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静かに暮らしたい最強は、どうやら巻き込まれ体質のようです  作者: じゅくすい
第7章

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 前室に、ようやくまともな静けさが戻っていた。


 さっきまで肌の裏を這い、内臓を直接撫で回すようだった嫌な圧は完全に消え去った。石壁の継ぎ目も、最初からただの強固な古い壁であったかのように、冷たく沈黙している。

 呼吸を阻害するほどの淀みが晴れたことで、遠くからは、再び祭りのざわめきがかすかに届くようになっていた。壁の向こうの表通りでは、世界大会の祝祭が何事もなかったように続いているのだろう。


 その事実が、今のシオンにとっては妙に腹立たしかった。


 シオンは石碑の前に立ったまま、手の中の『偽物の鍵』を見下ろす。

 もう、あの空間を歪ませるような嫌な感触はない。ただの精巧で古びた金属器具にしか見えなかった。だが、ついさっきまでこれが世界の理をこじ開ける起点になっていたことを思えば、気味が悪いことに変わりはない。


「……終わった、のか……?」


 壁際でへたり込んでいた男が、ようやく震える声を絞り出した。

 シオンはそちらを振り返り、これ以上ないほど露骨に嫌そうな顔をした。


「少なくとも、お前がこれ以上余計なことをしなければ済む程度にはな」

 

「お、俺はただ、依頼人に言われた通りに――!」

 

「まだ言ってるのか。それを今ここで言い訳として続けるなら、今度は本気で黙らせるぞ」


 感情の抜け落ちた声で低く言い切ると、男はヒュッと喉をひきつらせて口を閉じた。


 さっきまでなら、この小者をどうするか考える余裕もなかった。だが今は違う。前室の異常な事態はひとまず沈静化した。なら、次に処理すべきはこの下っ端の実行犯だ。

 もっとも、考えるまでもなくシオンの中で結論は出ていた。


 シオンはひどく面倒そうに、深い息を吐き出す。


「……行け」


 男が信じられないものを見るように目を剥いた。


「……は?」

 

「耳まで悪くなったのか。だから、行けって言ってるんだ。今すぐここから消えろ」

 

「お、お前……俺を捕まえて、警備隊に突き出さないのか!?」


「別にお前を正義感で捕まえにきたわけじゃない。そんな面倒なこと、誰がするか」


 それが半分本音で、残り半分は別の合理的な理由だった。

 こいつはただの末端の駒だ。何も知らないとは言わないが、少なくとも今この場で起きたことの『本質』は一切理解していない。怪しい依頼人から鍵を渡され、言われた通りにここに挿し、宝物庫か何かを開けて祭器を盗み出すつもりだった。男の怯え方を見るに、そこまでは本当だろう。


 だが、その先は絶対に知らない。

 だから、ここでこいつを締め上げて尋問しても大して意味はないし、警備隊に突き出せば、シオン自身が「なぜこんな場所にいたのか」「どうやってあの異常事態を収拾したのか」という致命的な事情聴取を受けるハメになる。

 そんなことは、平穏第一主義のシオンにとって絶対に避けねばならない事態だった。


「次はないぞ」

 

 シオンは手の中の鍵を軽く持ち上げて見せた。


「これは僕が預かる。あと、今夜ここで見たものは全部忘れろ」

 

「わ、忘れられるわけ――」

 

「なら、夢に出ないように毎晩精霊王にでも祈ることだな」


 我ながら適当なことを言っている自覚はあった。だが、男にはそれで十分だったらしい。

 青ざめた顔で何度も何度も頷き、立ち上がる足をもつれさせながら、ほとんど転がるような勢いで前室の入口へ走っていく。

 その途中で、男は一度だけシュナの方を見て――すぐに怯えたように目を逸らした。シオンに対する恐怖とは別種の、人ならざるものに対する本能的な怯えがその顔に浮かんでいた。


 情けない足音が、薄暗い通路の奥へと遠ざかっていく。


 前室には、シオンとシュナ、それに影に潜むディアナの気配だけが残された。


 しばらく、誰も口を開かなかった。

 完全に閉ざされた石壁。沈黙した石碑。シオンの掌に残る冷たい鍵。そして、まだ完全には薄れきっていない異物の気配の余韻。どれもが現実感に欠けていて、だからこそ変に鮮明に網膜に焼き付いている。


「……逃がしてよかったの?」


 先に沈黙を破ったのは、シュナだった。

 問いというより、確認に近い平坦な声だった。逃がしたことを責めてもいないし、肯定もしていない。ただ、シオンの判断基準を測っているような響きがある。


「よくはないだろうな」

 

 シオンは鍵を見たまま、素っ気なく答えた。

 

「でも、あれを警備隊に突き出して事情聴取されるのは面倒だからな」


「……面倒」

 

「僕はそういう男だ。面倒事は御免なんだ」


 シュナはそれにすぐには返さなかった。

 代わりに、ゆっくりと石碑へ視線を向ける。中心の窪みも、周囲の紋様も、今はただの古い石に戻っている。けれど、彼女の特殊な目が見ているものはたぶん、その表面の物理的な状態ではない。


「これ、また起きる」

 

 静かな、しかし確信に満ちた断定だった。

 シオンは再び眉をひそめる。

 

「嫌なこと言うな」

 

