でため息をついた。
(気づくのが遅すぎるのよ)
「彼女には、聖女の力などなかった。それどころか——」
殿下の拳が、ぎりりと握りしめられた。
「お前の力を、奪おうとしていたんだ」
「……存じておりました」
「なに?」
私は静かに頷いた。
「マリエル様が私の近くにいると、妙に調子が良くなることには気づいていました。最初は偶然かと思いましたが……私の声が急速に衰え始めたのは、彼女が社交界に現れてからでしたから」
「知っていたのか……なぜ、何も言わなかった!」
「言って、信じてくださいましたか?」
私の問いかけに、殿下は言葉を詰まらせた。
「聖女様を悪く言えば、また『いじめ』だと思われたでしょう。それに——」
私は窓の外を見た。
「殿下は、彼女を選んだのですから」
沈黙が落ちた。
「……リラ」
殿下が、私の前に跪いた。
「許してくれ。俺は愚かだった。お前の真価を見抜けなかった。お前がどれほど俺を——この国を守ってきたか、何も知らなかった」
私は殿下を見下ろした。かつて愛した人。今も、心のどこかで愛している人。
「お前の声が、封印の鍵だったことも知った。お前が命を削って、この国を守っていたことも」
殿下の声が、震える。
「頼む。俺のところに戻ってきてくれ。お前を——守らせてくれ」
◆◆◆
(……今さら、何を言っているの)
私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。喉が痛い。でも、これだけは言わなければ。
「殿下」
私は、かつて愛した人の顔を見つめた。
「遅いのです」
「リラ……」
「私の声は、もう戻りません」
殿下の顔が、絶望に歪む。
「嘘だ」
「嘘ではありませんわ」
私は首を横に振った。
「マリエル様に力を吸い取られ続けた結果、私の声は限界を超えてしまいました。もう——歌うことはおろか、普通に話すことすら」
咳き込んだ。喉から、何か温かいものがこみ上げてくる。
「リラ!」
「……大丈夫です」
私は口元を押さえた手のひらを見た。うっすらと、血がにじんでいる。
(ああ、もう本当に時間がないんだ)
「殿下」
私は、最後の力を振り絞って言った。
「私はあなたを、愛しておりました」
殿下の瞳が、大きく見開かれた。
「婚約破棄されても、罵倒されても。それでも、ずっと——」
涙が一筋、頬を伝った。
「でも、もう遅いのです」
「遅くない! 俺は——」
「殿下」
私は、静かに首を横に振った。
「私の声は、もうあなたには届きません」
◆◆◆
その夜、殿下は屋敷に泊まることになった。
私が休んでいる間、殿下は屋敷の中を歩き回っていたらしい。そして——私の部屋に、忍び込んだ。
翌朝、ニナから聞いた話だ。
「殿下が、お嬢様の机を見ていました」
「……机?」
「はい。引き出しの中の——手紙を」
私の顔から、血の気が引いた。
「全部、読まれたそうです」
◆◆◆
応接間に向かうと、殿下が茫然と座っていた。
その手には、私が書き続けた恋文の束が握られている。三十通以上。全て、殿下に宛てた手紙。全て、届けるつもりのなかった手紙。
「……リラ」
殿下が、掠れた声で言った。
「これは、全部——俺に宛てた手紙だったのか」
「……ご無礼を。勝手に机を漁らないでいただきたいですわね」
精一杯の皮肉を言ったつもりだったが、声がかすれて迫力がない。
「『今日も、声が少し遠くなりました』——」
殿下が、手紙の一節を読み上げた。
「毎日、この一文が添えられている。日付順に読んでいくと——」
彼の声が、震えた。
「お前の声が、少しずつ消えていくのが分かる」
「……だから何です」
「俺への恋文を、毎日書いていたんだな。届けるつもりもないのに」
「勝手に読んだ人に、とやかく言われる筋合いはありませんわ」
「リラ——」
殿下が、私に近づいてきた。
「俺は——お前を愛していたのに、気づかなかった」
「今さらです」
「分かっている。分かっているが——」
殿下の目から、涙がこぼれ落ちた。
「頼む。俺に——お前を救わせてくれ」
◆◆◆
私は、殿下を見つめた。
涙を流す殿下。ようやく全てを知り、後悔している殿下。
——でも。
「殿下」
私は、静かに言った。
「あなたは、私を『理解』していますか?」
「え?」
「解呪には、『真に理解し、心から愛している者の涙』が必要だと聞きました」
殿下の顔色が変わった。
「あなたは今、私を愛しているとおっしゃいました。でも——」
私は首を横に振った。
「あなたは最後まで、私を理解していなかった」
「リラ……」
