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前室の奥で、強固な石壁が音もなく開いていく。
隙間はまだ、人ひとりが通れるほどでもない。にもかかわらず、その向こう側の暗闇から流れ出してくる気配だけが、呼吸を忘れるほどの異様な濃さを持っていた。
冷たいとか、重いとか、そんなありふれた言葉ではとても足りない。ただそこにあるだけで、この空間の質量が変質し、この場所は本来もっと深く、永遠に閉ざされているべきだったのだと、本能のレベルで分からせるような絶対的な静けさだった。
男は石碑の前で後ずさり、ついには無様に尻餅をついた。
「し、知らねえ……こんなの、聞いてねえぞ……!」
恐怖に掠れた声が前室の壁にぶつかって、ひどく薄く反響する。
シオンは激しい頭痛を押さえたくなる衝動を堪えながら、諸悪の根源である石碑へと目を向けた。
鍵めいた奇妙な器具は、まだ中心の溝に深く差し込まれたままだ。そこから放射状に走る古い紋様だけが、血を吸ったように湿った黒を帯びて不気味に浮かび上がっている。
直感が告げていた。
いま開いているのは、ただの扉ではない。
起きかけているのは、もっと古く、もっと巨大で、決して触れてはならない何かだ。
「……抜け」
シオンが感情を殺した声で短く命じると、男は涙目で顔を引きつらせた。
「む、無理だ! 触ったら俺、絶対何かに喰われる……っ!」
「……じゃあ黙って大人しくしてろ」
これ以上、パニックになった小者に構う気はなかった。
シオンはため息と共に石碑へ歩み寄り、男の肩先を軽く蹴るようにして脇へどかす。情けない悲鳴と一緒に、男の身体が石壁際へ転がっていった。
その時、背後からシュナのひんやりとした声がかかる。
「不用意に触らない方がいい」
それは忠告というより、完全な断定だった。
シオンは振り向かないまま、小さく舌打ちする。背後に立つ「氷の魔女」に対して、明確に警戒を抱いている態度だ。
「言うのは簡単だがな。なら、代案を出してくれ」
「……今、視てる」
それだけ言って、シュナはシオンの隣、石碑の正面へ音もなく半歩近づいた。
そのガラス玉のような視線は、鍵でも男でもなく、開きつつある壁の奥の深淵へと真っ直ぐに向けられている。白銀の髪が、薄暗い前室に漂う淀んだ空気を拾って、淡く、神秘的な光を返した。
ただ観察しているのではない。
いや、もっと事象に近い。魔術の構成や精霊の気配を探っているのではなく、もっと根源的な「世界の理の流れ」そのものを読んでいるような目だと、シオンは直感した。
「……これ、扉じゃない」
シュナが低く呟く。
「見れば分かる」
「そういう意味じゃない」
シュナは一切の感情の起伏を押さえたまま、言葉を継いだ。
「開いてるんじゃなくて、目を覚ましかけてる。外側の封の鍵穴がズレて、中の仕組みが半分だけ強制的に起こされてる状態」
その独特な表現は、シオンにとって妙にしっくりと腹に落ちた。
精霊の力が暴走しているのではない。何者かの魔術が怒り狂っているわけでもない。
ただ、本来であれば永遠に眠っていたはずの巨大なシステムが、間違った刺激によって中途半端に意識を浮上させてしまっている。そういう、寝起きの凶暴な獣を前にしているような感覚だった。
シオンの足元の影の中で、ディアナがひどく静かに、愉しげに笑う。
『……ふふっ。察しがいい子ね』
シュナが、その影の気配と声に気づいたのかどうかは分からない。だが、彼女の長い睫毛が、ほんのわずかに揺れた気がした。
「鍵を抜けば、この現象は閉じるか?」
シオンが問う。
「たぶん、それだけじゃ足りない」
「おい。『たぶん』で動かすなよ……ここまできて」
「……あなたも、本当は分かってるはず」
そこで初めて、シュナが視線を動かし、シオンの黒い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「これ、正しい鍵を挿したから起きた現象じゃない。合っていない異物を無理に通したせいで、世界の歯車が途中までしか噛み合っていない」
シオンは顔をしかめ、再び石碑へ視線を戻した。