「事実だから」

 

「そういう事実を、口に出されるのが嫌だって言ってるんだ」


 シュナはようやく、石碑からシオンへと視線を移した。

 そのガラス玉のような瞳には、敵意も戸惑いもなかった。ただ、以前より少しだけはっきりとした『確信』の光が宿っていた。

 今夜ここで、自分が感じたシステム外の異常と、シオンの中にある何かが無関係ではないと、彼女の中で決定的な線が一本繋がってしまったのだろう。


「あなた、何者なの?」

 

 問いは短く、鋭かった。


 シオンは一拍置いてから、わざとらしく肩を竦めた。

 

「それを聞くなら、まずお前からだろ。こんな時間に、こんな場所を嗅ぎ回っていたやつが」


「わたしは、わたし」

 

「答える気ないだろ」

 

「あなたもないじゃない」

 

「なら、この話は終わりだな」


 そう言って踵を返そうとしたところで、背中越しにシュナの声がまた落ちる。


「でも。あなたと一緒にいるその精霊が、ただの『精霊』じゃないことくらいは知ってる」


 シオンの足が、ピタリと止まる。

 図星だった。

 精霊ではない。彼女とその相棒、アリューシアがそれを理解しているからこその、選抜戦からの異常な執着と接触だったのだろう。考えていたよりはずいぶんと早い答え合わせになってしまったが、いずれこうなることは分かっていた。


「……なんのことだか、意味がわからないな」

 

 シオンは背を向けたまま、決して感情を交えずに答える。


「……」

 

 そのあからさまな誤魔化しに、シュナはほんのわずかだけ目を細めた。

 まるで、それで「ようやく正しい答えをひとつ聞いた」と納得したかのように。


『……ふふっ。思ったよりも、話の分かる悪い子ではなさそうね』

 

 ディアナが影の中から、シュナを値踏みするように愉しそうに囁く。


 シオンは影の声を無視して、背中越しのシュナに告げた。

 

「今夜のことは、勝手に喋るなよ」

 

「誰に?」

 

「誰でもだ。大会運営でも、学院の教師にでも」

 

「……あなたも黙っているの?」

 

「当たり前だろ」

 

「なら、問題ない」


 あまりにもあっさりした、取引成立の返事だった。シオンは怪訝に思い、少しだけ振り返る。

 シュナは相変わらず、読みにくい無表情のままだった。


「今は、まだ」

 

 小さく付け足されたその“まだ”に何が含まれているのか、シオンはあえて聞く気にはなれなかった。聞けばまた、致死量の面倒が増える。そういう予感だけは、ひどくはっきりしている。


 だからシオンは、手の中の厄介な鍵を外套の内ポケットへ乱暴に放り込み、短く言った。


「……帰るぞ」

 

「そう」


 それだけだった。

 引き止めもしない。追ってもこない。ただ、シュナは石碑の前に立ったまま、完全に閉じた壁と、去っていくシオンの背中を交互に見つめていた。

 まるで、今夜の出来事をそのまま胸の奥の冷たい氷の中へ沈め、記憶に刻みつけるように。


 前室を出る直前。

 シオンは薄暗い通路の入り口で、一度だけ立ち止まった。


「おい」

 

 振り返らないまま、低く言う。

 

「シュナ」


 名前を呼ばれ、シュナがわずかに顔を上げる気配がした。


「次に変な気配を追うなら、もう少し人のいる時間にしろ。……面倒に巻き込まれたくなければな」


 言ってから、シオンは自分でも「何を柄にもないことを言っているんだ」と後悔した。

 忠告なのか、これ以上嗅ぎ回るなという牽制なのか、ただの八つ当たりなのか自分でも分からない。


 だがシュナは、背後でほんの少し間を置いてから、鈴を転がすような静かな声で答えた。


「それは、あなたも」


 シオンは舌打ちしそうになるのを必死に堪え、そのまま足早に前室をあとにした。


 外へ続く長い通路は、相変わらず薄暗かった。だが、石畳を踏む自分の足音が、今度はさっきほど不気味には響かない。祭祀区の外へ近づくにつれて、遠い歓声と眩しい灯りの気配が少しずつ戻ってくる。

 それでも、今夜見た「世界の深淵」が、簡単に記憶から薄れることはなかった。

 内ポケットに収まった鍵の重みが、やけに気に障る。


『ふふっ』

 

 ディアナのくぐもった笑い声が、足元の影で小さく揺れた。


「何だよ」

 

『別に? 随分優しくなったものね』

 

「は?」

 

『あのネズミを見逃して、あまつさえ生意気な娘に忠告までしてあげるんですもの。優しすぎて涙が出そうだわ』

 

「うるさい。自分の面倒を減らしただけだ」

 

『ええ、ええ。そういうことにしておいてあげるわ』


 シオンは本気で嫌そうな顔をしたが、これ以上反論する気力は残っていなかった。


 祭祀区の暗い坂を上り切った先には、まだ華やかな世界大会の夜が広がっている。

 色とりどりの旗は揺れ、魔導灯は眩しく輝き、人々は明日から始まる熾烈な予選に浮かれたまま、世界の裏側で何が起きたのかも知らずに平和に笑い合っている。


 その光景が、今のシオンには、ひどく遠く、ひび割れた薄氷の上の出来事のように見えた。

 

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