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空気が軋む音。
それが、死の宣告のように聞こえた。
「ハァッ……ハァッ……!」
ゲイルは荒い息を吐きながら、風の精霊魔術で身体能力を極限まで高めていた。
視界の端で、巨大な戦鎚が風を切る。
直撃すれば即死。かすっただけでも骨が砕ける質量兵器。
ゲイルは紙一重でそれを回避し、ギガスの懐へと潜り込む。
(速さなら……私のほうが上だ!)
「疾風連斬!」
目にも止まらぬ三連撃。
狙うは首、心臓、そして大腿動脈。
いかなる強固な鎧とて、風の刃と精霊強化された剣技の前には紙切れ同然――のはずだった。
だが――
硬質な音が廃工場に響く。
ゲイルの手首に、痺れるような衝撃が走った。
「な……ッ!?」
刃は届いていた。
だが、斬れなかった。
ギガスの皮膚を覆うように、薄く、しかしダイヤモンドよりも硬い「土の皮膜」が展開されていたのだ。
「……軽いぞ。その程度か?」
ギガスが見下ろす。
その瞳には、嘲笑の色すらない。ただの作業。害虫駆除のような無関心。
「っ……く!」
ゲイルは即座にバックステップで距離を取ろうとする。
だが、遅かった。
「地揺」
ギガスが軽く足を踏み鳴らす。
それだけで、ゲイルの足元の地面が爆ぜた。
物理的な揺れではない。地面そのものが意思を持ったように隆起し、ゲイルの逃げ場を塞ぐ。
「しまっ――」
バランスを崩した一瞬の隙。
そこへ、背後の岩石の巨腕が横薙ぎに振るわれた。
「がはァッ……!!!」
まるで砲弾のように、ゲイルの体が吹き飛ばされる。
数本の鉄骨をへし折り、瓦礫の山に突っ込んでようやく止まる。
口から大量の鮮血が噴き出した。肋骨が数本、いや内臓すらも損傷しているかもしれない。
精霊による身体強化が無ければ即死だった。
「ゲイル!!!」
ベルクの悲鳴が響く。
彼女は駆け寄ろうとするが、足がすくんで動けない。
圧倒的すぎる。
近衛隊最強の騎士が、まるで赤子のようにあしらわれている現実。
「退屈だぞ。もっと骨のある護衛はいないのか?」
ギガスは戦鎚を肩に担ぎ直し、つまらなそうに首を鳴らしベルクを見下ろす。
その様子を見ていた白衣の男、ゾルタンが時計を確認しながら溜息をつく。
「ギガス。あまり遊びすぎないように。素材が傷つくと勿体ないでしょう?」
「あ? 分かってるよ。だが、この騎士様がチョロチョロして邪魔なんだわ」
「なら、さっさと片付けてしまいなさい。……あまり時間がかかるようなら、私が手伝ってやってもいいですがね」
ゾルタンがニヤリと笑い、懐から奇妙な筒状の魔道具を取り出した。
その銃口が向けられたのは、瓦礫の中で呻くゲイルではなく――ベルクだった。
「動くなよ、皇女様。抵抗すると痛い目を見るよ?」
ヒュンッ!
放たれたのは、魔力を帯びた拘束用の網弾。
ベルクは反応すらできない。
その網が彼女を捉えようとした、その瞬間。
「させ……るかぁッ!!」
血まみれの影が、ベルクの前に躍り出た。
ゲイルだ。
限界を超えた速度で割り込み、その身を盾にする。
バチバチバチッ!!
「ぐ、あぁぁぁぁぁぁッ!!!」
網弾がゲイルの体に絡みつき、高圧電流のような魔力が彼を焼き焦がす。
神経を直接焼かれる激痛。
それでも、彼は倒れなかった。後ろにいる主君に、指一本触れさせないために。
「ゲイル! もういい! もういいから!!」
「ひ、め……さま……お逃げ……くだ……さ……」
ガクリ、とゲイルの膝が折れる。
白目を剥き、意識は既に飛んでいる。それでもなお、彼はベルクを庇うように立ち塞がったまま、どうにか前のめりに倒れた。
「……美しいねぇ。これぞ騎士道、というやつかな?」
ゾルタンがパチパチと拍手をする。
ベルクは崩れ落ちたゲイルを抱き起こした。息はある。だが、虫の息だ。これ以上のダメージは命に関わる。
「よくやったよ、騎士君。おかげで皇女様は無傷だ」
ギガスが近づいてくる。
その巨大な影が、ベルクとゲイルを飲み込む。
「さあ、終わりだ。大人しく俺たちについてきな」
「……」
ベルクは震える手で、ゲイルの折れた剣を握りしめた。
勝てるわけがない。
魔法も使えない距離。剣術の心得もない。
それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。
「……来ないで」
「あ?」
「来ないでって言ってるのよ!! この……悪魔!!」
涙ながらに剣を構える皇女。
その姿を見て、ギガスとゾルタンは顔を見合わせて嘲笑した。
「ハハハ! 悪魔だってよ!」
「違いねぇ! だが嬢ちゃん、世の中には悪魔より怖いもんがいるんだぜ?」
ベルクを捕縛しようとギガスの腕が伸びてくる。
ベルクはギュッと目を閉じた。
(ごめんなさい、兄様。ごめんなさい、ゲイル……)
死を覚悟した。
だが。
いつまで経っても、その時は訪れなかった。
「……世の中には悪魔より怖いものがいる、ですか」
凛とした声が響き渡る。
「それは、妾たちのことを言っておるのかえ?」
続いて、妖艶な鈴の音のような声。
ベルクが恐る恐る目を開ける。
そこには、信じられない光景があった。
振り下ろされたはずのギガスの巨大な腕。
それが動かすこともままならず、ギガスの全身がプルプルと震えていた。
「な……ッ!?」
ギガスの顔が驚愕に歪む。
シャルロッテは、つまらなそうに欠伸をしながら、真紅の瞳で巨漢を見上げていた。
「遅くなってすまぬな、姫様。ギリギリまで敵を炙り出す必要があったのでな」
その背後には、静かにゲイルの元に駆け寄るティコの姿もあった。
「こちらも大丈夫です。上手く致命傷は避けていますね。重傷ではありますが……」
絶望の淵に現れたのは、味方というにはあまりにも禍々しく、頼もしい二人の怪物だった。