「私が何を考え、何を感じていたか。私の声に何が宿っていたか。何一つ、見ようとしなかった」
殿下の涙が、頬を伝って落ちる。
「だから——」
私は、ゆっくりと目を伏せた。
「あなたの涙では、私を救えないのです」
◆◆◆
その時、扉が開いた。
「リラ嬢」
レイン様が、息を切らせて入ってきた。
「大変です。王都から報せが——聖女マリエルの正体が公になりました。彼女は——」
「ああ、偽物だったのでしょう?」
「それだけではありません」
レイン様の表情が、厳しくなる。
「彼女と、その兄のルシアン・セレスティア。二人は共謀して、あなたの能力を奪おうとしていました。目的は——」
彼は、殿下を一瞥した。
「封印の力を手に入れ、王家を支配すること。マリエルが王妃になれば、王国の根幹を握れると考えていたようです」
殿下の顔が、蒼白になった。
「俺は……そんな女に……」
「騙されていたのですよ、殿下」
レイン様の声は冷たかった。
「リラ嬢がどれほど警告しても、あなたは聞く耳を持たなかった。その結果がこれです」
「レイン——」
「王都では今、聖女の処分が議論されています。国王陛下は、真実を知って激怒されました」
殿下が、よろめいた。
「そして——リラ嬢の功績を、公に認めるとのことです」
◆◆◆
私は、窓の外を見た。
(功績、か)
今さら功績を認められても、声は戻らない。命を削り続けた日々は、取り返せない。
「リラ」
殿下が、私の名を呼んだ。
「俺は——お前に償いたい」
「償い?」
「何でもする。お前のために、何でも——」
私は、静かに殿下を見つめた。
「では、一つだけ」
「何だ」
「——私に、構わないでください」
殿下の顔が、絶望に歪んだ。
「リラ……」
「もう、疲れたのです」
私は、かすかに微笑んだ。
「あなたのために歌い続けた十年間。報われないと分かっていても、諦められなかった愚かな私。でも——」
涙が、一筋頬を伝った。
「もう、終わりにしたいのです」
◆◆◆
その夜、私は最後の手紙を書いた。
『拝啓、アルディス殿下』
『この手紙が、最後になるかもしれません』
『私の声は、もうほとんど出ません。でも、不思議と穏やかな気持ちです』
『あなたを愛したこと、後悔はしていません。たとえ報われなくても、あなたのために歌えた日々は、私の宝物でした』
『さようなら、殿下』
『どうか——お幸せに』
『追伸:今日で、声が完全に消えました』
◆◆◆
ペンを置いて、私は窓の外の月を見上げた。
もう、一言も声が出せない。
明日には、私は——
そう思ったとき、扉がノックされた。
「リラ嬢」
レイン様の声だった。
「入っていいですか」
私は立ち上がり、扉を開けた。声で返事ができないから。
「……やはり、もう」
私の様子を見て、レイン様は全てを悟ったようだった。
「リラ嬢」
彼が、私の手を取った。
「明日、最後の封印の歌を歌う気ですね」
私は、小さく頷いた。
「声が出なくても——魂を込めれば、封印は完成する。そうでしょう?」
私は、目を伏せた。
「リラ嬢」
レイン様が、私の顎を優しく持ち上げた。琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「私は、あなたを愛しています」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「あなたの声だけでなく、あなた自身を。強さも、弱さも、毒舌も——全てを含めて」
「……レイン様」
声は出なかった。でも、唇が彼の名を形作る。
「あなたは、殿下を愛していた。今もそうかもしれない。でも——」
彼が、私の頬に手を添えた。
「私にも、機会をください」
涙が、こぼれ落ちた。
「あなたを理解し、あなたを守り、あなたを愛し続ける機会を」
私は——泣きながら、彼を見つめた。
十年間、報われない恋をし続けた。愛しても愛しても、振り向いてもらえなかった。
でも、目の前に——最初から私を理解し、私を守ろうとしてくれた人がいる。
「……レイン様」
声にならない声で、私は彼の名を呼んだ。
そして——生まれて初めて、自分から誰かを抱きしめた。
第四章 届いた声と、新しい朝
夜明け前。
私は、領地の奥にある古い祭壇の前に立っていた。
ここは、代々フォンターナ家の『声』の力を持つ者が、封印を維持するために歌を捧げてきた場所。祖母も、その前の先祖たちも——皆、ここで最後の歌を歌った。
「リラ」
父が、私の傍に立った。銀髪に紫の瞳。私と同じ特徴を持つ父の顔は、涙で濡れていた。
「父上」
声にならない唇の動きで、私は父に呼びかけた。
「……すまなかった」
