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休憩を終え、一行は再び歩き出した。
だが、進めば進むほどに霧は濃度を増し、乳白色の闇となって視界を遮り始める。
イオリの結界が放つ淡い光だけが、唯一の道標だった。
「……変やな」
ナギが手元の石を見つめ、呟く。
青白い輝きは増しているものの、その明滅は不規則で、まるで呼吸が乱れているかのようだった。
「光り方が、乱れてる。点滅してるみたいや」
「シンシア、周囲の反応は?」
アリアが鋭く問う。
「そ、それが……!」
シンシアが青ざめた顔で声を震わせる。
常に小刻みに動いていた彼女の耳が、今は硬直していた。
「わかりません……! さっきまでクリアだったのに、急にノイズが走って……前後左右、全部真っ白です!」
「なんですって?」
「アリス様、下がってください!」
イオリが警告を発した瞬間、キィィンという不快な高音が響き渡った。
空間そのものが軋むような音。
足元を支えていたはずの魔術的な平面が、ぐにゃりと歪む。
「ッ、結界が――!」
イオリの悲鳴ごとき声は、瞬く間に白い奔流にかき消された。
足元の感覚が消失する。
上下左右すら曖昧になる浮遊感。
「ナギ、離れるな!」
シオンが即座に手を伸ばす。
だが、その指先が触れるよりも早く、世界は白一色に塗りつぶされた。
◆
三半規管を直接揺さぶられるような、強烈な吐き気。
天地が逆転する浮遊感を経て、唐突に重力が戻ってくる。
「……ッ」
アリアは優雅さを保ちつつも、片膝をつく形で着地した。
肺に満ちる空気は冷たく、湿り気を帯びている。
視界が晴れると、そこは針葉樹が立ち並ぶ深い森の中だった。
漂う霧は相変わらず濃いが、先ほどのような平衡感覚を狂わせる濃密な魔力は薄れている。
「アリア様、ご無事ですか」
冷静な声が、背後から響く。
アリアが振り返ると、眼鏡の位置を直しながら周囲を警戒するイオリの姿があった。
その表情は平然としているが、呼吸がわずかに乱れている。
「ええ、なんとか。……どうやら飛ばされてしまったようですね」
アリアは短く溜息をつき、スカートについた砂を払って立ち上がる。
最悪の事態だ。
周囲に他のメンバーの気配はない。
「イオリ、他のみんなは?」
「……反応なし、です。私の結界のマーキングも遮断されています。おそらく、この霧が魔力を阻害しているのかと」
「そうですか……」
アリアの表情が曇る。
アリスやシオンの実力は信頼している。だが、ナギは違う。
彼女はまだ怪我の療養中であり、精霊の声も聞こえていない。そんな状態で、この得体の知れない森に放り出されたとしたら――。
「……申し訳ありません」
不意に、イオリが悔しげに唇を噛んだ。
「私がついていながら、アリス様を見失うなど……従者失格です」
彼女にとって、アリスは絶対の主だ。その守護を全うできなかった事実は、冷静な彼女の心を揺さぶるには十分だった。
「自分を責めるのは後になさい。今は合流が最優先です」
アリアは諭すように言う。
「あの子のことです。きっと今頃、能天気に騒いでいるか、あるいは――」
アリアは言葉を切り、冷ややかな視線を霧の奥へと向けた。
「――襲ってきた相手を、返り討ちにしようとしている頃でしょう」
フゴォォ……ッ。
アリアの言葉に呼応するように、霧の奥から荒い鼻息が漏れた。
ズズッ、と地面を踏みしめる音。
現れたのは、巨大なワイルドボアだった。
だが、ただの魔獣ではない。全身に青白い霧が纏わりつき、輪郭が揺らいでいる。
その瞳は赤く充血し、異常な興奮状態にあることが見て取れた。
「先ほどシンシアが探知した群れでしょう。ですが、様子がおかしいですね」
「実体が霧と同化しかけています」
イオリが数枚の呪符を取り出し、指に挟む。
「物理干渉をすり抜ける可能性があります。アリア様の氷魔術で足止めを」
「ええ。ですが――足止め程度で済ませるつもりはありませんよ」
アリアが片手を上げる。
その周囲の大気中の水分が、異常な速度で収束していく。
ピキピキと空間が凍てつく音が響き、頭上に巨大な水塊が形成された。
「ナギさんの元へ急ぎたいのです。……最大火力で道を開きます」
アリアの瞳が、サファイアのように青く輝く。
イオリは一瞬目を見開き、すぐに口元を緩めて眼鏡を押し上げた。
「……承知いたしました。では、魔力回路を全開に」
「援護します。身体強化・魔力収束」
イオリがアリアの背に手を触れる。
淡い光がアリアを包み込み、ただでさえ強大な魔力が、爆発的に膨れ上がる。
霧を纏ったボアたちが、本能的な恐怖を感じて一斉に地面を蹴った。
だが、もう遅い。
『穿て、紺碧の顎』
アリアが詠唱する。
それは、以前シオンとの模擬戦で使用し、精霊ディアナによって“何事もなかったかのように”防がれた大魔術。
だが、それがどれほど異常なことだったのか、この森の魔獣たちは身を持って知ることになる。
『蒼牙水龍!!』
アリアが腕を振り下ろす。
瞬間、頭上の水塊が龍の形を成して咆哮した。
高密度の水流が、全てを噛み砕く巨大な顎となって襲いかかる。
ゴォォォォォォォォッ!!
轟音と共に、森の一部が消し飛んだ。
突進していたボアたちは、霧の防御ごと水圧でねじ切られ、断末魔を上げる暇もなく消滅する。
地面は抉れ、木々はなぎ倒され、後には更地となった一直線の道だけが残されていた。
圧倒的な破壊力。
これこそが、学院の1学年序列一位、アリア・フェンリズの実力だ。
「……ふぅ」
アリアが乱れた前髪を払いながら息を吐く。
周囲に敵の気配は微塵も残っていない。
「お見事です、アリア様。相変わらず、素晴らしい威力で」
「イオリの支援があったおかげですよ。……さぁ、行きますよ」
アリアは抉れた大地を一瞥もせず、歩き出す。
その背中は、頼もしく、そして少しだけ急いているようだった。
「待っていてください、ナギさん、アリス。今すぐ迎えに行きますから」




