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(……聞いていた話と、全然違う)
ティコ・グレイは、冷や汗を拭うのも忘れて周囲を見渡した。
ここは遺跡の最深部、通称「特S区」。
学院の機密資料には、『単独行動厳禁』『生存率不明』『王級契約者二名以上での探索を推奨』といった、物騒な文言が並んでいたはずだ。
特S区とは、魔境だ。
一歩踏み込めば死が待っている、人の理が通じない場所。
――なのに。
結界はすでに破られ、凶悪な魔物の痕跡も薄い。
地面には戦闘の爪痕すらほとんど残っておらず、ただ静寂だけが広がっている。
道は、あまりにも――普通だった。
まるで、誰かが丁寧に掃除をした後の廊下のように。
「……あの、エリナ先輩?」
ティコはたまらず足を止め、前を歩く背中に声をかけた。
「なに?」
エリナ・クロウリーは、足を止めずに答える。
その歩調は、散歩でもしているかのように軽い。
「特S区って、もっとこう……阿鼻叫喚的な場所じゃありませんでした?
空が淀んでて、魔物の咆哮が絶えなくて、一寸先は闇みたいな……」
「以前の調査記録では、そう書かれているな」
即答だった。
「では、なぜこんなに平然と――」
「妾がいるからじゃ、若いの」
「だから、この人もだれなんですか!」
反射的にツッコミを入れてから、ティコは後悔した。
エリナの隣を歩くその少女。
見た目は十歳前後。豪奢なゴシックドレスに身を包み、日傘を優雅に回している。
どう見ても、迷い込んだ貴族の令嬢だ。
だが、振るわれる魔術はどれも規格外だった。
つい先ほど、上空から襲来したワイバーンの群れ。
特S区の変異種であり、通常の王級精霊でも手を焼く相手だ。
それが、一瞬で霧散した。
詠唱も、溜めもない。
少女が指先をクイクイと動かしただけで、ワイバーンたちは内側から弾け飛び、血の霧になったのだ。
ただ――消えた。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
(……あ、これ触れちゃいけない人だ)
ティコの生存本能が、激しく警鐘を鳴らす。
彼女は、そっと視線を逸らした。
そして、助けを求めるように隊列の最後尾を見る。
そこには、シオンがいた。
学院の制服姿。手ぶら。
とても特S区にいるとは思えない軽装だ。
周囲を警戒している様子はない。
だが、無防備とも違う。
ポケットに手を突っ込み、ただ淡々とついてきている。
まるで――
こうなることを、最初から知っていたかのような落ち着き。
(……この生徒も、なんでこんなに平然としてるの?)
嫌な予感だけが、静かに積もっていく。
◆
呼び出しは、突然だった。
数時間前、学院の職員室。
前置きも、理由の説明もなく、シオンはそこに呼ばれた。
「特S任務に同行してもらう」
エリナ・クロウリーは、書類から顔も上げずにそれだけを告げた。
「……理由を聞いても?」
シオンが尋ねると、エリナは一瞬だけペンを止め、視線を伏せる。
「ナギの一件、当事者だから、と思ったか?」
「……多少は」
その答えに、エリナは小さく首を振った。
「違う。あれは理由の一つに過ぎない」
そして、顔を上げ、はっきりと言った。
「敵が強い。それに対処できる人間が、必要だ」
声は静かだった。
だが、その瞳には拒否を許さない光があった。
選択肢は、最初から用意されていない。
「エリナ……先生も、十分強いでしょう」
「保険だよ。最悪の場合の」
一拍置いて、続ける。
「それに――今回は教師としてではない」
エリナは、真正面からシオンを見る。
その纏う空気が、教師のそれから、鋭利な刃物のような気配へと変わる。
「エリナ・クロウリーとして任務を遂行する。そのつもりでいてくれ」
それ以上、説明はなかった。
シオンも、問い返さなかった。
彼女がその顔をする時、事態がどれほど面倒かを知っていたからだ。
静かに暮らしたいという願いが、また一つ、後回しにされた瞬間だった。
◆
(先輩は強いって言ってたけど……この人、まだ生徒でしょ?全然、戦闘に参加してないし……)
ティコはチラチラとシオンを見る。
魔力を感じないわけではない。だが、特S区で通用するとは思えなかった。
「なんじゃ、若いの」
いつの間にか隣にいた少女――シャルロッテが、にやりと笑う。
赤い瞳が、楽しげに歪む。
「妾に手柄を取られるのが、そんなに不満かの?」
「……え? いや、その……」
「シャルロッテじゃ。自己紹介なら、もう済んでおろう?」
「ええ、もちろん存じてます。ただ……」
ティコは正直に口にした。
「そんなに高位魔術を連発していて、魔力切れとか大丈夫なんですか?」
「くくっ、愚問じゃな」
シャルロッテは鼻で笑う。
「問題ない」
即答したのは、前を歩くエリナだった。
「君も一応“こちら側”の人間だ。あの程度で驚いていては困る。それに、あれくらいなら私でもできる」
「あは……あはは……」
乾いた笑いしか出なかった。
“こちら側”と言われても、レベルが違いすぎる。
エリナとシャルロッテは、まるでピクニックに来たかのように、小蝿を払う動作でSランク級の魔物を消し炭にしていく。
念のためS区に転移し、そこから歩いてきているが――
最初から特S区へ直行しても問題なかっただろう。
前の二人があの調子なため、ティコは仕方なくシオンに声をかけた。
せめて、常識的な会話ができそうな相手と話したかった。
「シオンくん……で合ってるかな?