父が、私を抱きしめた。
「お前の母も、祖母も——同じ運命を辿った。それを知りながら、私は何もできなかった」
私は、首を横に振った。
(父上のせいではありません)
声が出せないから、その想いを伝える術がない。でも、父には伝わったようだった。
「お前は——幸せになる資格がある」
「……父上」
「だから——」
父が、私の肩を掴んだ。
「諦めるな」
◆◆◆
祭壇の周りには、何人かの人影があった。
レイン様。ニナ。親友のオリヴィア。
そして——アルディス殿下。
「リラ」
殿下が、一歩踏み出した。その顔は、一晩で十歳も老けたように見える。
「頼む。俺に——」
「殿下」
レイン様が、殿下の前に立ちはだかった。
「彼女の邪魔をしないでください」
「邪魔じゃない! 俺は——」
「あなたはもう、十分に彼女を傷つけました」
レイン様の声は、静かだが厳しかった。
「彼女が選んだのは、あなたではない」
殿下の顔が、絶望に歪んだ。
「リラ……」
私は、殿下を見つめた。かつて愛した人。今でも、心のどこかで大切に思っている人。
でも——もう、それだけでは足りないのだ。
私は、静かに首を横に振った。
そして——祭壇に向かって歩き出した。
◆◆◆
祭壇の前に立つと、不思議な感覚があった。
体の奥から、何かが湧き上がってくる。声を失っても、魂の奥底に眠る『力』は消えていなかった。
(さあ、歌おう)
声は出ない。でも、心で歌える。魂で歌える。
私は目を閉じ、祖母から教わった封印の旋律を思い浮かべた。
——その時だった。
「待ってくれ」
誰かの声がした。
「待ってくれ、リラ」
目を開けると、アルディス殿下が祭壇の前に駆け寄ってきていた。レイン様が止めようとしたが、殿下は振り切って私の前に跪いた。
「俺に、最後に一つだけ言わせてくれ」
私は、殿下を見下ろした。
「お前を愛していた。それは——今も変わらない」
殿下の目から、涙がこぼれ落ちた。
「お前の声が好きだった。お前の歌が好きだった。お前が傍にいてくれるだけで、どれほど安心したか」
「……」
「なのに俺は、それを『耳障り』だと言った。お前を追い払った。愚かだった」
殿下の涙が、地面に落ちる。
「お前を救えなくて、すまなかった。お前の真価を見抜けなくて、すまなかった。お前を——傷つけて、すまなかった」
私は、静かに殿下を見つめた。
(殿下……)
「だから——せめて」
殿下が、私の手を取った。
「俺の涙が、お前の役に立つなら。何度でも泣く。何度でも——」
◆◆◆
——その瞬間、私は気づいた。
殿下の涙が、私の手に落ちた場所が——かすかに、温かく光っている。
(まさか)
「リラ嬢」
レイン様が、静かに私の傍に来た。
「解呪の条件は、『真に理解し、心から愛している者の涙』です」
「……ええ」
「殿下は、あなたを理解していなかった。でも——」
レイン様が、私の頬に手を添えた。
「私は、あなたを理解しています」
「レイン様……」
「そして、あなたを心から愛しています」
彼の琥珀色の瞳が、潤んでいた。
「だから——」
彼の目から、涙がこぼれ落ちた。
「私の涙を、受け取ってください」
◆◆◆
レイン様の涙が、私の頬に落ちた瞬間——体の奥で、何かが弾けた。
温かい光が、全身を包み込む。喉の奥の痛みが、少しずつ消えていく。
「リラ……」
殿下の呆然とした声が聞こえた。
「お前の……体が……」
私の体が、淡い銀色の光に包まれていた。祖母の形見の銀の鈴のペンダントが、共鳴するように輝いている。
(これは……)
「封印の力と、呪いが——解けていく」
レイン様が、驚きの声を上げた。
「リラ嬢、試してみてください。声を——」
私は、恐る恐る口を開いた。
「……あ」
——声が、出た。
かすかだけど、確かに。
「レイン様……」
「リラ嬢……!」
レイン様が、私を抱きしめた。
「声が……戻った……」
私の目から、涙が溢れた。
「完全には戻っていません。でも——」
レイン様が、私の顔を覗き込んだ。
「生きていける。あなたは——生きていけるんです」
◆◆◆
「リラ」
殿下が、立ち尽くしていた。
「お前の声が……俺ではなく、あいつの涙で……」
私は、殿下を見つめた。
「殿下」
私の声は、まだかすかにかすれている。でも、言葉を伝えることはできた。
「あなたを愛していました」
「……ああ」
「でも——」
私は、レイン様の手を握った。
「私は、この人を選びます」
殿下の顔が、苦悶に歪んだ。
「なぜだ。俺だって、お前を——」
「殿下」
私は、静かに言った。
「あなたは私を『愛していた』。でも、『理解していなかった』」
