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通路の奥は、シオンが思っていたよりもずっと深くて長かった。
外から見れば、ただの古い建物の裏手にしか見えなかった。だが、結界を破られたその暗がりへ一歩踏み込んだ瞬間、明確に空気の質が変わるのを感じた。
石壁に挟まれた細い通路は、途中から緩やかに地下へ向かって傾斜しており、昼間だというのにひどく薄暗い。壁の高い位置に穿たれた細い採光窓から、埃を透かした白い光が弱々しく差し込んではいるが、それも奥へ行くにつれて頼りなくなる。
シオン自身の足音だけが、やけにはっきりと反響した。
祭祀区の表にあった静けさとは、根本的に種類が違う。あちらが信仰心によって人の声を遠ざけた「澄んだ静けさ」なら、こちらは最初から何者かが踏み込むことを拒むような淀んだ静けさだ。気の遠くなるような長い時間、ただの一度も人が出入りすることを想定していなかった場所特有の、呪いにも似た重みがある。
シオンは、露骨に嫌そうな顔をしながら歩を進めていた。
「……今ならまだ引き返せるよな」
『無理ね』
「即答すんな。まだ何も起きてないだろ」
『だって、もう遅いもの。それにアナタ、本気で帰る気なんてないじゃない』
足元の影から響くディアナの声は、どこか楽しげで軽い。だが、いつもの気まぐれな戯れと違って、その声の芯には氷のような冷酷さが混じっている。彼女が、何かを見定めている時の響きだ。先ほどからそれが、シオンの神経を余計に逆撫でした。
先行しているはずの男の姿は、まだ見えない。
だが、完全に見失ったわけでもなかった。古い通路に染みついたカビと埃っぽい匂いの中に、わずかに新しい人の気配と汗の臭いが残っている。よほど焦っているのだろう、侵入の痕跡や足跡を隠す余裕すらないらしい。石の床に薄く積もった塵が乱れ、壁際には肩や荷物が擦れた跡が点々と奥へ続いていた。
やがて通路の傾斜が終わり、少し開けた前室のような空間へと繋がった。
シオンは入口の石柱の影に身を隠し、そっと視線を向ける。
そこには、奇妙な石碑があった。
碑というには背が低く、祭壇というには装飾が素朴すぎる。腰ほどの高さの黒い石が床に直接据えられ、その正面には円と直線を組み合わせた古い紋様が幾重にも刻まれている。風化して削れている部分も多いが、中心だけは不自然なほど鋭い輪郭を保っていた。
そこに、何かを差し込むための細い溝がある。
男は、その石碑の前に膝をついていた。
外から持ち込んだらしい細長い器具を、まるで鍵穴に差し込むような仕草で、石碑の中心へ押し当てようとしている。鍵、と呼んで差し支えない形ではあった。だが、一般的な金属鍵とは少し違う。棒状の細い本体の先端に、古い意匠めいた複雑な突起がついていて、盗賊道具というよりは、それ自体が一種の「祭器」に近い印象を与える。
男は異常なまでに焦っていた。
「くそっ、おいおい、聞いてねえぞ……。なんでこんなに溝が浅いんだよ……っ」
小さく毒づきながら、何度も鍵の位置を確かめる。額には脂汗が滲み、誰かが追ってきていないか肩越しに振り返る回数も増えている。手つきを見るに裏の仕事には慣れているのだろうが、この異常な空間のプレッシャーに当てられ、完全に平常心を失っていた。
いかにも「報酬に目が眩んで汚れ仕事を引き受けただけの、使い捨てのトカゲの尻尾」といった小者感が漂っている。
シオンは壁の影に身を寄せたまま、小さく息を吐いた。
ただの泥棒なら、ここで引き返して警備隊を呼べば済む。だが今さら表へ戻って説明する気にはなれないし、戻っている間に男が逃げるのは目に見えている。かといって、自分が前に出て捕まえるのも面倒の極みだ。
面倒だが、放っておくわけにもいかない。なぜなら――
『あれ、ただの鍵ではないわね』
ディアナが、ふと核心を突いた。
その一言で、シオンの眉間の皺がさらに一段深く刻まれる。
「もっと早く言え」
『見れば分かると思ったのだけれど。あれは物理的な鍵じゃなくて、概念的な「封」をこじ開けるための触媒よ』
「……分かりたくなかった」
シオンが低く恨み言を返した、まさにその瞬間だった。
男がついに器具を石碑の溝へと押し込み、カチリと噛み合わせた。
石と金属が擦れる、ひどく耳障りな音が響く。
男は一度躊躇い、それから意を決したように歯を食いしばり、その“鍵”を無理やりひねった。
ゴオン、と。
鼓膜ではなく、脳の奥を直接揺らすような鈍い音がした。
爆発でも崩落でもない。ただ、ひどく重く巨大なものが、長い長い眠りの底で、ほんの少しだけ寝返りを打って位置を変えたような――そんな、世界がズレるような音だった。
前室の空気が、劇的に変わる。
目に見える変化はほとんどない。石碑が光ったわけでもないし、突風が吹いたわけでもない。だが、シオンの肌を撫でる「感覚」だけが明らかに変質した。
今まで冷たいだけだった空気の奥に、得体の知れない別の層がもう一枚あったことに気づかされるような、内臓を直接撫でられるような不快な圧が立ち上がる。
男もそれを肌で感じたのか、一気に顔色を土気色に変えた。
「なんだ……? 何が起きてる……っ!?」
男は鍵から手を離しかけて、やめる。
石碑の中央、溝の周囲に刻まれていた紋様の一部が、風化した灰色から、まるで血を吸ったような濡れた「黒」へと変色し、不気味に浮かび上がっていたのだ。
