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遺跡の空気が凍りついた。
いいや、違う。
温度が下がったのではない。空間そのものが、ディアナの「意思」によって塗り替えられた。
「……なっ?」
アリアが息を呑む。
泥の巨人が、シオンとディアナに向かって腕を振り下ろそうとした、その瞬間だった。
『図が高いわよ』
ディアナが金色の瞳を細め、わずかに不快そうに鳴いた。
ただ、それだけ。
魔力の予備動作も、詠唱も、魔法陣の展開もない。
だが、事象は唐突に発生した。
ズドンッ!!!!
巨人の体が、見えない巨大な手で押し潰されたように、地面へと叩きつけられた。
石畳が悲鳴を上げ、クレーター状に陥没する。
「ギ、ギギギ……ッ!?」
巨人が起き上がろうと藻掻くが、指一本動かせない。
「な、何ですか……今の……」
アリアが呆然と呟く。
彼女の目には魔力の予兆は見えなかった。何もしないまま、敵が勝手に潰れたようにしか見えない。
「……核は見えたか? ディアナ」
シオンが静かに問う。
『ええ。あの子と繋がっているパスを傷つけずに、汚い泥だけを消せばいいのね?』
ディアナが潰れた巨人を見下ろす。
その泥の中心、ナギの胸へと繋がる黒い鎖の結び目を見定めた。
『面倒だけど……主の頼みなら仕方ないわね』
ディアナが空を見上げる。
呼応するように、崩れた天井の隙間から差し込む陽光が、異常な輝きを帯び始めた。
『消えなさい』
――その瞬間、世界から「音」が消えた。
天空から、無数の「光」が降り注ぐ。
それは物理的な矢ではない。
天から地上へと引かれた、数千本の「光の線」だ。
アリアの水龍も、アリスの炎も弾いた泥の装甲を、光の雨は豆腐のようにすり抜けていく。
抵抗など許さない。
存在することすら許さない。
正確無比。
数千本の光の線が、ナギの体には一切触れることなく、彼女に絡みついていた「黒い鎖」と「泥の巨人」だけを貫き、この世の理から抹消した。
カッ――――――――!!
最後に弾けた閃光が、遺跡内のすべてを白く染め上げる。
アリアもアリスも、あまりの眩しさに腕で顔を覆い、目を閉じた。
……長い、長い静寂。
やがて、光が収束していく。
恐る恐る目を開けたアリアたちの目に映ったのは、幻想的な光景だった。
崩れた天井から差し込む陽光に反射して、無数の金色の粒子が舞っている。
ダイヤモンドダストのように輝くその光の粒は、先ほどまでそこにいた怪物の残滓か、あるいは浄化の余波か。
あまりにも美しく、神々しい静寂。
その光の粒が舞い踊る中心に、一人の少女が座り込んでいた。
「…………」
ナギは、呆然と自分の胸元を見つめていた。
あれほど苦しめられた圧迫感がない。
心を蝕んでいた冷たい泥の感触もない。
代わりにそこにあるのは、懐かしく、温かい「重み」。
「……ピュール?」
震える声で呼ぶ。
すると、胸元に抱えられた小さな体が、ぴくりと動いた。
「ぴゅる……」
弱々しくも、確かな命の鼓動。
ゆっくりと顔を上げたのは、リスのような愛くるしい精霊。
つぶらな瞳が、ナギの顔を映して潤んでいる。
「ぴゅるるぅ……!」
「……っ!」
ナギの視界が、涙で歪んだ。
夢じゃない。
ずっと閉ざされていた扉が開いたのだ。
「ピュール……! おかえり、おかえりぃ……ッ!!」
ナギがピュールを強く抱きしめ、顔を埋める。
ふわふわの毛並みの感触。
日向のような匂い。
その全てが、ナギにとっては何よりも代えがたい宝物だった。
ピュールもまた、ナギの頬に小さな体を擦り付け、「ぴゅるっ、ぴゅるる!」と何度も鳴いて応える。
光の粒子が舞う遺跡の中心で、一人と一匹は確かめ合うように、いつまでも抱き合っていた。
「よ、よかったぁ……!」
「ご無事で何よりです……本当に」
アリスが涙ぐみながらへなへなと座り込み、アリアが安堵の息と共に胸を撫で下ろす。
美しい大団円。
だが、一人だけ。
祭壇の端で腰を抜かしていたミナモだけは、現実を受け入れられずにいた。
(……あれだけ暴れといて無傷かいな。見た目も昔のまま……)
ミナモは瞬きをして、目を凝らす。
あれだけの「呪い」が解き放たれ、強制的な魔力拡張が行われたのだ。てっきり見た目も禍々しく変わるか、あるいは神々しい姿になるかと思っていたが、魔力反応も外見も、以前と変わらないように見える。
(ま、ワシの考えすぎやったか。……それより)
ミナモの視線が、ゆっくりと横へスライドする。
そこには、何食わぬ顔で佇む少年と、その足元で優雅に毛づくろいをしている黒猫がいた。
「……お前ら、一体何モンや」
ミナモの声は震えていた。
泥の巨人を一瞬で圧殺した謎の力。そして、空から降り注いだ浄化の光。
風使いである彼女ですら、魔力の流れを一切感知できなかった。
あれは、魔法などという理屈で語れるものではない。もっと根源的な「何か」だ。
「ただの荷物持ちですよ」
シオンは涼しい顔で答える。
「ディアナも、ただの猫です。……なぁ?」
『……にゃ~ん(棒読み)』
ディアナが面倒くさそうに鳴いた。
ミナモはジト目で二人を睨むが、追求する気力も残っていないようだった。
あんなデタラメを見せられては、常識など犬に食わせるしかない。
「……はぁ。もうええわ。ナギが無事やったんや、文句は言わん」
ミナモが立ち上がり、パンパンと着物の砂を払う。
そして、光の中で再会を喜ぶ弟子に向かって、今日一番の笑顔を見せた。
「よう頑張ったな、ナギ。……おかえり」
その言葉に、ナギが振り返る。
満面の笑みと、涙でぐしゃぐしゃになった顔で。
「はいっ! ……ただいま、師匠!」
風鳴りの回廊に、爽やかな風が吹き抜ける。
今はただ、この優しく、眩しい時間を噛み締めるだけで十分だった。




