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襖が静かに閉められると、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。
畳の井草の香りと、微かに漂う甘い煙管の匂い。
ミナモの私室は、質素だがどこか懐かしい空気に満ちていた。
壁に掛けられた掛け軸や、使い込まれた文机。その一つ一つが、ナギにとっては幼い頃から見慣れた「師匠の部屋」そのものであり、心の奥底にある緊張の糸を優しく緩めていく。
「……ふぅ。どいつもこいつも、騒ぎすぎや」
ミナモは文句を言いながらも、どこか楽しげに長椅子へと腰を下ろした。
細い煙管をくゆらせ、紫煙の向こうからナギたちを見やる。
その瞳にあるのは、先ほどまでの威圧感ではなく、久しぶりに帰ってきた娘を案じる保護者の色だった。
「まぁ、座り。茶くらい出したる」
「あ、ありがとうございます……」
ナギとシオンが座布団に腰を下ろす。
ミナモは手慣れた手つきで急須に湯を注ぎながら、ポツリと漏らした。
「元気そうで安心したわ。……背も、ちょっと伸びたんちゃうか?」
「え、ほんまですか? ……ふふ、そうかも」
ナギが嬉しそうに頬を緩める。
張り詰めていた緊張が解け、部屋に穏やかな時間が流れた。湯呑みから立ち上る湯気が、二人の間の距離を埋めていく。
だが、その安らぎは長くは続かない。
コトッ。
ミナモが茶碗を置いた音が、妙に大きく響いた。
揺らめいていた紫煙が、ふっと停滞する。
「――せやけど」
ミナモの声のトーンが、一段階低くなる。
室内の空気が、急激に質量を増したかのような錯覚。
「静かすぎるな」
「え……?」
「とぼけなや。あんたと四六時中一緒にいた、あの騒がしい精霊の声がせぇへん」
ミナモの視線が、ナギの胸元――契約精霊とのパスが繋がっているはずの場所を、鋭く射抜いた。
「……それが、里に帰ってきた理由やろ?」
ナギの表情が凍りつく。
隠せるはずもなかった。
相手はこの国でも指折りの風使いであり、ナギに精霊との付き合い方を教えた師なのだから。
「……はい」
ナギは小さく頷き、自身の胸元をギュッと握りしめた。
かつては常に感じていた相棒の温かさが、今はどこにもない。
「誘拐された時に……無理やり、力を引き出されて。それからずっと、声が聞こえへんのです」
ナギは言葉少なに、しかし要点だけを伝えた。
王族としての血筋を狙われたこと。
そこで行われた『原相方舟』による強制的な覚醒実験。
そして、暴走しかけたピュールが、今は眠りについてしまったこと。
ミナモは黙って聞いていた。
時折、煙管を吸い、長く吐き出す。その煙の動きだけで、彼女の感情の揺れ動きが見て取れるようだった。
「……なるほどな。無茶苦茶しよる」
全てを聞き終えたミナモは、短く吐き捨てた。
怒声ではない。だが、その声には部屋中の障子をガタつかせるほどの静かな怒気が滲んでいた。
「ちょっと見せてみ」
ミナモが手を差し出す。
ナギがおずおずと体を寄せると、ミナモは彼女の胸に直接手をかざし、片目を細めた。
指先から目に見えないほど繊細な魔力の風が流れ込み、ナギの内側にある契約の回路を探っていく。
長い沈黙。
外からは虫の声だけが聞こえてくる。
「……生きてるな」
ミナモの言葉に、ナギが弾かれたように顔を上げた。
「ほ、ほんまですか!?」
「ああ。魂までは砕けとらん。ただ、強制的な拡張に耐えきれず、自己防衛本能で殻に閉じこもっとるだけや。冬眠みたいなもんやな」
ミナモは手を離し、ふぅと息を吐いた。
「この霊峰は、世界でも有数の魔力溜まりや。特に『風』の属性が濃い。ここの最深部にある祭壇で、ワシの精霊と共鳴させて、外部から大量の魔力を流し込めば……叩き起こせるかもしれん」
「よかった……っ」
ナギが両手で顔を覆う。
その目には安堵の涙が浮かんでいた。
「ただし」
ミナモが釘を刺すように人差し指を立てる。
「ただ元に戻るだけやないぞ。お前、さっき言うたな。『無理やり力を引き出された』と」
「……はい」
「器を広げられたっちゅうことは、戻る時はその広げられた器に見合うだけの『ナニカ』になっとる可能性がある。……ま、今は考えすぎてもしゃあないか」
ミナモは意味深な言葉を残し、パンと手を叩いた。
「治療方針は決まりや。明日の朝から準備にかかる。……で、や」
ナギの件が一段落したところで。
ミナモの視線が、ゆっくりと横へスライドした。
そこには、これまで一言も発さず、ただ静かに佇んでいた少年の姿がある。
「ナギの話は分かった。……次は、お前の番やな」
ミナモの瞳が、鋭い剣呑さを帯びる。
「ただの荷物持ち、とは言うたが……お前、何者や?」
シオン。
ただそこに座っているだけ。魔力を放っているわけでも、殺気を出しているわけでもない。
だが、ミナモの「達人としての勘」が警鐘を鳴らしていた。
こいつは、普通ではないと。
「……ナギの同級生で、シオンと言います。ただの友人ですよ」
シオンは表情一つ変えず、淡々と答える。
「ほう、友人な。……友人が、そんな化け物を連れ歩くか?」
ミナモの視線が、シオンの膝の上で丸くなっている黒猫に向けられた。
ディアナだ。
彼女は退屈そうにあくびをし、ミナモの視線など意に介さない様子で毛づくろいをしている。
ミナモは内心で冷や汗をかいていた。
この部屋に入った瞬間から、微弱な風を使って二人を探っていた。
ナギの底は見えた。
だが、この少年と黒猫には、底が見えない。
風を送っても、まるで虚空に吸い込まれるように情報が返ってこないのだ。
(……この黒猫、精霊か? それも、ワシが使役してる風の上位精霊たちが、怯えて近寄らんほどの……)
ミナモは煙管を灰皿に叩きつけた。
「……まぁ、ええわ」
追求を諦めたように、ミナモは大きなため息をついた。
「ナギが無事に帰ってきたんも、お前がおったからこそなんやろ。そこは感謝したる」
「いえ。俺は何も」
「謙遜はいらん。……ただ、これだけは言うとくぞ」
ミナモは身を乗り出し、シオンの目を真っ直ぐに見据えた。
「ナギの治療には、お前のその“規格外の力”が必要になる時が来るかもしれん。その時は……手ぇ貸したってくれるか?」
見抜かれている。
シオンは観念したように、わずかに口元を緩めた。
「……ナギのためなら、喜んで」
「ふん、ええ返事や」
ミナモは満足げに頷くと、ニカっと豪快な笑みを浮かべた。
「よし! 湿っぽい話はこれでおしまいや! 明日は早いぞ、さっさと寝て精つけんかい!」
豪快な一喝と共に、ミナモは立ち上がる。
その背中は、頼もしい師匠のそれだった。
ナギとシオンは一礼して部屋を出る。
廊下に出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。
「……よかったな、ナギ」
「うん。……師匠、やっぱりすごいや」
ナギは夜空を見上げる。
満天の星空が、明日の希望を祝福しているかのように輝いていた。
ピュールを取り戻すための、そしてナギ自身が新たな一歩を踏み出すための試練が、ここから始まる。