まるで、今まで眠っていた線だけが脈を打ち、目を覚ましたように。
シオンは舌打ちした。
「ほら見ろ。どう考えてもやばいヤツじゃないか」
『だから止めた方がいいと言ったでしょう?』
ディアナの声音は、この状況にあって不気味なほど静かだった。静かすぎて、逆に致命的な嫌な予感しかしない。
男は完全に怯えきり、鍵から手を離して一歩、また一歩と後ずさる。だが、それでも逃げ出さなかった。逃げるより先に、石碑の奥で何が起きたのかを確かめたかったのか、それとも「中の祭器を持ち帰る」という依頼をまだ信じていたのか。
前室の奥、何もなかったただの石壁の継ぎ目に、細い光の線が走った。
堅牢な石で完全に塞がれていたはずの壁面に、一本、また一本と、幾何学的な亀裂のような光の筋が生まれていく。
扉だ、とシオンは直感した。
隠されていただけで、最初からそこにあったのだ。今まで祭祀区の一部として完全に埋もれていたものが、鍵の触媒によってようやく「輪郭」を現したにすぎない。
開いたのではない。
悪意を持って「起動」したのだ。
「おい、なんだこれ……っ! 話が違うぞ!」
男の震える声に、もはや一切の余裕はない。
今になってようやく、自分が取り返しのつかない引き金を引いてしまったことに気づいたのだろう。だが、遅すぎる。壁の奥から漏れ出してくる気配は、金銀財宝や高価な祭器の類などではない。
もっと古く、もっと静かで、だからこそ圧倒的に質の悪いものだ。
シオンはついに、隠れていた石柱の影から前へ出た。
男が足音に気づいて勢いよく振り向く。目が合った瞬間、その顔に浮かんだのは「誰かに見つかった」という驚愕よりも、「自分以外の人間がいた」という安堵と恐怖の入り混じった縋るような表情だった。
おそらく、それほどまでに今の前室の空気は、人間にとって異常だったのだ。
「お、お前、誰だ……!?」
「いいから。それ、抜け」
シオンは感情の抜け落ちた声で、短く命じた。
男は意味が分からないという顔をした。あるいは分かっても、恐怖で体が動かなかったのかもしれない。鍵を抜けば元に戻るのか、このままにして逃げるべきなのか、自分が何を起こしたのかさえ理解できず、ただガチガチと歯の根を鳴らしている。
その迷いの一瞬で、奥の光がさらに濃くなった。
石壁の継ぎ目が、ゆっくりと左右へ開いていく。古びた石の機構が物理的に軋むような音は一切しない。もっと滑らかで、もっと異様に静かな、まるで空間そのものが意志を持って裂けていくような開き方だった。
前室の温度が、物理的に一段下がる。
シオンは本気で「いますぐ回れ右をして帰りたい」と思った。
「お前、本当に何も知らないで、言われるがままここに来たのかよ……」
呆れ半分、苛立ち半分で漏らすと、男は喉を引きつらせて裏返った声を出した。
「だ、だって、あの人に鍵を渡されて! これを挿せば中へ入れるって……! 中の祭器さえ持ち出せば、それで大金がもらえるって――!」
「祭器? ……馬鹿か」
シオンは深く眉をひそめる。
見立てが安すぎる。たしかに外から見れば、古い宝物庫を狙うような話にできるのかもしれないが、今ここで動いているものは、そんな軽い言葉で収まるような代物ではない。
――その時だった。
シオンが歩いてきた前室の入口側、薄暗い通路の奥から、もう一つ、新たな足音が響いた。
コツン、コツン。
乾いた、一切のためらいのない、真っ直ぐな足取り。
シオンが即座に振り向くより先に、へたり込んでいた男の方がビクリと肩を跳ねさせた。今日この場で一番驚き、一番振り回されているのは、間違いなくこの哀れな実行犯の男だった。
前室の入口。埃の舞う薄明かりの中に、一人の少女が立っていた。
白銀の髪。ガラス玉のようにひどく静かで、一切の感情を読み取らせない瞳。
学院の選抜戦で、あれほど強烈な「メッセージ」を送ってきた顔だと、シオンは一拍遅れて思い出す。
シュナは、そこにいた男には一瞥もくれなかった。
まず起動した石碑を見て、次に、その奥で開きつつある異空間を見た。
そして最後に、呆然と立ち尽くすシオンへと視線を向け――。
「……やっぱり」
それは、ひどく小さな呟きだった。
だが、前室の異様な静けさの中では、やけにはっきりとシオンの鼓膜を打った。
そこには、シオンという存在への執着と、この異常事態に対する確信めいた理解が込められていた。
シオンは、これ以上ないほど露骨に嫌そうな顔をした。
「……なんでお前がここにいる」
シュナはその問いには答えず、ただ静かに歩み寄り、前室の淀んだ空気を一度だけゆっくりと吸い込んだ。
「これ、精霊じゃないわ」
推測ではなく、完全な断定だった。
その氷のように冷たい一言に、石碑の前で腰を抜かしかけていた男が、「自分がとんでもない神話の領域に手を出したのだ」とようやく理解したような絶望の顔になる。
シオンは、本気で額を押さえたくなった。
最悪だ。
思っていたより、ずっと最悪の方へ事態が転がっている。
開き始めた奥の空間から、さらに一段深い、どす黒い気配が流れ出してくる。
それはまだ、明確な形を持たない。殺気や敵意ですらない。ただそこにあるだけで、この世界のシステムに属していないと本能が理解してしまうような、絶対的な『静寂』だけが、ゆっくりと前室を侵食し始めていた。




