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「何故ですか!!! 何故動かないのです!!!」
石造りの床を叩く雷鳴よりも鋭く、悲痛な叫びが謁見の間に響き渡った。
重厚な扉の向こう、雨に打たれる窓硝子がガタガタと震えている。だが、この場を支配する空気の冷たさは、外の嵐の比ではなかった。
薄暗い広間の最奥。玉座に沈み込むように座る老王に向けて、ベルク・アーデルハイトは声を枯らさんばかりに吠えていた。
普段ならば綺麗に結い上げられている亜麻色の髪は乱れ、目尻には拭いきれなかった涙の跡が滲んでいる。
「何度も言ってるであろう。決して動いていないわけではない。ベルクの怒り、しかと伝わっておる。そしてその怒りはわしも同様じゃ」
国王の声は重く、そして酷く老け込んで聞こえた。
数日前、第一皇子ロイ・アーデルハイトの訃報が届いてから、この父は急激に歳をとったように見える。だが、その瞳には諦観のような色が混じっていた。それがベルクには許せなかった。
政治的な配慮。他国との協定。証拠の不在。そんな「大人の事情」で、最愛の兄の死を濁そうとしているようにしか思えなかったからだ。
「では、何故ここまで進展がないのでしょうか!……兄様は、兄様は……ッ。私は絶対に許しません。父上の言葉も信用できません!」
ドレスの裾を翻し、ベルクは玉座に背を向けた。
「待て、ベルク!」
父の制止する声を無視し、重い扉を両手で荒々しく押し開ける。
廊下に出た瞬間、冷ややかな空気が火照った頬を撫でた。
そこには、一人の男が直立不動で待機していた。
「……姫様」
近衛隊長、ゲイル・ラーマン。
まだ三十手前という若さながら、その剣技と冷静沈着な指揮能力で近衛のトップに上り詰めた男だ。兄ロイも信頼を置いていた忠臣であり、幼い頃からベルクの守り役でもあった。
彼はベルクの荒い息遣いと、充血した瞳を見て、全てを察したように小さく目を伏せた。
「陛下との対話は、不調に終わりましたか」
「ええ。話にならないわ。父上は臆病風に吹かれているだけよ」
「陛下もまた、御子息を失った被害者です。国を背負う者として、軽挙妄動を慎んでおられるだけかと」
「軽挙妄動? 兄様が殺されたのよ!? これを黙って見過ごすことが、王族の務めだと言うのなら……!」
ベルクはギリリと奥歯を噛み締め、廊下を大股で歩き出した。
カツカツとヒールの音が怒りを代弁するように廊下に響く。ゲイルは音もなくその背後に続いた。
「ゲイル。近衛隊を出しなさい」
「……何処へ向かわれるおつもりで?」
「決まっているでしょう。兄様の無念を晴らしに行くのよ」
ゲイルは歩調を緩めず、淡々とした口調で返す。
「相手の居場所も、正体も掴めていない状況で兵は動かせません。それに、近衛隊を動かすには陛下の許可が必要です」
「貴方まで私を止めるの? 兄様があんな……あんな姿で戻ってきたのに!」
ベルクの脳裏に、数日前の光景がフラッシュバックする。
変わり果てた兄の姿。冷たくなった手。いつも優しく頭を撫でてくれたその手は、もう二度と動かない。
「止めます。それが私の役目ですから」
「なら、私一人で行くわ。退きなさい」
「なりません。この嵐の中、姫様をお一人で城外へ出すわけにはいきません」
ベルクは足を止め、振り返ってゲイルを睨みつけた。
だが、ゲイルの瞳は揺らがない。ただ静かに、主君の暴走を諫める壁としてそこに立っていた。
ベルクは知っている。この男は、命令や脅しで動くような柔な精神をしていない。
「……そう。なら、貴方はここで番犬でもしていればいいわ」
ベルクは懐から小さな短剣を取り出し、自身の長く美しい髪を無造作に掴んだ。
銀閃が走る。
バサリ、と音を立てて、亜麻色の髪の束が廊下に落ちた。
「ひ、姫様……!?」
「喪に服す時間すら惜しいわ。……ついて来る気がないなら置いていく。邪魔をするなら、貴方でも斬る」
その瞳に宿る暗い炎を見て、ゲイルは深いため息を吐いた。
理屈ではない。今の彼女を止める言葉を、自分は持っていないことを悟ったのだ。
「……承知いたしました。ですが、近衛隊全てを動かせば目立ちすぎます。信頼できる手勢を数名、私主導で同行させます」
「……ふん。最初からそう言えばいいのよ」
ベルクは短くなった髪を乱暴にかき上げ、再び歩き出した。
その背中は、震えているようにも、何か決死の覚悟を決めたようにも見えた。
「情報よ。父上があの体たらくなのであれば大した情報もないはず。先ずは情報を集めるの」
◆
公国の城下町は、分厚い雨雲に覆われていた。
石畳を叩きつける雨音と、遠くで鳴る雷鳴が、街全体の色彩を灰色に塗りつぶしている。
ベルクはフードを目深に被り、泥濘んだ路地裏を歩いていた。
隣には平服に着替えたゲイル、そして背後には数名の精鋭が気配を殺して続いている。
「この辺りは治安が良くありません。姫様が足を踏み入れて良い場所ではない」
「文句が多いわね、ゲイル。兄様が生前、この国の『影』の部分を調査していたことは知っているでしょう? なら、手掛かりはこういう場所に落ちているはずよ」
ベルクの足取りは焦りに満ちていた。
確証などない。ただの当てずっぽうだ。それでも、じっとしているよりはマシだった。
兄・ロイは生前。それも学院に入学する前から、公国内に蔓延る違法な薬物や、人身売買のルートを独自に洗っていたという話を聞いたことがある。もし兄を殺したのがその延長線上の敵だとするなら、裏社会の情報屋や、闇市場に近いこの区画に何らかの痕跡があるはずだ。
「……臭うな」
ゲイルが低く呟き、腰の剣に手をかけた。
雨の匂いに混じって、鉄錆のような、あるいは古びた血のような異臭が鼻をつく。
目の前には、廃倉庫のような建物が立ち並んでいた。
窓は割れ、入り口の扉は半ば外れかけている。
ベルクはその中の一棟、特に異臭が強く漂う建物に目をつけた。
「あそこよ。……何か、嫌な気配がする」
「お待ちください。まずは私が」
「いいえ、行くわよ!」
ベルクは制止を聞かずに廃倉庫の中へと踏み込んだ。
中は暗く、天井の穴から雨漏りが滝のように降り注いでいる。
雷光が一瞬、倉庫内を照らし出した。
「っ……!?」
ベルクは息を呑み、口元を手で覆った。
「……なにこれ」
「姫様!」
ゲイルがベルクに追いつく。
そこで2人が見たものはあまりに凄惨な光景だった。
子供から老人まで、いつ死んだかもわからない状態の死体がその場に放置されていた。
「……こんなことって」
「これが現実です姫様。光があれば闇があります。王子はこういった問題を解決しようと奔走していらっしゃった……本当に残念でなりません」
「……ゲイル。兄様の意思は必ず私が受け継ぎます。兄様の無念を必ず晴らして見せます!」
薄暗闇の雨空の下、ベルクは決心する。必ず兄の仇を討つと。兄の夢を叶えると。
ベルクの熱い思いは、降り注ぐ冷たい雨を忘れさせるほどの決意に満ちていた。




