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昨日の訓練場で起きた出来事が、まだ胸の奥に残っている。
数字が貼り出されただけで、学院の空気はこんなにも変わるのかと思った。
視線が鋭くなり、足音が神経質になり、精霊たちでさえ落ち着かない。
その空気の中で、いちばん静かだったのは――
挑発された当の本人、エルド・ハリオン君だった。
挑んできた上位生の声は大きく、精霊は火花を散らし、
結界が反応するほど空気が熱を帯びていったのに。
エルド君は動じなかった。
(……強い、ってこういうことなのかな)
エルド君が言った「――」という短い言葉。
意味は分からなかった。だけど、挑発していた相手の顔色が
一瞬で変わったことだけは、はっきり覚えている。
エルド君が見ていたのは、相手じゃなかった。
もっと遠く、もっと上――
王級契約者の三人を見据えるような目。
決して届かない壁ではなく、
「いつか手を伸ばす場所」を見ているような、そんな眼差しだった。
(……私も、強くなりたい)
数字を上げたいというよりは、
あの場に立っていた“選ばれる空気”に、もう一度触れたい。
そんなことを思いながら、私は教室へ入った。
◆
教室の中は、妙な緊張感に包まれていた。
みんな自分の席に座っているけれど、視線だけがある一点を避けている。
窓際、一番後ろの席。
そこだけがぽっかりと空いていた。
「……あそこ、例の9位の席だよね」
「誰も座らないのか?」
「座れるわけないだろ、あんな事件起こしたやつの席なんて……」
ひそひそ声が聞こえる。
誰も近づこうとしないその机は、まるでそこだけ世界から切り離されているようだった。
ふと、その机の上に影が見えた気がした。
小さくて、しなやかな黒い影。
猫……?
パチッ、と瞬きをした瞬間、影は消えていた。
ただの木漏れ日の悪戯だったのかもしれない。
「……?」
首を傾げていると、ちょうど前の扉からエルド君が入ってきた。
「よ。……昨日は騒がしかったな」
「あ、うん……大丈夫だった?」
「別に。ああいう奴、どこにでもいるしな」
本人は本当に気にしていない様子だった。
でも雷精霊は肩の上でピリッと光り、
風精霊は彼の腕元に寄り添うように揺れている。
精霊の方が正直だ。
「エルド君って、落ち着いてるよね」
「落ち着いているわけじゃねぇよ。ただ、無駄なことしないだけだ。」
「……かっこいいと思うよ?」
「かっこよくねぇ」
即答されたけれど、その口調はどこか照れているように聞こえた。
◆
一限目の実技授業。
昨日の余波なのか、訓練場の空気は少し張りつめていた。
「今日は二人組で連携だ。隣同士で組め」
自然とエルド君とペアになる。
「……よろしくね」
「おう」
それだけで少し安心した。
◆
最初は全然うまくいかなかった。
私の蔦の伸びるタイミングと、
エルド君の風の誘導が噛み合わなくて、
私の精霊が戸惑って葉を震わせる。
「ご、ごめんね……!」
「いや、俺が強めに出してるな。……ほら、合わせるぞ」
エルド君は手を軽く払って風精霊と呼吸を合わせる。
その仕草がなんだか好きだ。
再挑戦。
風が流れ、蔦が導かれ、雷が軌跡を走る。
パシィンッ
「……できた!」
「おー、悪くねぇじゃん」
エルド君の風精霊が嬉しそうに揺れ、
雷精霊がちいさな火花を跳ねさせた。
成功が嬉しくて、会話も自然と増えていく。
「昨日、ほんとにすごかったよ」
「すごくねぇ。やり合っても意味ねぇし」
「意味……?」
「上見ろよ。王級の三人とか、どう考えても化け物だろ」
「……たしかに」
「そこを意識せずに吠えてる時点で、勝負にならねぇよ」
エルド君は数字ではなく、実力を見ているのだと分かった。
(……やっぱりすごいな)
そう思うと胸が少し熱くなった。
◆
最後の課題。二人同時攻撃。
「息合わせるぞ」
「うん!」
蔦が伸び、風が導き、雷が貫く。
ドンッ
的が大きく揺れ、生徒たちがざわめいた。
「……やったぁ!」
「ふっ。まあ、悪くねぇな」
照れ隠しみたいに目を逸らすエルド君。
雷精霊は嬉しそうに跳ねていた。
(……かわいい)
思わず笑みがこぼれた。
◆
訓練場の出口で、私は少しだけ勇気を出す。
「あ、あのねエルド君……
もし、よかったら……また一緒に練習できたらなって……」
「まあ、いいけど」
「ほ、ほんと!?」
「『ミナ』とはやりやすいしな。雷と風だけじゃ足りないとこ、補えるし」
「……ありがとう」
その言葉が嬉しくて、
私の精霊がポンっと葉を弾いた。
◆
教室へ戻ると、ひそひそ声が耳に入る。
「9位のやつ、結局来なかったな」
「やっぱり謹慎か?」
「いや、俺聞いたぜ。昨日のボヤ騒ぎ、あいつが検査機に触れた瞬間、中から爆発したらしい……」
「なんだよそれ……」
噂は尾ひれをつけ、得体の知れない恐怖へと変わっていく。
エルド君は無表情で聞き流していた。
「……気になる?」
「別に。来られねぇなら来られないでいいだろ。
名前もないんじゃ、誰なのかもわかんないしな」
その言葉は淡々としているのに、
どこか含みがあるように聞こえた。
(……エルド君は、何か感じてるのかな)
けれど私にはまだ、その理由は分からない。
ただ――
教室の隅、ぽっかりと空いたままの席だけが、
静かに私たちを見ている気がした。
数字が揺れ、誇りが燃え、
誰かの未来が静かに形を変え始めている。




