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朝の空気は軽かった。
……軽いのは空気だけで、シオンの胃はまったく軽くないのだけれど。
ディアナはまだ喋っている。「今日も何か起こるわよ」とか「アナタはトラブルの磁石よ」とか、相変わらず不吉な未来を勝手に断言してくる。
シオンはそれを無視して廊下を歩いた。
誰にも見つからず、誰の印象にも残らず、ひっそりと座学教室へたどり着けるならそれでいい。
そう思って曲がり角を抜けようとした、その瞬間だった。
『来たわよ』
「来たって何が……?」
『“風”』
シオンが「頼むから通り過ぎてくれ」と願う間もなく、その人物は目の前に現れた。
「ーーなんやキミ!」
第一声が、物理的な衝撃を伴ってぶつかってきた。
声が大きい。明るい。押しが強い。
そして距離感が決定的にバグっている。
黄緑の髪をふわっと揺らし、パッと花火のように笑う少女。
肩には小さな風精霊がちょこんと座り、主のテンションに合わせてくるくると回っている。
(……あ、これ一番ダメなタイプだ)
シオンの直感がけたたましく警鐘を鳴らした。
静寂を愛し、平穏を望む彼にとって、この手合いは天敵である。
「なんやキミ。ひとりで歩いとって、めちゃくちゃ寂しそうやん。……おねーさんが、友達なったろか?」
少女はぐいっと顔を近づけてくる。
まつ毛の本数が数えられそうな距離だ。
(……お姉さん? 同級生だろ?)
シオンが困惑して呟くと、彼女は胸を張った。
「細かいことはええねん! 自己紹介するで!
ウチ、ナギ! 風精霊と一緒に世界かけ回るのが夢やねん!」
精霊が「ぴゅるるっ」と可愛い音で鳴く。
嵐のような自己紹介だ。悪意はないようだが、圧が強い。癖も強い。
シオンはどうやって穏便に立ち去るかを高速で計算し始めたが、ナギの次の言葉がそれを無慈悲に打ち砕いた。
「なぁ……キミ、昨日の検査の時……おった?」
心臓が跳ねた。
今、もっとも聞かれたくない質問ランキング不動の1位。
「……いや、その……」
シオンの目が泳ぐ。
『言い訳考えた?』とディアナが意地悪く聞いてくるが、返す余裕もない。
あの“記録不能爆破事件”の犯人だとバレれば、平穏な学園生活は終了だ。「弁償」と「説教」と「注目」のトリプルコンボが待っている。
僕の平穏が死ぬ。
しかしナギは、シオンの反応などお構いなしに目を輝かせた。
「あっ! もしかして、空白になってた“あれ”がキミちゃう!?」
ばちーーん! と指をさされる。
シオンは冷や汗を流しながら、必死に首を振った。
(終わった……!)
いや、まだだ。否定しなければ――。
「……ち、違う、と思うよ? 多分」
自分でも弱いと思う否定だった。
だが、ナギの反応は予想外のものだった。
「ふーん……ま、ええわ!」
彼女はあっさりと興味を失ったように手を振ったのだ。
(……え、いいの?)
拍子抜けするシオンの前で、ナギはニカっと笑う。切り替えが早い。早すぎる。
「キミ、誰とも話してへんやろ?
ウチが友達なったる。ほら、うるさいやつが近くにおったら目立たんやろ?」
(いや絶対目立つんだけど!?)
シオンは心の中で叫んだ。
だが、彼女の笑顔には一点の曇りもない。純粋な人助けのつもりなのだ。
『諦めたほうがいいわよ。あの子、アナタみたいな“静かな子”を放っとけないタイプだわ』
(いや、放っといてほしいんだけど!?)
ディアナが楽しげに囁く。
シオンもまた、それを否定できなかった。
風のように近づき、勝手に懐に入ってくる。その強引さが、不思議と不快ではない。
「で、キミ、名前なんなん?」
ど直球だ。逃げ道はない。
……まあ、名前くらいはいいか。
「……シオン」
「シオン! ええ名前やん!
ほな今日からウチとシオンは友達や!」
決定事項のように宣言され、シオンは曖昧に頷くしかなかった。心の準備も何もない。
「シオン、掲示板見に行ったん? 順位とか気にならへん?」
「……まあ、それなりには」
(気にならないどころか、自分の名前が消えてる異常事態なんだけど)
そんな内心を隠していると、ナギは不思議そうに首を傾げて言った。
「ほんまに空白やなぁ……なんでなんやろな?」
「……さぁ。よく分からないけど」
下手に答えて墓穴を掘りたくない。シオンが黙り込んでいると、ナギはポンと手を叩いた。
「名前長すぎて入らんかったとか!?」
「……ぶっ」
シオンは思わず吹き出しそうになった。
周囲があれだけ「不気味だ」「怪物がいる」と噂している空白を、「名前が長すぎた」と解釈する。
その発想の自由さが、今のシオンには救いだった。
『扱いが雑なほうが楽でしょ?』
(確かに今は助かってる……)
「……そうかもね。そうだといいな」
「せやろ! 絶対そうや!」
ナギは満足げに頷くと、手をパッと上げた。
「じゃ! シオン! また会おな!」
「……うん。また。ははっ」
軽すぎる別れの言葉。
だけど、不思議と“また会う”ことが確定している気がした。
ナギは風のように去っていった。
黄緑の髪が廊下を駆けるように遠ざかり、そのまま角で消える。
嵐が過ぎ去った後のような静寂が戻ってくる。
だが、シオンの胸中には、先ほどまでとは違う温かいものが残っていた。
『あの子、良い子だったわね。アナタは苦手でしょうけど』
「……ああ。苦手なタイプだけど、悪い気はしなかった」
『ふふっ。案外、シオンも悪くない表情してるわよ』
「気のせいだ」
『気のせいじゃないわ』
(……気のせい、だと思いたい)
シオンは自覚が芽生える前に話を打ち切るように、掲示板に背を向けた。
人が増え始めている。
シオンは人混みが苦手だ。
だから寮へ戻るか、中庭の静かなほうへ逃げるか——少し迷ってから、中庭へ向かった。
ここなら精霊も人も少ない。
『ねぇシオン。予言しておくわ』
「またか」
『あの子、また来るわよ。間違いなく』
「なんで断言するんだよ」
『あれは“風”の性質よ。気になったらまた吹いてくる。……残念ながら、アナタの平穏はもう揺らいでいるわね』
「……縁起でもないこと言うな」
シオンは空を見上げた。
小さな風が、校舎の旗を揺らしている。
凪のような風だと思ったが――。
静かに暮らしたい。
その願いとは裏腹に、運命の歯車は――主に、備品破壊と風の少女によって――回り始めていた。