たしかに、シュナにそう言われてみれば不自然だった。鍵は溝にすっぽりと収まっているようでいて、どこか空間的に浮いている。正しい形をカチリと押し込んでいるのではなく、似たような形の別のものを、力技で捻じ込んだような歪な噛み合い方だ。
「……偽物の鍵か」
「かもしれない。少なくとも、この扉を開くための『正しい形』ではない」
男が石壁際で、ガタガタと震えながら呻く。
「お、俺はただ……依頼人に、これを使えば開くって……」
「静かにして」
シュナの氷結魔法よりも冷たい一言で、男は呼吸ごと凍りついたようにぴたりと口を閉じた。
怒気ではない。ただ、思考の邪魔になるそれ以上の雑音を一切許さない、絶対的な静けさの暴力だった。
前室の空気が、また少しだけ変質する。
開きかけた奥の暗闇から流れ出してくるものが、さっきより明らかに濃くなっていた。物理的に重いわけではないのに、肺の奥へ静かに、しかし確実に侵食してくるような圧迫感がある。遠くの祭りの気配がますます遠のき、この前室だけが、世界の底なしの深さへ沈み始めているようだった。
『……長くはもたないわね』
影の中で、ディアナが事もなげに言う。
『このままなら、あと数十秒でもっと開くわよ』
「分かってる」
シオンは吐き捨てるように、脳内の声に返した。
「で、どうする。2年の首席さん」
問いはディアナにもシュナにも向けたものだったが、応えたのはシュナだった。
「……シュナ」
「は?」
「私の名前。覚えて」
「はいはい。それで、どうする?」
「ズレてるなら、戻すしかない」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。でも、それしか方法はない」
シュナは石碑の周囲に刻まれた黒い紋様を、白魚のような指先でなぞるように視線で追った。実際に触れてはいない。ただ、概念の線の流れを追っている。
「あなたが鍵を抜く。その直後、私が中心の空間を空にする」
「中心?」
「……あそこ」
シュナが視線で示したのは、鍵の差し込まれた溝ではなく、そのすぐ下にある、小さな円形の窪みだった。ひどく風化していて見落としていたが、たしかに紋様の中心軸に合わせるように精巧に彫られている。
「本来は何も挿さない場所か、あるいは逆に、鎮めるための『別のもの』を置くための場所」
シュナは淀みなく続ける。
「今はそこに、偽物の鍵による魔力の“ズレ”が溜まってる。だから、ただ鍵を抜くだけだと、開きかけた扉が戻りきらずに暴走する」
シオンは心底嫌そうな、ひどく疲れた顔で石碑を見る。
「つまり、僕が一番やばい鍵を抜けって?」
「嫌なら、わたしがやってもいいけれど」
「いや、いい。僕がやる」
ほとんど反射だった。
シュナが意外そうに、わずかに眉を上げる。シオンは自分でも、今の意地を張ったような返答が少し子供っぽかった自覚はあった。
だが、仕方ない。何をしでかすか分からない相手に、この一番危険なババ抜きのジョーカーを任せるほど、シオンは大らかな性格はしていないのだ。
『……ふふっ、安心なさい。そういう荒事は、アナタが一番向いてないわ』
ディアナが影から甘く囁いた。
「どっちだよ」
『でも、その偽物の鍵に直接触れて無事でいられるのは、ここではアナタしかいない』
「……とんだ呪物だな」
小さく、誰にともなく吐き捨ててから。
シオンは意を決して、石碑に突き刺さった偽物の鍵へ手を伸ばした。
指先が金属に触れた瞬間。
石碑の表面を這っていた黒い線が、ドクン、と大きく脈打つ。
冷たい、というより、指先の感覚だけが一瞬にして彼方へ遠のいたような、強烈な違和感だった。精霊由来の魔力とも全く違う。もっと乾いていて、もっと静かで、死に直結するような何か。
「……なんか、気持ち悪いな、これ」
「……そうね」
シュナの声が、珍しく即答だった。
その短い一言の共有だけで、シオンの中に妙な納得と安堵があった。この場の「精霊ではない異常」を、自分と同じ輪郭で『気持ち悪い』と正確に感じ取っている人間が、すぐ隣にいる。その事実が、ほんのわずかだけ、この異常な状況をまともに見せてくれた。
「抜くぞ」
「同時に、中心のズレを逃すわ」
