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雨はすでに上がっていた。
だが、夜空を覆う分厚い雲は去ることなく、月明かりを遮断している。
アーデルハイト公国の国城、ベルク・アーデルハイトの私室。
濡れた衣服を着替え、髪を整え直したベルクは、鏡に映る自分を睨みつけていた。
短くなった髪。
それは決意の証であり、同時に「かつての自分」との決別でもあった。
「……ゲイル。配置はどうなっているの?」
背後に控える騎士に問う。
ゲイル・ラーマンは、主君の変貌を静かに受け入れ、淀みなく答えた。
「既に信頼できる部下を数名、私服で城下へ放っております。特に、先ほどの廃棄場周辺と、裏社会の人間が出入りすると思われる酒場を中心に」
「そう。……手際が良いわね」
「姫様が動くと決めた以上、私も迷いを捨てました。亡きロイ様が追っていた『闇』……今回の事件とどこまで関わりがあるのか、その尻尾を掴むにはこちらも泥を被る覚悟が必要です」
ベルクは鏡から視線を外し、窓の外へと歩み寄った。
硝子に映る城下町の灯りは、どこか儚く、そして不気味に見える。
あの光の下で、どれだけの悲劇が黙認されているのか。
「これはただの弔い合戦ではないわ。兄様の仇を討ったあとは、必ずこの国を蝕む膿を、今度こそ、根こそぎ焼き払う」
「……御意に」
「近衛隊からの情報が入るまで待機よ。焦って動けば、こちらの首を絞めることになる。でもこの国にそのヒントがあるかはわからない。いつまでも待つわけにはいかないわ」
ベルクは自身に言い聞かせるように呟き、固く拳を握りしめた。
震えは止まっていた。
その瞳には、冷たく燃える復讐の炎が宿っていた。
◆
すでに時刻は日付を回っている。
表通りの店は軒並みシャッターを下ろし、静寂が支配し始めている。
だが、裏通りは別だ。
陽の光を嫌う者たちが蠢くこの時間こそが、彼らにとっての「朝」であった。
近衛隊員ハンスは、酔っ払いを装いながら路地裏を歩いていた。
酒瓶を片手に、千鳥足で進むその眼光は鋭い。
彼はゲイルが最も信頼を置く部下の一人であり、隠密行動にも長けていた。
(……妙だな)
ハンスはふと足を止めた。
何かトラブルがあったのだろうか。野次馬や衛兵の姿が見える。
だが、ハンスが気になったのはそこではない。
その騒ぎから「遠ざかる」ように歩く、奇妙な二人組の影だった。
一人は、眼鏡をかけたショートカットの女性。
形式ばった質素な服装だが、その歩き方には隙がない。
そしてもう一人は――小さな少女。
十歳にも満たないような幼い容姿。ただし、感じる圧やオーラは眼鏡の女性以上だった。
(あんな子供が、こんな時間に……?)
違和感。
ただの親子や姉妹には見えない。
何より、彼女たちが放つ空気が異質だった。周囲の闇に溶け込みすぎていて、意識して見なければ認識すらできないほどの気配の希薄さ。
ハンスは酒瓶を懐にしまい、気配を殺して追跡を開始する。
相手は何者か分からない。だが、ロイ殿下の死に関わる「何か」である可能性は捨てきれない。
もしそうであれば、尋問して情報を引き出す必要がある。
路地裏を抜け、人気のない沢沿いに出た瞬間。
「――いつまでついてくる気じゃ?」
鈴を転がすような、だが底冷えするような声が響いた。
ハンスは息を呑んだ。
完璧に気配を消していたはずだ。距離も二十メートルは開けている。気づかれるはずがない。
前を歩いていた少女が、くるりと振り返る。
街灯の薄明かりに照らされたその顔は、人形のように整っていた。
だが、その真紅の瞳は、人間を見る目ではなかった。路傍の石ころを見るような、絶対的な無関心。
「……気づいていたのか」
ハンスは観念して姿を現した。
近衛の誇りにかけて、ただの不審者として終わるつもりはない。
懐から近衛隊の紋章をちらりと見せ、威圧的に告げる。
「公国近衛隊だ。貴様ら、こんな夜更けに何をしている?お世辞にも治安がいい場所とはいえない場所だぞ」
通常の市民なら、近衛の名を聞けば萎縮する。
悪党ならば、逃げ出すか武器に手をかける。
だが、少女は――笑った。
「そうか……お主がこの国の。なら都合がいいかもしれんの」
「……何がおかしい」
「なあに、お主には関係のないことじゃよ。じゃが、お主の国のことじゃ、少しばかり手伝ってもらうとするかのう」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味じゃよ。――ロイ・アーデルハイトについて……といえばわかるかの?」
それを聞いた瞬間、ハンスは精霊装具化で実体化させた剣を素早く構える。
「ほう……なかなか素早いではないか」
関心する少女に注意を向けるハンスであったが、その横にいたはずの女性がすでにいないことに気づいた。
「なっ……!?」
「あまり、大きな声を出さないでください。あなたに危害を加えるつもりはありませんので」
その女性はハンスの後ろに回り込み、背中には剣が突きつけられていた。
「……近衛隊として、お前らのような怪しげなやつを放置するわけにはいかない」
「そうですね……。では、自己紹介でもしましょうか」
「自己紹介だと?」
女性は一瞬で数歩距離をとる。その動きすらハンスには見切ることができなかった。
そのまま、かけていた眼鏡を取ると整った顔が露わになった。
「ティコ・グレイ。ロイさんの通っていた学院の教師です」
「……っ!殿下の……!」
驚くハンスに今度は少女が話かける。
「お主も探しておるのじゃろう?自分らの主の仇を」
「あの人はシャルロッテさん。私よりもずっと強いですよ。無謀なことは考えないほうがいいかと。なんなら年齢も私やあなたよりも随分上っぽいです」
ティコは、少女――シャルロッテのことも併せてハンスに伝える。今し方、強さを見せつけた自分よりも強者であると。
「これ若いの。あまり不要なことを喋るでないわ」
呆気にとられるハンスは戦意喪失していた。
ただし、流石は近衛隊というべきだろうか、すでに次の行動パターンを何通りも考え切り抜けるための最善択を考え始めている。
しかし、その思考もすぐに破られることになる。
「お主のところも姫君も気をつけなければ、王子の二の舞になるぞ」




