75話
一夜が明けても、学院の空気は張り詰めたままだった。
むしろ、初日の衝撃が咀嚼され、浸透したことで、より重苦しい畏怖へと変質しているようだった。
闘技場前の広場には、早朝から多くの生徒が詰めかけていた。
彼らの視線の先にあるのは、巨大な魔法スクリーンに映し出された『星取表』だ。
「......うっわ、マジかよこれ」
誰かの漏らした呟きが、その場の総意だった。
【グループA】
ルイ・コフィーン(3年1位) 1勝0敗
ルシア・アルステッド(1年2位) 1勝0敗
ユーゴ・グレイス(3年5位) 0勝1敗
アリス・フェンリズ(1年3位) 0勝1敗
燦然と輝く勝者と、黒星がついた敗者。
特に『アリス・フェンリズ 0勝1敗』の文字列が、1年生たちに与える絶望感は計り知れない。あの王級契約者ですら、初戦で躓く。それがこの選抜戦のレベルなのだと、無慈悲な数字が突きつけてくる。
「......こうやって数字で見ると、改めてえぐいわ」
人混みの後方で、ナギが腕を組んで唸った。
その隣で、シオンもまた、あくびを噛み殺しながらスクリーンを見上げる。
「まあ、アリスに関しては相手が悪すぎたしな。今日の様子を見た感じだと、本人は吹っ切れてるみたいだし大丈夫だろ」
「そやな。逆に言えばルシアは勝っとるし、1年生でもまだ望みはある。......問題はこっちや」
ナギが視線を右端へ移す。
そこには、まだ白紙のままの『グループF』の枠があった。
【グループF】
タルマ・ネウギ(3年6位) -
ナービィ・ブライト(2年6位) -
シオン(1年7位) -
エド(1年8位) -
他のグループが血みどろの激戦区に見える中、ここだけぽっかりとエアポケットのような空白地帯に見える。
「......平和だ」
「どこがやねん」
「いや、見てみろよナギ。会長もいない。アリアもいない。シュナ先輩もいない。実に平和で牧歌的じゃないか」
シオンは満足げに頷く。
昨日の化け物たちの戦いを見た後だと、自分のグループの対戦相手たちが、まるで親戚のおじさんや近所の子どものように親しみやすく思えてくる。
「今日の僕の相手はタルマ先輩か。グループ内1番手っぽいし負けても、誰も文句は言わないはずだ」
「......そんなこと言うてる時点でうちが文句言ったるけどな。タルマ先輩もナービィ先輩も、序列上位の実力者なんやから適当やってると怪我すんで」
「わかってるって。怪我しない程度に頑張るさ」
シオンは軽口を叩きながら、内心では完璧な「敗北計画」を組み立てていた。
目立たず、騒がず、穏便に負ける。それが今回の目標だ。
だが、そんなシオンの甘い考えを嘲笑うかのように、2日目の幕が開こうとしていた。
◆
「――第1試合! エルマ・サンディ対セルナ・アシュミール!」
アナウンスと共に、歓声が爆ぜる。
グループDの初戦。
西ゲートから現れたのは、1学年序列6位、セルナ・アシュミールだった。
「うぃーっす! みんな見てるー? 応援よろ!」
派手に改造した制服を着崩し、金髪にピンクのメッシュを入れた少女が、観客席に向かって大きく手を振る。
その軽薄とも取れる態度は、緊張感の欠片も感じさせない。だが、その瞳の奥には、確かな闘志と野心がギラついていた。
「相手は3年の2位だっけ? ま、相性次第でワンチャンあるっしょ!」
セルナが軽くステップを踏む。
その足元から、ふわりと風が巻き起こった。
対する東ゲート。
静寂と共に現れたのは、3学年序列2位、エルマ・サンディ。
ゆったりとしたロングスカートの制服に、肩からかけたショール。長い栗色の髪を緩く編み込み、手には扇子を持っている。
戦場に立つ戦士というよりは、休日のカフェテラスに座る令嬢のような佇まいだった。
エルマは扇子で口元を隠し、目を細めて微笑む。
その余裕。圧倒的な強者だけが許される、慈愛に満ちた眼差し。
「お嬢さんのノリについていけるかしら?」
「はっ、余裕ぶっこいてんのも今のうちだし! 速攻で終わらせてやるから覚悟しな!」
セルナが挑発的に指を突きつける。
『始め!』
審判の手が振り下ろされた瞬間、空気が裂けた。
「――『瞬足』!」
ドォン! という破裂音と共に、セルナの姿が消える。
いや、消えたのではない。風を纏って超加速したのだ。
精霊装具化
ブーツのような精霊装具を足に纏わせ、爆発的な推進力を得る。その速度は、昨日のアリスやユーゴにも迫るほどだ。
「おっそい! もらっ――!」
瞬きする間にエルマの背後を取ったセルナ。
その手には、真空の刃が形成されたダガーが握られている。
首筋を狙った必殺の一撃。
だが――
ガキンッ!!