「……」
「愛だけでは、足りないのです。理解がなければ——」
私は、レイン様を見上げた。琥珀色の瞳が、優しく私を見つめ返している。
「本当の愛には、ならないのです」
殿下は、何も言えなかった。ただ、涙を流しながら私たちを見つめていた。
「さようなら、殿下」
私は、深く一礼した。
「どうか、お幸せに」
◆◆◆
王都に戻ったアルディス殿下は、聖女マリエルとの婚約を正式に破棄した。
マリエルとその兄ルシアンは、反逆罪で捕らえられた。王国を欺き、封印の力を奪おうとした罪。彼らは全ての爵位を剥奪され、国外追放となった。
「殿下、お待ちください!」
最後まで、マリエルは殿下に縋りついた。
「私を見捨てないで! 私は——あなたを愛して——」
「触るな」
殿下は、冷たくマリエルを突き放した。
「お前に騙されていた自分が、情けない」
「嘘よ! 私は——」
「連れていけ」
衛兵たちに引きずられていくマリエル。その姿を、殿下は一度も振り返らなかった。
◆◆◆
数ヶ月後。
フォンターナ領に、穏やかな春が訪れていた。
「リラ嬢」
レイン様が、庭園で私を呼んだ。
「はい、レイン様」
私の声は、まだ完全には戻っていない。大きな声は出せないし、歌うこともできない。でも——大切な人と話すには、十分だった。
「手紙が届きました」
「誰から?」
「殿下から」
私は、手紙を受け取った。封を開けると、アルディス殿下の筆跡で、こう書かれていた。
『リラへ』
『俺は、お前に償うことができない。お前を傷つけたことは、一生の後悔として背負っていく』
『でも、お前が幸せであることを願っている。レインは、俺よりもずっとお前を理解している。彼となら——お前は幸せになれる』
『お前が書いた手紙は、全て俺が預かっている。いつか——いつか、お前が「返して」と言ってくれたら、返そうと思う』
『それまで、大切に保管しておく。お前の想いを——忘れないために』
『アルディス』
私は、手紙を折りたたんだ。
「……殿下らしいですね」
「そうですか?」
レイン様が、私の隣に座った。
「あの手紙は、返してもらわなくていいのですか?」
「いいえ」
私は、首を横に振った。
「あれは——私の過去の恋の記録です。殿下に持っていてもらうのが、相応しいでしょう」
「……そうですか」
レイン様が、私の手を取った。
「では、これからは——」
「はい」
私は、彼を見上げて微笑んだ。
「これからは、あなたに手紙を書きます」
「私に?」
「ええ。もちろん——」
私は、彼の手を握り返した。
「ちゃんと届ける手紙を」
レイン様が、不器用に笑った。
「楽しみにしています」
◆◆◆
その夜、私は新しい便箋を取り出した。
『拝啓、レイン様』
『今日は、とても穏やかな一日でした——』
ペンを走らせながら、私は窓の外の月を見上げた。
声は完全には戻らない。以前のように歌うことは、もうできないかもしれない。
でも——声が出せなくても、想いを伝える方法はある。
手紙を書くこと。傍にいること。手を繋ぐこと。
『追伸:明日は、一緒に湖を見に行きませんか?』
便箋を折りたたみ、封筒に入れる。今度は、宛名もちゃんと書く。封もする。
「ニナ」
私は侍女を呼んだ。
「この手紙を、レイン様に届けてくれる?」
「はい、お嬢様!」
ニナが、嬉しそうに駆けていく。
私は窓辺に立ち、夜空を見上げた。
『消えゆく声』は、もう消えない。
届かなかった恋は、新しい愛になった。
そして私は——ようやく、自分の幸せを選ぶことができた。
「レイン様」
かすかにかすれた声で、私は彼の名を呼んだ。
「……ありがとう」
◆◆◆
エピローグ
一年後、王国騎士団長レイン・ヴァルトシュタインと、フォンターナ伯爵令嬢リラの婚約が発表された。
王都では大きな話題となったが、二人は静かに幸せを噛み締めていた。
「リラ」
「はい、レイン様」
「結婚したら——『様』はやめてくれ」
「では、何とお呼びすれば?」
「……レイン、で」
私は、くすりと笑った。
「では——レイン」
彼の顔が、かすかに赤くなった。不器用な人だ。でも、そこが好きだった。
「リラ」
「はい」
「愛している」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「……私も」
かすかにかすれた声で、でも——確かに。
「私も、愛しています」
彼が、私を抱きしめた。
声は完全には戻らなかった。でも——大切な人には、ちゃんと届く。
それで、十分だった。
——届かなかった恋文は、新しい愛の物語の始まりになった。
(完)




