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『もう、出ていいかしら?』
「いいけど、あんまり余計なことはするなよ」
すでにEグループの2試合は終了しており、Fグループ1戦目に登場するシオンは東側のゲートで出番を待っていた。
シオンの言葉に応えるように、彼の足元の影から金色の粒子が舞い上がる。それはキラキラと光を乱反射させながら収束し、一匹の美しい猫の姿――ディアナを形作った。
『わかっているわ。貴方の望み通り、か弱くて愛らしい精霊を演じればいいのでしょ?』
シオンの脳内に、艶のある声が直接響く。
ディアナは優雅に尻尾を揺らしながら、少し不満げに髭を震わせた。彼女にとって、この「演技」は退屈な縛りプレイでしかないのだ。
「頼むよ。相手は3年生だ。適当に攻撃を受けて、僕が派手に吹き飛ぶ。そうしたら君は心配そうに駆け寄ってくれればいい。それで『参った』だ」
『はいはい。せっかくの晴れ舞台なのに、相変わらず夢がない男ね』
ディアナが呆れたようにあくびをするのと同時に、会場のアナウンスが響き渡った。
「――第1試合! タルマ・ネウギ対シオン!」
ゲートが開き、歓声と拍手が降り注ぐ。
先ほどのユーノ戦のような張り詰めた空気はない。観客たちも、無名の1年生と中堅の3年生というカードに、少し肩の力を抜いているようだ。
シオンにとっては、その緩んだ空気こそが好都合だった。
シオンは努めて気だるげに、戦意のない様子を装ってフィールドへと足を踏み入れた。
対面の西ゲートからは、対戦相手のタルマ・ネウギが姿を現す。
坊主頭に大柄な体躯。岩石を思わせる厳つい風貌は、資料通りの「堅実な守り手」という印象だ。
(強そうだ。うん、あれなら一発で吹き飛ばされても違和感はない)
シオンは内心で安堵し、所定の位置につく。
だが、対峙したタルマの視線は、予想以上に鋭かった。
獲物を狙う猛獣というよりは、爆発物の処理手順を確認するかのような、極めて慎重な眼差し。額には脂汗すら滲んでいる。
『あら? あの男、随分と貴方を警戒しているようよ?』
「......気のせいだろ。1年生相手に油断してないだけさ。堅実でいい先輩じゃないか」
シオンはタルマの視線に気づかないふりをして、脱力したまま棒立ちになる。
武器も構えず、魔力も練らず。
ただの無防備。これ以上ない「隙」の提示。
さあ、どこからでも煮るなり焼くなりしてくれ。
シオンは心の中で白旗を準備し、審判の手が上がるのを待った。
『始め!』
審判の声が落ちた瞬間、タルマの視界から「色」が消えた。
彼独自の魔力感知領域。
視覚情報ではなく、魔力の流動を色として捉えるその感覚は、3年生の中でも随一の精度を誇る。微細な魔力の予備動作も見逃さず、常に先手を取って鉄壁の防御を敷く。それがタルマ・ネウギの戦い方だ。
だが。
目の前の少年――シオンからは、「色」が見えなかった。
(......なんだ、こいつは?)
タルマは眉間の皺を深くする。
魔法を練っていないだけではない。体内を循環するはずの魔力の波すら、完全に凪いでいる。
まるで、そこに人間が存在しないかのような「虚無」。
1学年序列7位。
魔力測定不能のイレギュラーと聞いている。
その肩書きを持つ者が、魔力を持たない「ただの一般人」であるはずがない。
(......あり得ない。これほどの近距離で、魔力の漏出がゼロだと?)
タルマの背筋に、冷たい汗が伝う。
それはつまり、この少年が**「呼吸をするように、魔力を完全に隠蔽している」**ということに他ならない。
究極の魔力操作技術。
殺気すら消し去る、暗殺者のような自然体。
何よりあの猫型の精霊。
試合が開始されたというのにタルマを一切見ずにシオンの足に頬擦りしたまま動かない。
(隙だらけに見える棒立ち。だが、俺の感知には何も引っかからない......)
見えない地雷原の前に立たされているような錯覚。
下手に攻撃を仕掛け、その隠蔽を解いた瞬間――感知できない速度でのカウンターが飛んでくるのではないか?
(動けん......!)
静寂が支配するフィールドで、タルマだけが自らの感知能力が生み出した「見えない怪物」に怯え、脂汗を滴らせていた。
◆
「……見つけた」
観客席の最後列。立ち見席のさらに後ろでシュナは誰にも聞こえない声でぼそっと呟く。
「……アリューシア」
シュナが自身の精霊に声をかけると、周りの温度が少し下がる。
『そうだね。あの男、とてつもない雰囲気を感じる。少なくともボクの許容を超えているよ』
シュナの脳内で、アリューシアと呼ばれた精霊の声が響く。だが、その声を遮るようにシュナが続ける。
「……アリューシアじゃ、彼とは比べものにならない。」
『......手厳しいね。でも、否定はできない』
シュナの脳内で、アリューシアは苦笑混じりに肯定する。
精霊界においても上位に位置する『君主級』の氷精霊。その彼が、本能的な畏怖を抱いているのだ。あの影に潜む金色の粒子に、そしてシオンという底なしの器に。
だが、シュナは違った。
そこに恐怖はない。あるのは、魂の奥底が震えるような共鳴だけ。
「......綺麗な『静寂』」
シュナの瞳が、フィールドで退屈そうに立ち尽くすシオンを射抜く。
周囲の喧騒が嘘のように、彼だけが世界から切り離されているように見えた。
孤独で、強大で、誰にも理解されない虚無。
(......私と同じ)
シュナの薄い唇が、微かに、本当に微かに弧を描く。
それは、学院の誰も見たことのない『氷の魔女』の、雪解けのような微笑みだった。
対峙するタルマが恐怖に凍りつく中、会場でただ一人、シュナだけが熱を帯びた瞳で彼を見つめている。
「......貴方のこと、もっと教えて。シオン」
誰にも聞こえない囁きは、会場のざわめきに溶けて消えた。
運命の歯車が、静かに、けれど確実に回り始めた瞬間だった。