私はティコ・グレイ。君の通う学院の先生。新任だけど」
「シオンです。お手柔らかに」
「……………………」
会話が、続かない。
シオンの視線は前方に向いたままだ。
ティコは必死に話題を探す。
「なにか考え事?
よかったら先生が相談に――」
「確かに考え事はしてますけど」
シオンは、淡々と遮った。
「先生には無理な話だと思うんで、大丈夫です」
(ムカッ!)
ティコの額に青筋が浮かぶ。
いくらなんでも、生徒にそこまで舐められる謂れはない。
「へ、へぇ……随分な言い方ね。
言っておくけど、私だって伊達に先生やってないわよ?
私の契約精霊、王級なんだけど?」
ティコが少し胸を張る。
王級。それはこの世界における実力者の証だ。
「あんまり張り合うなよ、ティコ」
エリナが戦闘の合間に、振り返りもせずに言う。
「お前の精霊程度じゃ、シオンに手も足も出ない」
「なっ……!?」
「そうじゃ、若いの」
シャルロッテも同意するように頷く。
「自分から死地に踏み込むものではないぞ。
赤子がドラゴンに噛み付くようなものじゃ」
「……でも、学院の生徒なんですよね?」
ティコは食い下がる。
王級としての誇りが、それを認めさせなかった。
「そこまで言われると、私のプライドが――」
「そんな安っぽいもの、今すぐ捨ててしまえ」
シャルロッテの声が、低く沈んだ。
冷気のような圧力が、ティコの肌を刺す。
「さもなくば、すぐに自分の言葉を後悔することになる」
「……それはどう――」
言葉が、途切れた。
ドサッ、と何かが落ちてくる音がしたわけではない。
ただ、世界の色が変わった。
影が、落ちた。
太陽が遮られたような、巨大な絶望の影。
地面が、遅れて震える。
ズズズズズ……と、大地そのものが悲鳴を上げ始めた。
「これは……」
エリナが、足を止めて前を見る。
その表情から、余裕が消えていた。
「……予想よりも大きいな。私たちでも倒せなくはないが……かなり消耗する」
そして、静かに言った。
「シオン。いけるか?」
ティコは、まだ全体像を理解しきれていなかった。
ただ、目の前にある“山”を見上げていた。
「ほう。【古代龍】か」
シャルロッテだけが、楽しげに笑う。
「これは、なかなかの奴じゃの。数千年は生きておる魔力の塊じゃ」
『貴様ら……よくも我が版図を踏み荒らしてくれたのう』
空気を震わせる声。
見上げれば、金色の瞳が四つのゴミを見下ろしていた。
全身を黒曜石のような鱗で覆った、神話級の怪物。
◆
「ひ、ひぃぃいいい!」
ティコは腰が抜けそうになるのを必死で堪えた。
王級? 役に立つわけがない。
これは、人間が相手にしていい存在ではない。
「狼狽えるな。狙われるぞ」
エリナが、短く檄を飛ばす。
すでに臨戦態勢に入っているが、その額には僅かに汗が滲んでいる。
「シオン、いけるかの?」
シャルロッテは、すぐ隣で様子を見守る。
彼女もまた、シオンの実力を疑っていない。
シオンは、古代龍を見上げたまま、ポケットから手を出した。
そして、一瞬だけ視線を逸らし――
ボソリと、呟いた。
「……悪い。今、ディアナはいない」
「……なに?」
「なんじゃと!?」
エリナとシャルロッテの声が重なった。
ゴオォォォォォォォォォォッ!!
古代龍が、口を大きく開ける。
喉の奥で、極大のブレスが輝き始めていた。
空気が、完全に張りつめた。




