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木枠の窓から差し込む陽光が、畳の上をゆっくりと移動し、布団で眠る少女の目元を照らした。
小鳥のさえずりと、遠くから聞こえる里の生活音。
ナギは重いまぶたを擦りながら、ゆっくりと意識を覚醒させた。
鼻をくすぐる井草の香り。
固いけれど寝心地のいい煎餅布団の感触。
ああ、帰ってきたんだ。ぼんやりとした頭で、そんなことを思う。
ナギは身じろぎすると、無意識のうちに自身の胸元――心臓の少し上あたりを、そっと手で押さえた。
(……いる)
呼び出す必要すらない。
意識を向ければ、そこには確かな「熱」があった。
昨日まで、分厚い扉と冷たい泥に阻まれていた場所。今はその閉塞感が嘘のように消え失せ、代わりに澄み切った風が循環しているのが分かる。
魂の一部が、あるべき場所に還ってきた感覚。
ナギが心の中でそっと相棒の名を呼ぶと、呼応するように内側の魔力が脈打った。
言葉などなくても伝わってくる。
全幅の信頼と、深い愛情。
ナギは「ふぅ」と深く息を吐き出し、胸元の服をギュッと握りしめた。
枕が濡れる感触がして、初めて自分が泣いていることに気づく。
それは悲しみの涙ではなく、安堵によって溢れ出した感情の雫だった。
◆
朝餉の席は、穏やかな空気に満ちていた。
朱塗りの大きなお膳には、里で採れた山菜の煮物、川魚の塩焼き、大根の味噌汁、そして炊きたての白米が湯気を立てている。
学院ではあまり見ない献立にアリスのテンションが上がる。
「このお魚、身がホクホクしておいしい!」
「こらアリス、行儀が悪いですよ。口に物を入れたまま喋らない」
「だってぇ、おいしいんだもん!」
アリスが頬を膨らませ、アリアがそれを呆れながらも甲斐甲斐しく世話を焼く。
今日はイオリもシンシアも共に卓につく。
シオンも、黙々と、しかし結構なペースで白米をおかわりしている。
「……ふん。若いのはよう食うな」
上座に座るミナモは、茶を啜りながらその様子を眺めていた。
その表情は、いつもの厳しさとは違い、孫を見るような穏やかさを湛えている。
「師匠も食べてくださいよ。これ、師匠が漬けた漬物でしょう?」
ナギが小皿を差し出すと、ミナモは苦笑して箸を伸ばした。
「お前が小さい頃、よう盗み食いして怒られとったやつやな」
「も、もう時効やんか!」
アリスが笑い、アリアも口元を緩める。
箸が触れ合う音と、他愛のない会話。
昨日の遺跡での、あの人知を超えた現象が嘘のような、平和な朝。
ナギは、湯気の向こうで笑う友人たちと師匠を見て、胸がいっぱいになる。
守りたかったのは、この景色だ。
ピュールがいなければ、そしてシオンたちがいてくれなければ、二度と戻れなかった日常。
失いかけたものの大きさを改めて知り、ナギは最後の一口を深く噛み締めた。
◆
出発の時間は、すぐにやってきた。
荷造りを終えた一行は、里の入り口にある結界の門の前に立っていた。
別れを惜しむように、村人たちが総出で見送りに集まってくれている。
次々と渡される土産で、シオンの荷物がさらに膨れ上がっていく。
ナギは一人一人と言葉を交わす。
誰もが笑顔で、ナギの無事を喜び、そして前途を祝ってくれている。
その温かさに、目頭が熱くなるのをぐっと堪えた。
そして、最後。
腕組みをして仁王立ちしている、豪奢な着物姿の師匠の前に立った。
「……世話になりました、師匠」
ナギが深々と頭を下げる。
ミナモは扇子で肩をトントンと叩きながら、ナギを見下ろした。
「頭を上げぇ。……ええ顔になったな」
「え?」
「来た時は、迷子の犬っころみたいな顔しとったけどな。今はちゃんと、自分の足で立っとる顔や」
ミナモの言葉に、ナギはハッとする。
彼女はそっぽを向くと、扇子でシッシッと追い払う仕草をした。
「湿っぽいのは性分やない。さっさと行き」
「……はい!」
ナギが元気よく返事をする。
だが、すれ違いざま。
ミナモはナギにだけ聞こえる声で、低く囁いた。
「――ピュールのことは、誰にも言うなよ」
「……!」
「中身がどう変わったかは知らんが、今のあいつは『過ぎた力』や。学院に戻っても、決して油断するな」
昨日の光景。
ミナモですら理解不能だった浄化の儀式。
戻ってきたピュールは、一見すると無害に見えるが、その深淵には計り知れない何かが眠っている。師匠としての、鋭い警告だった。
「はい。肝に銘じます」
ナギが真剣な目で頷くと、ミナモは満足げに口角を上げた。
そして最後に、荷物持ちの少年へと視線を投げる。
「そこのボウズも。……ナギのこと、頼んだで」
「はい、もちろんです。でも、ナギはもう大丈夫かと」
シオンが肩をすくめる。
ミナモは呆れたように笑ったが、その目には確かな信頼の色があった。
彼なら、何があってもナギを守り抜くだろうという確信。
「ほな、皆の衆! 結界を開けるで!」
ミナモの号令と共に、空間が歪み、外の世界へと続く道が開かれる。
吹き込んでくるのは、里の中よりも少し湿った、夏草の匂いがする風。
「行ってきます!!」
ナギは大きく手を振り、光の中へと足を踏み出した。
背中を押してくれる里のみんなの声援を背に受けて。
一度も振り返らなかったのは、ここが「逃げて帰ってくる場所」ではなく、「胸を張ってただいまと帰ってくる場所」だと決めたからだ。
霧が晴れた霊峰の空は、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。