硬質な音が響き、セルナのダガーが空中で止まった。
エルマの肌に触れる寸前、地面から突如として隆起した「岩の壁」が、その刃を阻んでいたのだ。
「は......?」
「あらあら。危ないわねぇ」
エルマは振り返りもせず、扇子をパチリと閉じる。
すると、岩の壁から無数の棘が飛び出した。
「うおっと!?」
セルナは反射的にバックステップで回避する。
頬を一筋、赤い線が走った。
「......チッ、地属性かよ! だったら近づかれる前に潰すのがセオリーだろ!」
セルナは再び加速する。
今度は直線ではない。ジグザグに、不規則に動き回り、残像を生み出しながらエルマを翻弄する。
「『風装・鎌鼬』!」
全方位からの斬撃の雨。
風の刃がエルマを切り刻む――はずだった。
エルマの周囲の地面が、生き物のように蠢く。
石畳が砕け、土砂が舞い上がり、瞬く間にドーム状の防壁となってエルマを包み込む。
風の刃は土砂に食い込み、あるいは弾かれ、その内側にいる術者には傷一つ届かない。
「うっそ、マジ!? 反応速度おかしくない!?」
セルナが声を荒らげる。
彼女の速度は音速に近い。見てから魔法を詠唱していては間に合わないはずだ。
それなのに、エルマの防御は完璧なタイミングで発動している。
「......違うな」
観客席で、エルドが低く呟いた。
「反応しているんじゃない。......『そこに在る』んだ」
「どういうことや?」
「彼女は魔法を撃っていない。ただ、精霊に守らせているだけだ。あの周囲一帯の地面は、すでに彼女の体の一部みたいなもんだよ」
エルマ・サンディ。契約精霊は地属性の王級精霊『グラン・ガイア』。
彼女は一歩も動いていない。魔法陣も展開していない。
ただそこに立っているだけで、大地そのものが彼女の意志を汲み取り、自動的に敵を排除する。
それは、魔術というよりは「環境そのものの拒絶」だった。
「ハァ、ハァ......! かったいなぁもう!」
攻めあぐねたセルナが、距離を取って荒い息を吐く。
物理攻撃も魔法攻撃も、あの鉄壁の要塞には通じない。
ドーム状の土砂がゆっくりと崩れ落ち、中から涼しい顔をしたエルマが現れる。
彼女は扇子でパタパタと顔を仰ぎながら、困ったように眉を下げた。
「もう終わりかしら? 埃っぽくて、お肌に悪いのだけど」
「......なめんな! まだ奥の手があんだよ!」
セルナが吠える。
彼女の全身から、緑色の燐光が激しく噴き出した。
「吹き荒れろ! 『絶嵐』!!」
風の精霊を全身に完全憑依させる、セルナの切り札。
防御を捨て、全ての魔力を速度と貫通力に変換する特攻形態だ。
彼女自身が一条の竜巻となり、フィールドを削りながらエルマへと突っ込む。
「貫けぇえええええ!!」
音の壁を突き破る衝撃波。
真正面からの突破。小細工なしの威力勝負。
だが、エルマは優雅に微笑んだまま、スッと右手をかざしただけだった。
「――『砂海』」
世界が、沈んだ。
「え......?」
突進していたセルナの足元が、突然消失した。
いや、石畳の地面が、一瞬にしてサラサラの「流砂」へと変質したのだ。
踏ん張りが効かない。
加速のための足場がない。
それどころか、強大な吸引力がセルナの足を引きずり込む。
「な、に......これ......!?」
竜巻の勢いが殺される。
もがけばもがくほど、砂は蟻地獄のように彼女を飲み込んでいく。
「きゃあああっ!?」
足首、膝、腰。
瞬く間に体が埋まっていく。
風を吹かして脱出しようとするが、舞い上がった砂が風に絡みつき、重りとなって彼女を縛り付ける。
「あらあら。暴れるともっと沈むわよ?」
エルマが指先をくるりと回す。
すると、流砂が巨大な手のような形になり、セルナの全身を優しく、しかし絶対的な拘束力で握りしめた。
「ぐ、うぅ......! 動け、ない......っ!」
首から下を完全に砂に埋められ、顔だけ出した状態のセルナ。
必死に魔力を練ろうとするが、砂が魔力を吸い取っているのか、力が上手く入らない。
「1年生にしては頑張ったわね。速さは一級品よ。でも――」
エルマがセルナの目の前まで歩み寄り、しゃがみ込んでその頬をつんと突く。
「足元がお留守じゃ、ダンスは踊れないわ」
「......っ、参りました......!」
セルナが悔しげに唇を噛み締め、降参を告げる。
その瞬間、拘束していた砂がサラサラと崩れ、元の硬い石畳へと戻っていった。
「勝者、エルマ・サンディ!」
審判の声が響き渡ると同時に、会場からは感嘆の溜息が漏れた。
攻撃魔法を一度も使わず、ただ地形を変えただけで完封した。
傷一つ負わず、服に砂汚れ一つついていない。
これが3年生、これが王級の実力。
「......うっわ、エグいわ」
ナギが顔を引きつらせる。
昨日のルシアやアリスのような派手な破壊力とは違う。
もっと根本的な、自然現象としての「格」の違い。
「やっぱり、3年生には勝てないのか......?」
会場の空気が、諦めに似た色を帯び始める。
セルナも決して弱くはなかった。むしろ、1年生の中ではトップクラスの動きだったはずだ。
それでも、手も足も出ない。
その絶望感を裏付けるように、続くEグループの試合もまた、1年生にとっては残酷な結果が待っていた。