シュナが石碑の反対側へ回り込む。指先はまだ石には触れない。だが、彼女の立ち位置と構えだけで、何をするつもりなのかはシオンに伝わった。鍵が抜かれた瞬間に生じる破壊的な“ズレ”を、中心の窪みへ流して霧散させ、扉を閉じるつもりなのだろう。
「お前、何者だ」
シオンは鍵を強く握り込んだまま、視線をシュナに向けて問う。
ほんの一拍の、重い沈黙。
「……今集中してるから……それにその問いに答えるには、まだ足りない」
シュナの返答は、どこまでも静かで、逃げ場がなかった。
「でも、これは精霊の力なんかじゃない。それだけは、私にもはっきり分かる」
「……あっそ」
今は、その共通認識だけで十分だった。
シオンは短く息を整え、一気に鍵を引き抜いた。
ギヂィッ、と。
とてつもなく鈍い抵抗が手首にかかる。ただ石が物理的に噛んでいるような感触ではない。もっと粘りつく、空間そのものを引き剥がすような嫌な重さだった。
鍵が抜けた瞬間、石碑全体に走っていた黒い線が、断末魔のように一度だけ強く明滅する。
同時に、シュナが動いた。
彼女の指先が中心の窪みの上でピタリと止まり、そのまま石には触れずに、溢れ出す何かを押し留めるような姿勢を取る。
目には見えない。けれど、石碑の周囲で暴発しかけていた概念の乱れが、シュナの手によって一瞬だけその窪みに集められ、相殺されたのがシオンにははっきりと分かった。
開きかけた石壁の隙間が、地震のようにわずかに震える。
前室の温度がさらに急降下する。外の祭りの音が完全に消え去った。自分の呼吸音さえ遠くなるような、世界から切り離された重い静寂が落ちる。
男が壁際で頭を抱えて震えながら何か叫んだ気がしたが、もはや言葉としては聞き取れなかった。
『今よ』
影からのディアナの鋭い声が落ちた瞬間。
シオンは反射的に、抜き取った鍵を持ったまま、シュナが相殺しきれなかった中心の窪みへ向けて、空いた左手の掌をかざした。
触れてはいない。
だが、触れたのと同じだけ、この空間そのものがシオンという特異点を「認識」したのが分かった。
まずい、と本能が警鐘を鳴らす。
自分が余計なことに足を突っ込んだという感覚。
だが、それと同時に、ばらけかけていた世界の理が、再び一つへ戻っていく感覚も確かにあった。
ズレていた線が、強引に元の位置へと噛み合う。半端に起きかけていた巨大な何かが、再び深い眠りの底へと沈み直す。
開きかけた石壁の継ぎ目を走っていた不気味な光が、一本、また一本と、静かに痩せ細り、消えていく。
長い、永遠にも似た数秒のあと。
前室に、不意に「音」が戻った。
カビ臭い風が吹き抜ける。外から、遠い祭りの歓声がかすかに届く。肺を潰すような呼吸の苦しさが薄れ、石壁の隙間を走っていた光も完全に消え去っていた。
開きかけていた石壁は、最初からそこに何もなかったかのように、ただの強固な石の面を取り戻している。
シオンは、その場で全身の力を抜き、大きく息を吐き出した。
「……二度とやりたくないな、こんな真似」
「……それには同感」
シュナもまた、張り詰めていた糸を切ったように短く答える。
見れば、彼女の透き通るような額にも、わずかに汗が滲んでいた。感情をほとんど顔に出さない彼女がそれだけ消耗しているという事実が、今の行為がどれほど綱渡りで、致命的なものだったのかを物語っている。
石碑の前では、抜き取られた偽物の鍵が、シオンの手の中で冷たく重い感触だけを残していた。さっきまでの、空間を歪ませるような嫌な気配はもうない。ただの精巧で古びた金属器具のように、完全に沈黙している。
男は壁際にへたり込んだまま、青ざめきった顔で、化け物でも見るような目で二人を震えながら見上げていた。
「な、なんなんだよ……お前ら……」
シオンは心底疲れた顔で、胡乱な視線だけを男に向ける。
「……それ、今さら言うか?」
男の間の抜けた問いにはそれ以上答えず、シオンは手の中の鍵を見下ろした。それから沈黙した石碑、完全に閉じた壁、そして隣に立つシュナへと視線を巡らせる。
すべてが片付いた、とは到底言い切れない。
だが少なくとも、この前室から「あの気配」が漏れ出し続けるという最悪の事態だけは回避できた。
今は、その事実だけで十分だった。




